初恋21
私の両親と、翔平君のご両親がそろって顔を見せたときの様子は一生忘れられないと思う。
あらかじめ我が家を訪ねてくることはわかっていたけれど、奇襲という言葉がぴったりだった。
俳優という仕事柄、もともと声にはハリがあるし立ち姿は惚れ惚れするほど綺麗で、何を言ってもどんな仕草を見せても視線を集める魅力を持っているけれど。
昨夜の美乃里さんたちはこれまでになく勢いづいていた。
私の家のリビングにばたばたと入ってきたかと思えば。
『もう、翔平の動きが遅いから、突然現れた男性に萌ちゃんをかっさらわれるところだったじゃない』
『惚れた女を手に入れられないなんて、男としてどうかと思うぞ。萌ちゃんだって翔平を想って待ってたんじゃないのか? 女を待たせるなんて、俺には理解できん』
翔平君のご両親が呆れた口調で翔平君を責めた。
幾つもの荷物を部屋に運び込んだのはいいけれど、それを床に置いた途端翔平君に詰め寄り、厳しい言葉を投げかけていた。
どうして私ともっと早く結婚しなかったのか、という意味あいの言葉ばかりで、翔平君はそれらを聞きながら、面倒くさそうに頷いていた。
何故か私を気に入ってくれている翔平君のご両親は、昔から何度も口癖のように「我が家にお嫁に来て私たちの娘になってね」と言っていた。
私が翔平君を好きだということは誰の目にも明らかだったようで、私が照れて「そんなこと無理です」と俯くたび、翔平君の説得なら任せてと言って力づけてくれたけれど。
説得しなければ私の気持ちが報われないのなら、幸せになれるわけもない。
私は私の想いと行動で、翔平君の気持ちを手に入れたいと考えていた。
けれど、そんな思いは翔平君に綺麗な恋人が現れるたびに砕かれていき、世間をよく知らない若い頃ならまだしも、年を重ねていくにつれて弱気な心が芽生えていた。
それでも翔平君への恋心を捨て去ることも諦めることもできなくて、ひたすら、必死で想いをつないできた。
翔平君と気持ちを重ね合わせた今だから冷静に振り返ることができるけれど、私って、本当に頑張ったなと、思う。
二十年近くの長い片思い。
翔平君のご両親が手放しで大喜びしている様子を見ながら、それは奇跡のようなものだと震えた。
翔平君のご両親の興奮し過ぎる様子に気圧されたのか、私の両親は少々戸惑いながらも私と翔平君に「萌のねばり勝ちね」と言って笑った。
『本当に萌でいいの? 一度結婚したら簡単に返品はできないのよ。萌の気持ちに押し切られての結婚だったら、翔平君は幸せになれないわよ』
一途といえば聞こえはいいけれど、しつこいと一喝されてもおかしくない私の強い気持ちを知っていた両親は、翔平君の行く末を気遣い申し訳なさそうにしていた。
少々傷つきながらも私もその言葉には納得でき、へへっと笑って翔平君に肩をすくめてみせた。
『萌が俺を諦めずにいてくれて、良かったと思ってます。でもきっとこれからは、どんどん成長していく萌を俺が必死で追いかけていくはずです』
両親への気遣いが感じられる翔平君の言葉に照れたのは私だけではなく、私の両親、そして翔平君のご両親も同様で。
迷いのない強い視線を私に向ける翔平君に、翔平君のお父さんは。
『お前、そんなセリフ格好よすぎるだろ。俺より俳優に向いているぞ』
肩を揺らしながら笑ってそう言った。
その笑い声につられて美乃里さんも笑い、私の両親もようやく緊張が解けたようだった。
そして私は、私だけの一方通行の想いではないと、はっきりと口にしてくれた翔平君の格好よさに見惚れながらも、聞き慣れないその言葉に照れくさくなった。
私の成長なんて、一体なんのことだか見当もつかないし、翔平君に追いかけられるなんてそんな幸せな未来、想像もできない。
きっと、これからも私が翔平君のあとを必死で追いかけていくに違いないし、それこそ望むところだ。
長すぎる初恋を手離さず諦めず、これまでの私の人生のどこにも翔平君の姿があるという私の頑張り。
かなりの精神力と努力が必要だったけれど、それを翔平君が「俺を諦めずにいてくれてよかった」と肯定してくれて、本当に嬉しい。
そして、これからの私の人生のどこかしこにも、翔平君がいてくれるという幸せ。
気づけば私は翔平君の背中に抱きつき、うれし涙を流していた。
そんな私の様子をきっかけに、翔平君のご両親が喜びのあまり買い込んできたたくさんのワインやいきつけのお店で用意してもらったという料理をキッチンに広げ、喜びに満ちた祝宴が夜明けまで続いた。
翌朝、私はスマホのアラームに急かされ、眠いながらもどうにか起きた。
私と翔平君の結婚を祝うという名目の宴会が終わって二時間ほどの睡眠では体もなかなか目覚めない。
ベッドの中で休日出勤なんてさぼりたいと切に願ったけれど、今日の仕事は私のこれからの立場に影響するともいえる大きな案件だ。
さぼるなんてもちろん、遅刻だって許されない。
のそりと起き上がった私の動きに気づいたのか、隣りで眠っていた翔平君もゆっくりと目を開く。
「ごめん、起こしちゃった? 私はそろそろ仕事に行くけど、翔平君は寝ていていいよ」
「いや、送っていくから」
「え? 翔平君も疲れてるから、無理しないで。電車でも行けるし、向こうの最寄駅で小椋君が拾ってくれることになってるから大丈夫」
「は? 小椋? あの同期の男? そういえば、あのリボン事件の男の子だろ?」
そうつぶやいたかと思うと、翔平君は勢いよく起き上がった。
「そ、そうだけど、よく覚えてるね」
寝起きが悪いのか、翔平君の声も表情も不機嫌全開で、軽く舌打ちする様子は試験勉強で遅くまで起きていた中学生男子が朝お母さんに無理矢理起こされて拗ねているように見える。
か、かわいい……。
パジャマ代わりの白いTシャツがしわしわによれているのも、普段は自然に流されているのに、寝癖がついて四方八方に飛び出している短めの髪も。
そのどれもが新鮮で、私の目はくぎ付けだ。
いつもの整った姿ももちろん素敵だけど、どこか脱力気味の姿にもオーラを感じられるなんて、これはもう翔平君に惚れている私の弱点かもしれない。
そして、私だけの特権でもある。
「小椋って、実はあのリボンの男の子だって、この間言ってたよな。で、自販機のデザインを任された……。ちらほら名前は聞いてるぞ。小椋愁人。うちの事務所を蹴って別府さんの事務所に行った男」
眠そうな声ではあるけれど、小椋君のことが気に入らないのかフルネームを口にしたあと何故か舌打ちまでしている。
「翔平君?」
「小学校からの付き合いだからって、調子にのってんじゃないのか?」
「あの、しょ、しょう……」
低い声が部屋に響いて、私の体がぴくりと跳ねる。
何かを思い返すようにぶつぶつつぶやく表情は俯きがちで、目元に翳りを帯びている様は雑誌の表紙のようで……。
なんてことを思いながら、どこまで私は翔平君のことが大好きなんだろうかと恥ずかしくなる。
「……シャワー浴びてくる。いいか? 俺がちゃんと送るから、その小椋君に迎えはいらないってメールしておけ。いいな」
私のふわりとした想いとは真逆の強い口調で、翔平君は私にそう言うと、ベッドを降りて立ち上がった。
「あ、忘れるところだった」
翔平君は、バスルームに行こうと数歩歩いたところで振り返ったかと思うと、あっという間に私の目の前に顔を寄せた。
「一緒にシャワー浴びたかったら来てもいいぞ」
「え? そ、そんなの無理無理」
「だな。小悪魔な処女の萌にはまだハードルが高いか」
慌てる私にくくっと笑い声をあげると、翔平君は軽く唇を重ねた。
一瞬の触れあいだけれど、それだけで夕べ母さんたちが来るまでの熱のこもったあれこれを思い出した。
そして、再び翔平君を求めるように体がほてってくる。
それだけでなく、体全部が柔らかくほぐされたような感覚を覚えて一気に力が抜けていく。
「小悪魔な萌は捨てがたいけど、処女はもうすぐ卒業させてやるからな」
「……っそ、それは、もう、よろこんでっ」
あ……。
思わず出た大きな声に、私と翔平君は顔を見合わせた。
まるで居酒屋の店員のような勢いで言った言葉が何度も頭の中で繰り返される。
束の間静かな空気が流れ、呼吸も止まったかのように思えたあと、翔平君が私の頬を指先でするりと撫でた。
「その小悪魔ぶり、俺以外に見せるなよ」
……艶めいた声を私の耳元に落とす翔平君こそ、悪魔だ。
もし私がそう言ったらきっと、翔平君は「悪魔、上等」なんて言って喜ぶんだろうな。
翔平君のご両親は、夜明け前の早い時刻に家を出て、ドラマの撮影に向かった。
ふたりは別々の事務所に所属しているけれど、長いキャリアがものをいうのかそれぞれのマネージャーがふたりの休日を合わせたり、映画やドラマなどの大きな仕事を受ける場合にも相互の予定を確認し合っているらしい。
夫婦として、そして家族としての時間を犠牲にして積み上げてきたキャリアに後悔はないにしても、多少の無理を通せるポジションに就いた今、家族との時間も楽しみたいと、そう言っていた。
お酒が入ったせいで饒舌になった人気俳優ふたり。
口から出るのは翔平君のことばかりで、まるで今も翔平君は5歳の幼稚園児のような錯覚を覚えた。
『翔平が高校生になって、いよいよ難しいお年頃で。どうやって反抗期に対処すればいいか悩んだけど、樹くんと出会って、萌ちゃんというかわいい女の子に懐いてもらえて。白石家の一員のように育ててもらったから、まっすぐに育ったのよね。おまけに国内トップの大学に進学しちゃうんだから、親はなくとも子は育つって実感して寂しかったな』
化粧を落とし、母親の顔に戻っていた美乃里さんの言葉は切なかった。
翔平君の成長を間近で見られなかった悔しさをたたえたその表情を見ていると、私が翔平君と出会った頃を思い出した。
当時、兄さんは国内でもその名前を知る人が多い超有名進学校に入学したばかりで、勉強とクラブ活動に忙しい毎日を送っていた。
同じクラスの同級生として翔平君を我が家へ連れて来たのもその頃で、同時に私の翔平君への恋心も生まれた。
ご両親の職業ゆえにひとりで過ごすことが多い翔平君は我が家で夕食を食べ、週末には泊まることも多かった。
そのことを知った翔平君のご両親は、気を遣って時々我が家を訪ねてきた。
テレビでよく見る綺麗な女性と格好いい男性を目の前にして、かなり興奮したのを覚えている。
父さんと母さんも同様で、我が家の居間に有名俳優がいることが信じられず、『夢じゃないよね』と何度も確認し合っていたことも、今では笑い話のひとつとなっている。
そんな週末のある日、いつも同様泊まりにきていた翔平君が熱を出した。
テスト勉強のために、毎晩遅くまで起きていたせいで疲れがたまっていたらしい。
ほぼ翔平君の部屋となりつつあった二階の洋室のベッドで寝ていた翔平君は苦しそうだったけれど、週末以降も我が家にいてくれると思った私は密かに喜んでいた。
何度も翔平君の様子をうかがいに部屋を覗いていた私に、翔平君はオレンジジュースが飲みたいと口にした。
熱でぼんやりとした視線を向けられて、小学生の子どもながらにどきりと震えた。
『まかせてちょうだい』
翔平君の役に立つことが嬉しくて、私はすぐに母さんにお金をもらい家を飛び出した。
我が家の近所の自動販売機で買えるオレンジジュースが翔平君のお気に入りで、私は走ってそこに行ったけれど。
『無理だよ……』
自動販売機の前で泣きそうになりながら立ち尽くしていた。
手の中にある硬貨を投入口に入れようと背伸びをし腕を精一杯伸ばしても、その自動販売機は底上げされた台の上に置かれていて、当時の私の身長では届かなかったのだ。
飛び上がってみてもギリギリのところで届かない。
一旦家に帰って兄さんを呼んでこようかと思いながらも、そうなると翔平君をもっと待たせてしまう、でも届かない。
どうしようどうしようと自動販売機の前で悩んでいると、そこに見慣れた車がとまった。
すると、シルバーのワゴン車の後部ドアがスライドし、中から美乃里さんが降りてきた。
『萌ちゃん、どうしたの?』
見知った顔を見て安堵した私の涙腺は一瞬で緩み、涙を流してしまった。
そんな私に驚いたのか、美乃里さんは慌てて私に駆け寄ってきてくれた。
そう言えば、母さんが翔平君が熱を出したことを美乃里さんに連絡したと言っていた。




