初恋19
その重苦しい様子を見ながら、私は口を挟むこともなく、続く言葉を待った。
「あの日、階段を落ちて怪我をして。特殊な仕事をしている両親を呼べないことを理由に、わざと樹に電話したんだ。そばに萌がいることがわかっていて、そして萌が俺を放り出してまで採用試験を受けにいくわけがないってわかっていながら」
「……わかっていながら、兄さんに電話した。そして、私が翔平君のもとに駆けつけたってこと?」
「あ、ああ。……見た目の出血ほど大した怪我じゃなかったから、急いで樹に連絡する必要はなかった。30分でも待てば、確実に萌は新幹線に乗ってるし、樹に連絡しても影響はないってわかってたけど」
「わかってたけど、それを待たずにかけたってこと?」
淡々と続く言葉に私は穏やかに反応する。
翔平君は、あの日の出来事を思い返しながら、つらそうに顔を歪めた。
「ずっと俺の側にいた萌を、何もしないまま手放すことはできなかったんだ。採用試験を受けて遠くに行くとしても、俺との関係をゼロにするのは許さないって、直接伝えて。できれば試験なんて受けるなって言って引き止めたかった」
翔平君は私の頬を撫でながら、私を見つめている。
「おかしいよな。八つも年下の女の子を手に入れたくて足掻いてる男なんて。気持ち悪いよな」
「そんなことない。翔平君はいつでも格好いい」
「そんなわけないだろ。萌の思い込みだ」
「あのね、何度も言ったでしょ。どんな翔平君でも私は大好きだって。あのとき命に関わる怪我をしなくてよかったし、こうして一緒にいられるだけで幸せだし」
「……幸せ?」
「そう。だって、私は今翔平君と一緒にいられて、おまけに私を手に入れたいなんて言われて、幸せじゃないわけないでしょ」
「お前……いつから男を喜ばせるようなそんな言葉を言うようになったんだ……」
私は頬の上にある翔平君の手を片手で掴み、自分から頬を押し付けた。
すりすりと何度も。
心なしか、翔平君の顔が赤くなって、照れているように見える。
それでもまだ翔平君の目の奥に不安が揺れていて、なんだか嬉しくなる。
翔平君の弱い部分や格好悪い部分を知った私が幻滅しないか、そして離れていかないか不安だったのかと、多少の優越感を覚えた。
今まで翔平君の背中を追いかけてばかりだったせいか、こうして真正面から見ることも、そっと見え隠れする感情を受け止める機会はなかった。
好きだという気持ちにだけ素直になって過ごし、そして近くに置いてほしいという想いばかりが私を動かしていたけれど、翔平君も私を好きだとわかった途端、そこからさらに深い部分が見えてきた。
「私が採用試験を受けに行くのを引き止めて、その後はどうするつもりだったの?」
自分でもびっくりするほど、落ち着いた声で、聞いてみる。
これまでなら、そんな質問をすることなんてできなかったはずだ。
自分を拒まれることなら簡単に想像できたけれど、受け入れてくれるなんて思えなかったせいか、少しでも拒まれる言葉を聞かされる可能性のある質問はできなかった。
だけど、私は単純だ。
翔平君が私を求めてくれているとわかった途端、私を喜ばせる言葉を言ってもらえることを期待してそんなことを聞いてしまう。
翔平君の沈んだ表情とは反対に、私のそれが明るいものに見えたのか、翔平君の口から微かに笑い声が漏れた。
呆れているような、それともほっとしているような。
「そうだな、あの日もしも間に合って萌を捕まえることができたら。樹が近くにいようが周りにたくさんの人がいようが、こうしていたかもな」
「え? っなに、ちょっと、翔平くんっ、んっ」
それまで静かに私の頬や首筋を撫でていた翔平君の手が私の後頭部に回されたかと思うと、あっという間に引き寄せられた。
驚く私にいたずらめいた笑みを一瞬浮かべて、そして。
「勝手に俺から離れるなって叱って、お仕置きしてたな、きっと」
下心が隠されていそうな艶のある声とともに、翔平君の唇が私のそれに重なった。
「ん……っ。や、やだ、しょう……」
「お仕置きだから、拒否権なし」
唇に感じる翔平君の熱を受け止めながら、反射的にもがいてみても、何の効果もなく。
翔平君の胸に両手を突っ張ってみても、まるで鋼の壁に抵抗しているようでびくともしない。
「もう、何を言っても何をしても無駄だ。俺が本気で手に入れるって決めたんだから、諦めろ」
翔平君は私の唇を何度も啄み、思い出したように吸い上げる。
その痛みから逃げようと顔を逸らしても、恋愛初心者ともいえる私の動きはお見通しのようで、簡単には逃がしてくれない。
逃がさないどころか浅い呼吸を繰り返す合間に開いた唇を割って、舌を差し入れてきた。
私を抱きしめる力が強くなり、体も唇もすべて、翔平君に拘束されたみたいだ。
そう感じた途端、私の全身から力が抜け、そのまま翔平君へと体を預けた。
そして誰に教えられたわけでもないのに、翔平君の動きに合わせて舌を絡ませ合い、何度も甘い声を漏らした。
恥ずかしくて声を出さないように気を付けても、翔平君はそれすら見透かしたように激しく動き、私の声を楽しもうとしている。
「萌の声、こんなときでもかわいいな」
「ん……っ、そんなこと……」
恥ずかしいし照れくさいし、慣れていないこの熱をどう逃がしていいのかもわからない。
それでも次第に体は心地よい刺激に反応し、翔平君の手がゆるゆると背中を這うたびにさらに声が漏れてしまう。
体は何度もふわりと揺れ、さらに力が抜けていく。
抱きしめられ動きを抑えられているにもかかわらず、体中から溢れ出る翔平君を求める気持ちにだけは忠実だ。
どれだけ恥ずかしい声をあげ、どれだけ翔平君の動きに戸惑いを覚えても、好きで好きでたまらない人から拘束され撫でられて、それ以上の熱い時間を欲したとしても不思議ではないはずだ。
「萌、もっと俺にしがみつけ」
深い口づけに夢中になっている私に、翔平君がつぶやいた。
「俺だけじゃない、萌だって俺を求めてるって、態度で示せよ」
「そんなの……今更、でしょ……わかってるくせに」
「わかってるのと、実感するのは違うだろ。いいから、俺を喜ばせてくれよ」
私の耳元で低い声を落とす翔平君は、そのまま耳朶を甘噛みし、首筋や鎖骨に軽い痛みをいくつも残していく。
「あ、だめ。……っ、翔平くん、キスマーク、今日ばれたから、だめ……」
昨日知らない間につけれられたキスマークは、別府所長の目にとまり、想像力を掻きたてるには十分なものだと笑われた。
その笑い声は事務所内に響き渡り、私の恋愛関連のあれやこれやはこれからしばらく話のネタになるに違いない。
これまでそんな機会がなかった私は別府所長の悪ふざけをどうかわしていいのかも、見つかったキスマークを隠さなくていいのかもわからなくて、ひたすら俯いていた。
きっと小椋くんだっていろいろと想像しては心の中で私を笑っていたはずだから。
「キスマークは、困る……」
キスに夢中になりそうな……というか、既になっている自分をどうにか叱咤して、そう口にしてみても。
翔平君は聞こえない振りで私の体を片手で抱き、もう一方の手は器用に私のブラウスのボタンを外していく。
気づけばその手がブラウスの中に入り、背中に回ったかと思うとブラジャーのホックを簡単に外した。
一気に心もとなくなった胸元を隠そうと手を動かしても、相変わらず拘束されたままのそれは胸元にたどり着くこともない。
それどころか、翔平君は私の両手を掴み、頭の上へと持ち上げた。
「萌の手はここだ」
私の手は翔平君の首に回され、自由になった翔平君の両手が再び私を抱きしめる。
「ほら、存分に俺を抱きしめていいぞ」
「え……?」
「好きな男が萌の腕の中にいるんだ。思う存分、好きに抱きしめていい」
いつの間にか私の胸元は翔平君の目にさらされ、器用に肩から外されたブラジャーがウエスト辺りに見えた。
「あ……ふっ……う」
露わになった胸を翔平君の唇が這い、その微かな刺激に声が出るのを止められない。
体が何度も跳ね、そんな自分の体を支えるように、両手で翔平君の頭を抱き寄せた。
まるで翔平君にもっと熱を与えて欲しいとねだっているような自分が恥ずかしくてたまらないけれど、絶えず私の体をたどる翔平君の唇の動きがそんな感情をおしやっていく。
初めて知る刺激に圧倒された私は、平衡感覚を失ったように意識をさまよわせながらも、この先に待っているものが何かをちゃんとわかっている。
経験がないとはいっても、今更子どものように振る舞うつもりもないし、翔平君となら、と思わないわけもない。
翔平君の頭に差し入れた私の指には、徐々に下がっていく刺激を後押しするようにさらに力が入り。
スカートのホックをさらりと解いた翔平君の指の動きを体に感じた瞬間、気持ちは整った。
「翔平君、もう三度目はないから……」
目を閉じ、体中すべてが敏感になった状態で、そう口にした。
三度目という言葉の意味を、翔平君がわかってくれるのかどうか、ちらりと不安も感じたけれど、それでもいいかと、言葉にしてみた。
「ああ。ちゃんとわかってるし、何度も後悔した。だから、もう迷わないし待たないから、萌もおもいっきり飛び込んでこい」
「ほんと?」
閉じていた目をそっと開け、視線を向けると、射るような強い瞳とぶつかった。
翔平君は、私の体を気遣いながら顔を寄せたあと、そのままソファに体を押し倒した。
そして、私の顔の両側に手を突き額を合わせた。
「萌が就職のために俺から離れていこうとしたときに、ちゃんと自分の気持ちはわかっていたんだ。こんなに愛しい女を手離すことなんてできないって、気づいていたのにそれを無視した結果があの事故だ」
「愛しい……?」
翔平君の口からこぼれる言葉ひとつひとつが優しくて嬉しくて、何度も頭の中で繰り返す。
「おまけに今回のお見合いだ。萌が就職したいって望んでいた企業との縁を断ち切ったのは俺だから、せめて萌が今の仕事にやりがいを感じて、結果を出すまでは見守るだけにしようと思っていたのに。何が見合いだ。何がエリートだ。ふざけんじゃねえ」
翔平君は、自分の言葉に気持ちを昂ぶらせたのか、荒々しく、そして苦しげな呻き声を吐き出すと、気持ちを落ち着けるように何度か私にキスをした。
その合間にも「あの男、見た目もいいし、絶対女には不自由してないはずなのに、なんで見合いなんだ」とか「次男だから萌の両親の面倒だってみるとか、条件も良すぎなんだよ」とか。
ぶつぶつ言いながら、胸の中にくすぶっている悔しさのようなものを吐き出している。
「翔平君?」
「あ?」
「あ、の。えっと、次男だったの?私のお見合い相手の人」
「何? そんなに見合い相手が気になるのか?」
「そ、そんなわけじゃないんだけど。釣書をあまり見てなかったから、そうだったんだなと思って。単なる好奇心」
「ふーん」
怒りを露わに目を細め、翔平君はわざとらしく息をついた。
私の体をソファに沈めたその顔は、まばたきのたびに揺れるまつ毛でさえ触れそうな近さにある。
きゅっと結んだ口元がほんの少し斜めに上がっているのは、昔から変わっていないと気づいた。
こんなときだというのに、それをおかしく思った自分が妙に新鮮にも思える。
翔平君と並び側にいても、今までなら少しでもその時間が長くなるよう、そのことばかりを気にしていたのに、今の私には、その口元にそっと指先を這わせ、くすりと笑う余裕まである。
「お見合い相手、倉本さんだったよね。釣書はちゃんと見なかったけど、あのイケメンのお顔は写真でしっかり確認した」
「まあ、イケメンだな。超絶イケメンと言ってもいい」
「やっぱり。お見合いするはずだった私は一度もあのイケメンのお顔を見てないのに、翔平君が会うなんて、悔しい」
「イケメン、イケメンってしつこいんだよ。そんなに見たかったら会いに行けばいいだろ」
翔平君は、声を荒げてそう言うと、私の額を指先で弾いた。
「いたっ。そんなこと言って、翔平君、私が本当に会いに行ってもいいの? イケメンぶりにときめいてもいいの?」
額の痛みをこらえながら翔平君を睨むと、翔平君は思いきり顔をしかめた。
その顔にはこれまで見てきたどの表情よりも強い感情が乗せられていて、翔平君の心にかなり近づけたような気がする。
私より八年も長く生きていて、自分の感情を胸に収めることに長けている翔平君からここまでリアルな感情をぶつけられてドキリとするなんて。
きっと、少し前の私ならその表情にびくびくして、嫌われたかなと落ち込んだに違いない。
けれど、翔平君の懐が開き、そこに飛び込む権利をもらった私には、その言葉に含まれた嫉妬がはっきりと聞き取れる。
「会いに行きたければ行けばいい。だけど、俺のほうがあいつよりもいい男だって実感するだけだ。それでもいいなら行ってこい」




