初恋22
『翔平君がオレンジジュースが飲みたいって言うから買いにきたけど、届かないの』
私は頬の涙をハンカチでふいてくれる美乃里さんにそう言って、握りしめていた硬貨を美乃里さんに差し出した。
『翔平君、熱があるから苦しそうなの。だから、早くオレンジジュースを飲ませてあげたいけど届かないの』
ひくひくとのどを震わせ、美乃里さんにオレンジジュースを買ってくれるようお願いしながらも、自分で買うことができないことが悔しくて、なかなか涙は止まらなかった。
大好きな翔平君の役に立てると思っていたのに、ジュースひとつ買うことができないなんて。
早く大きくなりたいと切実に願った。
そして、どうして自動販売機は子どもに優しくないんだろうと何度も心の中で繰り返した。
そんな私の気持ちを理解してくれたのか、美乃里さんは私が差し出した硬貨を受け取らず、そっと私を抱き上げてくれた。
『翔平は小さな頃からこのオレンジジュースが大好きなのよ。萌ちゃんが買ったものならいつも以上においしいはずだから、萌ちゃんが買ってくれる?』
美乃里さんに抱き上げられた私は、目の前に現れた硬貨の投入口に気づき、急いで硬貨を落とした。
そして、お目当てのジュースのボタンを力いっぱい押して、オレンジジュースが落ちるのをわくわくしながら待った。
ほんの数秒、けれど、私にとってはそれよりも長く感じられた時間が過ぎ。
ガタンという音が聞こえたと同時に美乃里さんと顔を見合わせてにっこりと笑った。
『私もすぐに行くから、萌ちゃんは先に帰って翔平にジュースを飲ませてくれる?』
美乃里さんの言葉に大きく頷いて、私は急いで家に戻った。
翔平君はきっと喜んでくれる、そして私を誉めてくれる。
その期待通り、私は翔平君に頭を撫でてもらうことができ、心底満足した。
おいしそうにオレンジジュースを飲む翔平君を見て、再びどきりとしてしまったことを必死で隠したっけ。
その後、どうして自動販売機は子どもに優しくないんだろうと、頭をひねった。
硬貨の投入口も、商品を選んで押すボタンも子どもの身長ではなかなか届かない。
ジュースは子どもの飲み物なのに、それっておかしい。
当時の私は、学校の勉強よりもそのことがやたら気になり、目につく自動販売機をしつこいくらいに観察しては兄さんに笑われていた。
今でこそ、低い位置に硬貨投入口や商品のボタンが並ぶ自動販売機は多いけれど、子どもの頃にこそ、それが欲しかった。
そして、その出来事が私の記憶に強く残り、自動販売機の設計をしたいという漠然とした思いが生まれたのだ。
私なら、もっと使いやすい自動販売機の設計ができるのにと何度も思った。
あの日翔平君がオレンジジュースを飲みほし、笑顔をみせたのを確認した美乃里さんは、私に「翔平のお世話を頼むわね」と言ってすぐに仕事に戻っていった。
我が家に滞在した時間は五分にも満たなかったと思う。
回復傾向だとはいえ、まだ熱が高い翔平君を心配する美乃里さんの表情はとても苦しそうで、何度も翔平君の頭を撫でては翔平君に嫌がられていた。
仕事の合間のほんの数分、大切な息子の顔を見に来たそのときの表情は、「水上美乃里」という女優ではなくひとりの母親のもので、私の母さんが良く見せる表情とよく似ていた。
翔平君を愛しているにも関わらず、熱で寝込んでいるときですらそばについていてあげられない申しわけなさを感じるには十分なものだった。
夕べ「親はなくとも子は育つ」と、寂しさと安堵が混じった声の切なさに触れたとき、あの日翔平君に振り払われながらも何度も頭を撫でていたときの美乃里さんを思い出した。
好きで続けている職業だとはいっても、大切な家族との時間を犠牲にした上に成り立つ特殊な職業。
きっと、もっと長い時間を翔平君と過ごしたかったんだろうな。
やっぱり、切ない。
「どうした? 神妙な顔は似合わないぞ」
「え、な、何か言った?」
「お前が考え込むとロクなことにならないから、考えるな」
くつくつ笑いながら運転している翔平君をちらりと睨んだ。
大通りを順調に走る翔平君の車は、印刷会社さんの工場へと向かっている。
私が手がけた飲料水のラベルイラストの確認をするためだけど、今日一日で決定しなければならないわけではない。
実物の色味やバランスを確認し、それを持ち帰って事務所で再度検討する。
そんな前提もあり、今日小椋君と私に課された仕事に特に大きな責任はなくて、どちらかといえばわくわくしている。
印刷会社さんとの打ち合わせは刺激も多く、勉強にもなるせいか、事務所内でも行きたいと手を挙げる人は多い。
私も何度か同行したことはあるけれど、主担当者として顔を出すのは初めてだ。
「今日の会社はそれほど堅苦しい会社じゃないし、無茶なことは言ってこないから安心しろ。逆に、俺が納期やなんかで言う無理をいつもどうにか引き受けてくれるんだ」
翔平君の優しい声が、車内に響く。
大手の印刷会社だけに、翔平君の事務所とのつながりももちろんあり、翔平君自身、顔を出すこともあるらしい。
ふと運転席を見れば、何かを思い出したのか笑みを浮かべている翔平君の横顔があった。
昨夜、というよりも明け方近くまで双方の親と一緒に飲んだあと、私の寝室でふたり並んで少しの睡眠と慌ただしい朝食を終えたあと家を出た。
ふたり、ベッドで並んで寝たとはいっても両親も別の部屋で眠っていることが気になるのか翔平君が私になにやらいろいろ。
そんなことをすることはなかった。
というか、ふたりとも疲れていてベッドに入った途端すぐに眠りに落ちてしまった。
そして今、電車で行くからいいという私の言葉を強引に無視し、翔平君の自宅に寄って車で送ってもらっている。
寝不足の翔平君に運転を頼むのは申し訳ないし、帰り道はひとりで運転することになる。
事故をおこさないか心配で仕事にならないと簡単に予想できる。
だからひとりで電車で行くと何度も言ったのに、聞く耳を持たず。
「じゃ、近くで待ってるから帰りも一緒に乗って帰ればいいだろ」
思いがけない答えが返ってきてびっくしたけれど、帰りも一緒だと思えばやはり嬉しい。
ほんの少しだけ考えるふりをして、「待たせるなんて申しわけないし、ひとりで帰れるよ」なんて言いながらも結局は、近くににあるファミレスで待っていてくれることに頷いた。
翔平君と思いを寄せ合って初めての週末だし、夕べは一緒にいたといっても双方の両親も交えての宴会だった。
できるだけ一緒にいたいと願うのは女の子としては当然の想いだろう。
女の子という年齢でもないし、翔平君にしても三十代半ばだ。
少しでも長く一緒にいたいなんて感情、幼すぎるものなのかもしれない。
けれど、私にとってはようやく実った初恋だから、弾む気持ちを抑えることなんてできないし、存分に楽しみたい。
こうして車内という狭い空間にふたりきりという状況だって、わくわくしている。
仕事が終わって一緒に帰るなんていうシチュエーションにも憧れていたし、高校生のデートのように遊園地で観覧車に乗っちゃうことも、夢見ていた。
長すぎる片思い期間にとりこぼしたたくさんのことを考えると悔しいけれど、この先翔平君と同じ人生を歩きながら、素通りしてしまったこれまでの時間を取り返していきたいと思う。
そして、翔平君が運転する車はもうすぐ目的地に着く。
時計を見れば、小椋君との約束した時間の二十分前。
時間に厳しい小椋君のことだから、既に工場に着いているはずだ。
「先方がかなり忙しくて打ち合わせは一時間以内で完了って言われてるから。それほど遅くならないと思うけど、もしもお腹がすいたら翔平君が大好きなファミレスのハンバーグを先に食べていてもいいよ」
運転席を横目に、私は明るくそう言った。
すると、ちょうど信号待ちで車を停めた翔平君が体を私に向けて口元を上げた。
子どもの頃から見慣れた柔らかい視線が私に向けられて、たったそれだけのことで車内の空気が一気に緩んでいく。
とくに緊張感が漂っていたわけではないけれど、仕草ひとつでこの場の雰囲気を変えてしまう、というよりも私の感情を上下させることができる翔平君は、すごい。
『惚れたら負け』
の意味を体感しつつ、その整った顔を間近にして、心は震えた。
「萌」
ほんの少しくぐもった声に、ぴくりと心臓が跳ねたような気がした。
「萌は、エビフライだったな。いつも俺の皿にあるエビフライを横取りしてはおいしそうに食べてた」
「へへっ。覚えてた?」
「ああ、口を大きくあけて、頬張ってはタルタルソースを口の回りにつけてたぞ」
「そ、そんなことないよ。母さんが食事の仕方には厳しかったから、ちゃんと綺麗に食べてたはず」
「ああ、おばさんはたしかに食事の仕方には厳しかったな。俺も箸使いがなってないって何度も叱られて矯正されたな。まあ、今ではそれを感謝してるんだけどな」
思い返すようにつぶやくと、ゆっくりと左手を私に伸ばしてきた。
何かを含んだような視線はまっすぐ私の口元に向けられていて、その先にある展開を予想した。
翔平君の手が私に向かって伸びてきて、そのまま後頭部に回されることを予感した私は、無意識にヘッドレストから頭を浮かせた。
手だけではなくて、翔平君の顔も少しずつ迫り、ふっと笑ったと同時に感じる翔平君の息遣い。
それがくすぐったくて、思わず小さく声をあげながら私からもそっと近づいていくと。
まさに唇が触れ合うかという寸前で、翔平君の人差し指が私の唇の端をぐいっとなぞった。
少々どころではなく、それなりの痛みを感じて目を見開いた。
「な、なに?」
慌てる私に、翔平君はしてやったりな顔で笑うと、もう一度同じところを指でなぞった。
今度は優しくゆっくりとした動きで痛くはないけれど、どうしてこんなことをするのかわからない。
そんな私の戸惑いに気付いているのかわからないけれど、翔平君は何か楽しいことを思いだしたように口を開いた。
「ここに、タルタルソースがついてたな」
「え? タルタル……」
「そう。いつもはおばさんに叱られるのが怖くて綺麗に食事しているのに、エビフライだけはそれを忘れておいしそうに頬張って食べてた」
「そんなの……忘れた」
小さな頃からエビフライが大好きで、目にした途端そこにあるもの全部を食べなきゃ気が済まなかった。
兄さんのエビフライはもちろん、翔平君のお皿にあるエビフライだって横取りしては食べていた。
翔平君だって好きだっただろうけれど、いつも私に譲ってくれた。
兄さんが怒って私から取り返そうとしていたのとは、大違いだ。
翔平君は今、そのことを思い出しているんだろう、私の口元を見ながら笑っている。
「あのときタルタルソースをつけて大きく笑ってた萌に、俺は今こんなことをするんだから、未来はわからないよな」
「え……?」
今まで私の口元に触れていた翔平君の指先がすっと離れたかと思うと、その手は予想通り後頭部に回り、勢いよく翔平君に向かって引き寄せられた。
今度こそ。
翔平君の唇を視界にとらえ、すっと目を閉じてその温かさを待っていると。
「え?」
待っていた温かさは唇の真ん中に落とされることはなく、少し離れた場所に落とされた。
それも、唇ではなく、翔平君の舌が、私の口元を軽くなめたような気がした。
私は閉じた目を慌てて開くと、戸惑う私を見越していたかのような余裕の笑顔。
「かわいい萌ちゃんのこのあたりにあったタルタルソース。あの頃はティッシュで拭いてあげたけど、大人になった萌はそれじゃ満足できないんじゃないか?」
「そ、そんなことない、けど」
「萌ちゃんの口元を拭いてあげるのも俺のひそかな楽しみだったけど、もうそれだけじゃ俺も満足できないから」
「う、うん」
次第に真面目な顔つきに変わる翔平君に気圧されるように、私は何度も頷いた。
「夕べはとんだ邪魔が入ったけど、今日はちょっと大人の萌ちゃんを楽しみにしてるからな」
さっき翔平君の舌がふれたあたりを、今度は指先がするりと撫でて、私の体はぴくりと揺れた。
低い声と潤んだ目に攻められているようで、体が固まった。
間近にある翔平君の唇を思わず見つめ、いわゆる「大人の萌ちゃん」は、次の展開を待ってしまう。
今、指先で触れられたあたりがやたら熱くて仕方がない。
すると、翔平君が一瞬で表情を和らげ、私の額を突いた。
「そんな顔して煽ってもだめ。萌のほっぺは赤いけど、信号は青に変わるから、続きは今晩」
「え……」
翔平君は、肩を震わせて笑いながら再びハンドルに手を置きアクセルを踏んだ。
窓の向こうに見える緑豊かな景色が流れ始める。
「な、なんだ……」
一瞬、キスしてこのままどこかに連れて行ってくれるのかと錯覚したけど、まさかそんなことを翔平君がするわけがない。
大人の翔平君がまさか、ね。




