初恋18
「あ、その自動販売機の話ならうちの事務所でも何台か担当してるぞ」
「うん、それも別府所長から聞いた」
「植物の博覧会だろ? 事務所ごとにデザインする花が決まってるんだったよな」
「うん。うちの事務所は私の同期の小椋君が別府所長から指名されたんだけど。いいな。私もその仕事がしたかった」
ソファに膝を抱えて座り、ぶつぶつと言っている私に、翔平君は気遣うような視線を向けた。
「自動販売機っていっても、前面のデザインを描くだけで、萌がやりたい本体の設計じゃないだろ」
「そうだけど、それでも、自動販売機だし、一度はやってみたいし」
学生時代に目標としていた自動販売機の設計ではないにしても、こんな機会は滅多にないし、せっかくだから私が担当したかった。
だけど、別府所長が指名したのは小椋君だった。
たしかに彼は私よりも仕事で実績をあげているし、期待の若手として認知されつつある。
博覧会に関わる大きな仕事となれば、小椋君が指名されることに誰も文句は言わないはずだ。
だから別府所長の判断は当然と言えば当然で、そのことに異論はないけれど、それでも残念な気持ちがなくなるわけでもない。
「今でも自動販売機の設計をしたいと思ってるのか?」
翔平君が、探るような声で私に問いかける。
「かなり深刻な顔してるけど、まだあの会社に未練があるのかと思ったんだけど」
「そりゃ……。未練というか、あのときの悔しさが忘れられないっていうか……」
「悔しさ?」
「うん。私ならもっと、誰にでも使いやすいというか、抱っこしてもらわなくてもっていうか」
「は?」
「だから、私ならもっと使いやすい自動販売機を設計できるのにってあのとき感じて、それからずっと」
抱えた膝の上に顔を乗せて、小さな声でぶつぶつ言っている私に、翔平君は訝しげな表情を向ける。
「何言ってるんだ? 抱っこって、俺がしたのか?」
「ううん。美乃里さん……あ、別になんでもない。小さな頃の私の恥ずかしい思い出だから気にしないで」
小さな頃を思い出してつい口を突いて出た言葉に恥ずかしくなった。
あの日ぽろぽろ泣いていた私は、美乃里さんに抱き上げられ、優しい声でなぐさめられたっけ。
あのことは、これまで誰にも話したことはないし、美乃里さんも忘れているのかとくにそのことが話題にのぼったこともない。
私がまだ小学生だったそのとき、私は自動販売機の設計をしたい、いつか絶対にするんだと誓った。
今思い返せば、曖昧ながらも自分の将来を考えたのはあのときが初めてで、それ以来ずっと、自動販売機のことは頭にあった。
大学でそれに関する勉強をしたのもいずれ自分の夢を叶えるためだったけれど、結局その方面に縁はなく、こうして翔平君と同じ世界で仕事をしている。
たしかに当初の夢からはズレてしまったけれど、こうして翔平君の側にいられる未来を手に入れたのだから、小学生の頃の私も納得してくれるだろう。
「それにしても、やっぱり私はしつこいんだな」
翔平君を想い続けてきたように、自動販売機の設計をしたいとも長い間願っていた。
自分のことながら、そのしつこさに苦笑してしまう。
私のその表情を翔平君はどう受け止めたのか。
「長く今の仕事を続けていれば、いつか萌だって自動販売機に関わる仕事ができるさ」
翔平君は私の隣りに座ると、気遣うようにそう言って、頬をすっと撫でてくれた。
「もしかしたら、そのチャンスはすぐそばに……」
「え?」
「いや、何でもないんだ」
翔平君はひとり何かをつぶやいたあと、それを慌ててごまかすように声をあげた。
そして、すっと表情を変え、口元を引き締めた。
「萌、今、もしも……いや、いい」
「翔平君?」
私が自動販売機の話をしたせいで、気を遣わせてしまったのかと、申し訳なく思う。
翔平君は今でもまだ、私への複雑な思いを抱えたままなんだろう。
たしかに私は今もまだ自動販売機に関わる仕事には興味があるし、その話題になると敏感に反応してしまうけれど、それはきっとこれからも続くに違いない。
引きずっているわけではないけれど、子どもの頃から抱いていた夢はやはり特別で、心の中にいつまでも居座るに違いない。
けれど、結局こうして翔平君と一緒にいられればそれが私の一番の幸せなんだから、それを翔平君にわかってもらいたいなと、思う。
その日、仕事のあと実家に顔を出す予定だったけれど、終業時刻を少し過ぎた頃、母さんからメールが入った。
『日付が変わる頃になるけど、美乃里さんたちと萌のマンションに行くから、待ってて。なにかとうるさい樹は出張で来れないから安心を。あ、翔平君ももちろんそっちにいるでしょ?』
いつもながら、私の予定をまったく無視した文面に苦笑しつつ、私は実家ではなく自宅に帰った。
仕事が不規則な美乃里さん夫妻が来るのなら、日付が変わる頃に来るというのも冗談ではないだろう。
昨日からの驚くべき展開についての話し合いになるのは予想できるけれど、妙に落ち着かない。
母さんからのメールの続きには、お見合い相手の男性や世話役の方には既にお詫びを入れたから、これ以上謝罪の挨拶だのなんだのと騒ぐなと書いてあった。
相手の方と実際に会う前にお断りをいれたし、お見合いという性質を考えても、断ることにそれほど罪悪感を感じなくてもいいとわかり、ほっとした。
ほっとしながらも、今の状況を現実のものして受け止められていないのも事実だ。
翔平君と気持ちを添わせたことにまだ実感がわかないことがその一番の理由だ。
いつになれば、私は翔平君との関係を未来あるものだと心から思えるのだろうかと。
嬉しさに照れながらもふつふつと考えてしまう。
長かった片思いのエンドマークが打たれたというのに、まだまだ実感がなくて、それでも翔平君を思えば体は火照り始めるし。
これが両想いということなのかと、ひとり口元を緩めている。
そして、深夜に近い時刻、仕事を終えた翔平君が今夜も我が家に来てくれた。
美乃里さんから連絡が入ったときに、「萌とふたりの時間を邪魔するなよ」とぶつぶつ言っているのもかわいい。
一旦家に帰って着替えたらしく、ジーンズ姿はなかなか新鮮だ。
何が入っているのだろうかと目がくぎ付けになった大きなカバンからは、着替えや靴、パソコンや書類、本。
翔平君は次々取り出し、洋服は私の寝室のクローゼットを半分空けて勝手にかけている。
靴も通勤用とわかる二足とスニーカー一足が玄関収納に綺麗におさまった。
週末の間に必要なものをもう少し運び込んだあと、引っ越し業者さんに見積もりをとり、我が家への引っ越しを実行すると、報告された。
そう、相談ではなく、報告だ。
翔平君が今住んでいるマンションは賃貸物件で、五年前から住んでいる。
結婚したら広い家を買おうと考えていたらしく、私がこの家を買ったことを知ってショックを受けたと言っていた。
この間コンビニ帰りにマンションまで送ってもらったとき、どう見ても不機嫌だったのは「しまった」という思いからだったらしい。
私がひとり暮らしを始めたことを兄さんから聞いて「ようやく兄離れしたか」と喜んでいたらしいけれど、それは私が賃貸に住んでいるという前提があってのことで、まさか分譲物件を購入しているとは思わなかったと。
「間取りもいいし、住みやすいマンションだと思うけど、どうせなら、一緒に家を探したかった」
今も悔しそうにそう言って、私の頭をくしゃくしゃと撫でている。
撫でているというより、悔しさを紛らわせるような荒い動き。
「痛いんですけど」
少々激しい動きが私の頭を刺激して、思わず逃げ腰になる。
それに気付いた翔平君は、空いていた手で私の腰を引き寄せるとそのまま両手で抱きしめた。
「ちょ、翔平くん」
慌てる私に構うことなく、翔平君は突然私を抱き上げた。
そしてあっという間に翔平君の膝の上に横座り。
「翔平君、えっと、これはちょっと……」
恥ずかしすぎる。
目の前に翔平君の顔があって、私の腰に回された両手の力はかなり強い。
思わず離れようとする私の動きは簡単に封じられてしまった。
足をばたばたさせる私をさらに強い力で抱きしめた翔平君は、顔を私の肩に埋めると大きく息を吐き出した。
「翔平君?」
「よかった……」
「え?」
「間に合ってよかった」
ほっとしたような言葉を口にする様子はどこかはかなげで、その理由がよくわからない。
これ以上は無理だと思うのに、私との距離をもっと詰めたいのかいっそう強い力が込められて。
「翔平君、どうかした?」
嬉しいというよりも不安になった私は、顔だけをどうにか動かして聞いてみた。
間近にある翔平君の瞳は閉じられていて、どんな感情を抱えているのかがわからない。
けれど、必死で私をその腕に抱え込む様子からは、かなり切実な思いが感じられる。
「萌が俺のことを諦める日と、今の仕事に就いてよかったと思える日。どっちが先か、いい歳してびくびくしながら待ってた。だけど、待っていてよかった、間に合ってほっとした」
その言葉通りの不安を感じさせる口調は、普段の翔平君とはまるで違っている。
私を相手に後ろ向きな感情を見せる機会は滅多になかったし、私が翔平君を諦めることを望んでいるのは、ほかでもない翔平君自身だと思っていた。
長い間、私の恋心には気付かない振りで、親友の妹に対する優しさだけを与えてくれていた。
だから、出会ってからこれまで、私が翔平君を追いかけ思い続けることを重荷として感じているかもしれないと何度も苦しんだ。
私以外の女性が翔平君の隣りで独占欲に満ちた笑みを浮かべているのを見てきた。
そのたび、翔平君と私が寄り添う未来はないのだと胸を痛め、一方通行の想いを封印しなければと涙も流した。
「びくびくしてたのは、私のほうなのに。いつ翔平君が本気で私を振り払うか、それとも昔マスコミで噂になった三崎紗和さんみたいに綺麗な人と結婚しちゃうんじゃないかって、怖かったのは私だよ」
思い出せば今でも切ない噂がよみがえり、唇をかみしめてしまう。
美乃里さんとCMで共演した三崎紗和さんと翔平君が付き合っているとマスコミを騒がせた数年前。
俳優夫婦の息子であり、ちょうど大きな仕事で成果を出した翔平君自身も騒がれていたことも相まって、世間は連日その話題でもちきりだった。
ふたりで食事をしている様子や、翔平君の車で出かける姿が度々目撃され、結婚も間近だと言われていた。
翔平君が怪我をしたあの頃だ。
ことの真偽は怖くて確認できないままだけど、見た目が整っている翔平君と並んでも引けを取らないお似合いの女性だった。
テレビのワイドショー番組や雑誌で二人が並ぶ姿を見るたび、私には太刀打ちできないと、落ち込んだ。
今でも当時の騒ぎを思い出せば切なくて、目の奥が熱くなる。
「翔平君を追いかけても追いかけても手ごたえがなくて、それでもそこから逃げられなくて。だけど、結婚するなんて聞いたら諦めるしかないでしょ、不倫なんて嫌だし、翔平君が結婚したあとそんなことするわけないってわかってたから……つらかった」
既にそのことは誤解だとわかっているのに、兄さんから聞かされた言葉を思い出せばそのたび苦しくなる。
翔平君が独身でいる限り、私を愛してくれる未来があるかもしれないと微かな望みにすがり生きていたのだから、翔平君が結婚すると聞いたときの衝撃は一生忘れられないだろう。
胸の痛みに耐えながら俯いていると、翔平君が何度か息を吐き出し「萌はがっかりするかもしれないけど」と小さな声を落とした。
なんのことだろうと、こわごわと視線を上げると、私よりも不安な色が濃い翔平君の瞳があった。
「昨日も言ったけど、萌が就職活動に励んでいた頃、まだ若い萌を俺が縛っていいのか迷っていたんだ。樹から口を挟むなと釘を刺されていたしな。だけど、就職のために俺から離れて遠くに行くと聞かされて、やっぱり手放せないって焦って……それで駅に向かおうとして階段から転げ落ちた」
「え……?」
「あの日、採用試験を受けにいく萌に会いに行く途中だったんだ。仕事が終わらなくて新幹線には間に合わないってわかってたけど、それならあとの新幹線で追いかけるつもりで急いでいたんだ」
「でも、あの日の朝、採用試験頑張れって電話くれた……」
「ああ。萌には萌の人生があるし、昔からしたい仕事があるのならその夢を俺が止めることはできないって思ってたのも嘘じゃない」
翔平君が、私の肩に手を置き、そっと体を離した。
それが寂しくて、私は反射的に翔平君の首に両手を回した。
それに、翔平君の言葉に驚き、あの事故の日のことを、今更ながら思い返す。
「私を追いかけてきてくれたんだ……」
抱きつくほどではないけれど、目と目を合わせてその距離を再び近づけた。
「あの日、俺のいない未来を求める萌を、止めることはできないって頭ではわかってても、追いかけずにはいられなかった。結局、俺がズルをして萌を引き止めたけどな」
「……ズル?」
自嘲気味に笑う翔平君の表情が次第に翳っていく。




