初恋23
助手席の背に体を預けふっと息を吐くと、何故か残念な気持ちが湧き上がってくる。
エビフライのタルタルソースの話をしているうちに翔平君の様子が妖しくなって、どこか艶っぽく物憂げで。
もちろんこれまでの経験値の差だろうけれど、わたしにはどう応えればいいのかわからないくらいときめいてしまった。
私の気持ちを盛り上げるだけ盛り上げて、期待させたというのに、結局キスのひとつすらしてくれなかった。
「……なんだか、もう」
翔平君はずるいと、心でため息を吐きながら、つぶやいた。
狭い車内だから、翔平君に聞こえたはずだというのに、そっと運転席を見れば。
楽しそうに運転している横顔があった。
そのすっと通った鼻筋と、形がよすぎる顎のラインに見惚れながら、私は指先を口元にあて、翔平君の温かさを思い返していた。
打ち合わせは「井上印刷」の一階ロビー。
年中無休の工場は二十四時間体制で稼働している。
郊外にあるこの工場は緑の多い敷地内にあり、工場で働く従業員のほとんどが自動車通勤らしく、駐車場もかなり広い。
工場入口で守衛さんに通行証をもらって駐車場に向かい、広いスペースの端に翔平君は車を停めた。
「降りてまっすぐ行ったら玄関ロビーだけど、俺も一緒についていってやろうか?」
「は?」
「いや、俺は何度も来たことあるし、顔見知りもいるはずだから、挨拶しておこうかと」
シートベルトを外し、翔平君はそう言って頷いた。
「それに、萌の事務所の人がいたら挨拶しておくぞ?」
「え、挨拶って、どんな?」
「いつも萌がお世話になっておりますって」
「い、いいよ、いい。挨拶なんて恥ずかしいし、おかしいでしょ」
それが当然だとでもいうような顔をしている翔平君に慌てて首を横に振った。
事務所の人はたしかに来るけど、翔平君が挨拶するなんて不自然でおかしすぎる。
「翔平君、もしかしてだけど、私のこと、タルタルソースを口につけていた頃の小学生だと勘違いしてない?」
「冗談だよ。萌の同僚の人たちへの挨拶は、結婚式のときに存分にするから今日はやめておくか」
「結婚式……」
突然翔平君の口から出た言葉に驚きつつ、再び顔が熱くなる。
翔平君との距離が縮まって、隣にいられる未来を考えられるようになったとはいえ、結婚という具体的な言葉にはどう応えていいのかわからない。
もちろん翔平君との未来に結婚という通過点を必ず手に入れたいとは思っている。
とはいってもここ数日の間に一気に動いた関係に右往左往している自分がいるのも確かで。
結婚というものに現実味を感じられずにいる。
けれど、こうして間近に翔平君がいると、今すぐお嫁さんにしてほしいなと願う自分もいるし、今の私は翔平君とのことばかりを考え過ぎていっぱいいっぱいだ。
「結婚式のスピーチはきっと別府さんだろうな……あの人萌のことを相当気に入ってるし、仕事もやめさせないだろうし」
「翔平君?」
熱くなった頬と、結婚という言葉にあたふたしている私をぼんやりと見ながら、翔平君がぽつりとつぶやいた。
今、別府さんと聞こえたけれど、そこまで二人は仲がいいのだろうか。
「なんでもない。萌のことをお嫁さんにするための段取りをしてただけだ。あ、俺は、車はここに置いて向かいのファミレスにいるから、終わったら来いよ」
「あ、うん。わかったけど」
相変わらず「私のをお嫁さんにする段取り」という、意味不明且つじわじわと嬉しさが満ちてきそうな言葉に反応した。
翔平君が、私との結婚を具体的に考えてくれているんだと感じてうきうきするあたり、私もやっぱり夢見る女の子だ。
恋する気持ちに素直になって、このまま翔平君と一緒にドライブにでも行きたくなるけれど、そうもいかない。
私は気持ちを切り替えるように翔平君に笑って見せた。
「じゃ、行ってくる。連れて来てくれてありがとう。助かった」
後部座席に置いていた鞄に手を伸ばし取ろうとすると、一瞬早く翔平君の手がそれを掴み私に渡してくれた。
「あ、ありがとう」
「長く使ってるんだな。それ、就職祝いに俺が買ってやった鞄だろ?」
「うん。資料はたくさん入るしノートパソコンもちゃんとおさまるし、使いやすい」
使いやすさ重視のシンプルなカバンだけど、翔平君が普段使っているものと同じブランドのものだと聞いて、大喜びしたのを覚えている。
五年近く使ったせいか持ち手も多少傷み、クリアな茶色も日焼けで変色している部分がある。
「そろそろ新しい鞄を用意してやるよ。せっかく大きな仕事を任せてもらえるようになったんだ、持ち物にも気を遣わなきゃな」
「ううん、気に入ってるからこれでいいよ」
膝の上に置いた鞄をじっと見ている翔平君は私の言葉が気に入らないようだけど、せっかく私仕様に馴染んだ鞄だから、まだまだ現役続行、使い続けるつもりだ。
「じゃ、行ってくるね。待たせて申しわけないけど、なるべく早く終わらせるように頑張る」
「俺のことは気にしないでいいから、ちゃんと納得いくまで仕事してこい」
「うん、ありがとう。今日はやり手の小椋君も一緒で、きっとスムーズに進むから大丈夫だよ」
「……あ、そ」
「翔平君?」
「……いや、何でもない。そのやり手の小椋君が待ってるんじゃないのか? 早く行ってこい」
「あ、うん。じゃあ、行ってくるね」
何故か翔平君の声音が不機嫌なものに変わり、それが妙に気になったけれど、約束の時間が迫っていたので私はそのまま助手席のドアを開けた。
そして両足を揃えて地面におろし、一度翔平君を振りかえった。
やっぱり眉間のしわが深くて、機嫌がよろしくないとすぐわかる。
どうしてなのか、聞きたいけれど今は無理だ。
私はそのまま立ち上がり、鞄を肩にかけて翔平君を見た。
すると、ふっと息を吐いた翔平君が肩をすくめて口を開いた。
「35歳の大人でも、気になることは若い頃と同じってことだよ。萌が俺のところに帰ってくる頃には、いつも通りの余裕の翔平君に戻ってるから安心しろ」
「え? ……えっと、うん」
わざと軽い口調でそう言っているような不自然さを感じつつも、それ以上聞いてほしくないと翔平君の目が訴えているのに気付き、私は曖昧に頷いてドアをしめた。
そして、工場の玄関ロビーに向かって歩き出す。
気になることって何のことだろうかと頭の中で繰り返し考えてみても、とくに思い当たるものもない。
駐車場に車を停めてから交わした言葉のいくつかを思い出しても同様で。
考えても仕方がないかと気持ちを切り替えた。
翔平君のもとに早く戻りたい。
そのためにも、そしてこれからの自分のためにも、今日の仕事に集中しよう。
とりあえず、私がドアを閉めるときに見た翔平君の表情からは不機嫌さが少し和らいでいたことに安心し、歩みを速めた。




