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初恋26

今、「紗和」と言った。


五年ほど前にマスコミで騒がれた彼女を、翔平君は今でも気遣っているとわかる。


それに、これまで翔平君が恋人と一緒にいるところを見たことはあっても、名前を呼び捨てにするのを聞いたことはなかったと、今頃気付いた。


声音の優しさや、抵抗なく「紗和」と呼び捨てにする様子からも、ふたりの関係の親密さを感じた。


私が就職活動中の大学生で、自分の将来を考えることだけで必死だったあの頃。


翔平君にとっては仕事で大きな賞を獲ったあと、つぎつぎ舞い込む仕事にやりがいを見出していたに違いないあの頃、三崎紗和さんとの噂がマスコミを賑わせた。


その後あの事故にあい、仕事に関してはマイナスの影響はなかったとはいえ、翔平君と彼女との噂が途絶えた。


あの事故を境にふたりに大きな変化があったのだろうか。


今、私の隣りでのんびりコーヒーを飲んでいる翔平君は、当時を思い出しているようには見えないけれど、本当はどうなんだろう。


今でも三崎紗和さんのことが心に残っているのだろうかと、切ない気持ちが生まれたけれど、意外なことに、それは私の心を微かに揺らしたあと、すぐに消え去った。


テーブルに並んで座る私と翔平君の距離はお互いの体温を感じられるほどに近く、視線を向ければすぐそれに応えてくれる。


「ん? 萌は昔からよく食べるし、貧血に縁はないよな。エビフライ、何尾食べたんだ? さっき小椋君からも分けてもらってただろ?」


翔平君は『紗和』とつぶやいたのと同じ、落ち着いた声で私の顔を覗き込む。


そして、エビフライを食べ終えたお皿と、私の口元を交互に見たあと、紙ナフキンを手に取った。


あ、もしかして、また。


紙ナフキンを持った翔平君の手が私の口元に近づくのを見ながら、今日もタルタルソースが私の口元を彩ったに違いないと確信する。


きっと、子どもの頃の私を思い出して心の中で笑っているのだろう。


からかいがちな翔平君の瞳を見てもそれは明らかで、私は口元を翔平君に近づけ、その手元を待った。


「あまり化粧をしてなくて良かったな。こうして拭いても拭かなくても、子供の頃のままだ」


「……すみませんね。変わらなくて」


私の口もとをきれいにしてくれた翔平君は、そのまま私の耳元に唇を寄せる。


そして、人前で何をするのだろうかと驚く私に構わず小さな笑い声を上げた。


「口もと、なめても良かったんだけど?」


私にしか聞こえないささやきに、あっという間に体は熱くなる。


居心地悪そうに俯いた私を小椋君や久和さんたちが気にかけ、私と翔平君を交互に見やると。


途端、生ぬるい視線を一斉に投げかけられるのを感じた。


「ほんと。これまで見てきた水上翔平はどこにいるんでしょうね。これじゃ恋人にメロメロの単なるイケメンじゃないですか」


斉藤さんがうなるような声でそう言うと、久和さんは落ち着いた様子を崩さず頷いた。


「私がよく知る水上翔平とも、違いますね。知っている中で、今の彼が一番いい顔をしていますよ。それに単なるイケメンという言葉、言い得て妙ですね」


翔平君は、ふたりの言葉に口もとだけで笑みを返し、とくに何も答えなかった。


イケメンだと言われ慣れているのかな、きっとそうだろうと、ひとり納得する。


人気モデルの三崎紗和さんと並んだ姿を思い出しても、決して彼女に負けていない容姿を見せびらかすように笑っていた翔平君。


美男美女なんて平凡な言い回しだけど、それ以外思いつかないほどお似合いだったな。


過去を思い返しながら、同時に胸の痛みが溢れ出すのを覚悟しても、今回もそれほど苦しむことはない。


どうしてだろう、これまでなら翔平君の過去の恋愛を思い出すたび切なくて体が痛みを覚えたというのに。


思いを伝え合った効能なのかな。


私って、単純だ。


「萌」


ひとり脳内をフル稼働させて考えていると、翔平君が、テーブルの下にある私の手を握ってくれた。


私の膝の上で重なり合う手を見れば、大人げない照れくささを感じてしまう。


「……翔平君?」


そんな照れくささを隠しつつ、顔を上げれば。


「萌」


「うん……」


「呼び捨てに意味はないから。……萌以外」


私だけに聞こえる、小さな声が、再び耳元に落とされた。


そして、翔平君はさっき私がお皿に落としてしまったブロッコリーをフォークで刺し、私の口元に近づけた。


「え、翔平君、あの……自分で食べるし」


「いいから」


翔平君は慌てる私の言葉を無視し、ブロッコリーで私の唇に軽く触れた。


仕方なく、私は口を開き、パクリと食べる。


それを見ている周囲の目が気になって仕方がないけれど、翔平君はどこ吹く風だ。


「呼び捨てなんて、大好きなブロッコリーを落とすほど大したことじゃない。呼びかたはどうでもいいんだ。萌の名前を呼ぶときにしか気持ちをこめてないから」


さっき、翔平君が三崎さんを「紗和」と呼んだだけで私が動揺したこと、気づいてたんだ。


「紗和と呼び捨てにするのは俺だけじゃない。大学時代からの仲間はみんなそうだ。


彼女の好みや体質を知っているのも同じ。俺でなくても斉藤さんには同じことを伝えてるはずだ」


「学生時代から?」


「そうだ。学部は違うけど、サークルで知り合って、それからの長いつきあいだ。彼女がモデルのオーディションに落ち続けていたのも間近で見てきたし。あいつ、落ちるたびに仲間みんなに召集かけては豪快に飲んでたな」


当時を思い出したのか、翔平君はくすりと笑い、肩を揺らした。


「あの大学に入ったのもオーディションのとき審査員の注目をひくためだったんだ。見た目だけでなく、高学歴という個性もオーディションでは有利に働くって思ったらしいぞ」


高学歴と簡単に言うけれど、翔平君や三崎紗和さんが卒業した大学は国内で一番難しいと言われている大学だ。


小椋君も卒業しているその大学は、医者や弁護士はもちろん、官僚や政治家を多く輩出し、あらゆる分野の世界的権威と呼ばれる人がたくさん卒業している。


自分がモデルとして成功するための個性のひとつとして入学したなんて、信じられない。


相当勉強しないと実現しないし、そのために犠牲にした時間はかなりのものだろう。


翔平君だって、高校三年の一年間は我が家で夕食を食べたあと勉強している姿をよく見たし。


「紗和はそうやって努力して今のポジションを手にしたんだ。今回初めて映画で主演を務めるけど、それは彼女の努力によるもので運だけじゃない。最近はなかなか会う機会も減ったけど、彼女だけでなく当時の仲間たちとは今でも付き合ってるんだ。だから、紗和のバックアップ、よろしくお願いします」


翔平君は、視線を斉藤さんに向けて、軽く頭を下げた。


「え、僕が三崎さんに同行するかどうかはまだ決まってないので、あの」


突然三崎紗和さんをよろしくと頼まれた斉藤さんの声はかなり焦っていて、久和さんと翔平君を交互に見ている。


よっぽど海外に行くのが嫌なようだ。


「三崎さんと同級生なんて、羨ましいですよ」


焦っている斉藤さんの隣りから、久和さんの落ち着いた声が響いた。


「三崎さんと最近お会いしたんです。映画のスポンサー企業としての役得だと思えるほど綺麗な女性でした」


温かい笑みを浮かべ、久和さんが何度か頷いた。


久和さんの女性についてのコメントを聞くなんて、初めてかもしれない。


女性に限らず誰に対しても懐広く、寛容な向き合い方をする久和さんが「役得」だとまで言うほどの女性。


見た目が綺麗なのはもちろん知っているけれど、彼女にはそれ以上の魅力があるに違いない。


翔平君が頭を下げてまで斉藤さんにお願いするほどの、女性だ。


直接言葉をかわしたことはないけれど、ふたりが学生時代、翔平君と寄り添い笑い合いながら歩く後ろ姿は、遠目からでも目立っていた。


そういえば、今翔平君が口にしたように、ふたりだけでなく数人で過ごしている様子を目にすることも多かった。


居酒屋や、映画館のロビー、そういえば安いものが多いと有名な商店街を楽しげに歩く姿も見たことがある。


見た目の華やかさにそぐわない気楽な場所で寛ぐ彼女の楽しそうな姿は綺麗だったなと思い出す。


というより、そういう庶民的な場所で見る彼女はとても楽しそうで好感がもてた。


そして、その傍らにいつも翔平君がいたかといえばそうではなかったようにも思う。


翔平君が口にした「仲間」たち。


決していつも翔平君とふたりきりではなかったことに、ふと気づいた。


たしかに三崎紗和さんを偶然見かけた回数なんて数年間で両手で足りるほどだけど、その記憶のすべてに翔平君がいたわけではなかった。


まだまだ成長途中である中高時代の私は、すでに大人の女性として輝いていた彼女を意識し過ぎて敏感になっていたのかもしれない。


彼女の姿を見るだけで翔平君と結び付けては勝手に悲しみ苦しんでいたような。


もしかしたら、三崎紗和さんは、翔平君にとっては特別なひとというわけではないのだろうか。


はっと気づいたことに体が反応し、視線を上げて翔平君を見ると。


「紗和にとって、僕は栄誉ある踏み台だったんですよ」


久和さんや斉藤さんたちに向かって、あっけらかんと話す翔平君の穏やかな顔があった。


「彼女のイメージを守りたいので詳しくは言えないんですが、彼女は俺に『女優になりたいから水上実乃里さんを紹介して』って直球で迫ってきて。コネでもなんでも、使えるものは利用するって言いきる姿があっぱれだったんですよ。母さんもそんな男前の紗和を気に入って、努力する場をいくつも提供したんです。事務所を紹介したり、オーディションの話があれば紗和に伝えて受けさせたり。母さんが紗和をひいきしたり意味なく後押しすることもなかったんですけど、何かと面倒をみてたんです。それから5年、彼女の努力が実を結んだのは皆さんもご存じのとおりです」


きっと、三崎紗和さんのことを自慢に思っているんだろう。


嬉しそうに目を細めている翔平君の横顔からは、誇りのようなものも感じられる。


それにしても、翔平君と彼女には何もなかったんだろうか。


踏み台って言ってるけど、単なる友達だったのかな。


あんなに綺麗なひとが近くにいて何もなかったなんて、信じられないけど、そうであれば嬉しい。


「紗和は、恋愛なんて後回しにして自分の夢に向かって突っ走ってきた、いいオンナなんですよ……あ、萌の次にですけど」


「な……」


からかっているとすぐにわかるその言葉につられて向けられる、周囲の視線が恥ずかしすぎる。


私はそのまま俯いて、動けなかった。


ただ、翔平君と三崎紗和さんとの間に何もなかったと遠回しに教えられた気がして、心がじわり、ほっとした。








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