初恋16
私がどれだけリボンを大切にしているのかを切々と説明するのにもちゃんと付き合ってくれたし、お詫びにと言って赤いベルベットのリボンをプレゼントしてくれた。
雨降って地固まるという言葉どおり、その後高校卒業までずっと、小椋君とはつかず離れずの親しい関係が続いた。
全国模試順位一桁の小椋君が進んだ大学は翔平君と同じ大学だったけれど、もちろん国内最高学府であるそこに私が入れるわけもない。
翔平君は既に卒業しているとはいえ、同じ大学に通うことができる小椋君が羨ましくて仕方がなかった。
別々の大学に進学した私たちの縁は、一旦は高校卒業とともに薄くなったけれど。
就職先は同じ「別府デザイン事務所」だった。
翔平君と同じ大学の出身なのだから、大手であり翔平君が働く「片桐デザイン事務所」に就職することも可能だったはずなのに。
どうして社員も少なくて派手な仕事も少ない……なんて言うと別府所長が苦笑いしそうだけど、今の事務所に就職したのか、よくわからない。
これまで何度か聞いたことがあるけれど、いつも「なんとなくこっちのほうが気になって」としか答えてくれなかったな。
頭のいい人の考えることはよくわからない。
考えてみれば、私だって本命企業を諦めたあと、流れに任せてこの事務所に就職したのだから、それも「なんとなく」といえるのかもしれない。
どんな理由やきっかけがあったにせよ、小椋君と再会して以来、私たちの縁は再びつながり、いい付き合いを続けている。
ふたりで同窓会に顔を出せば周囲から「このまま結婚しちゃえ」からかわれたりもするけれど、そんなのありえない。
私はずっと翔平君に恋していたし、小椋君にも恋人がいてそろそろ結婚するんじゃないかと私は思っている。
就職してすぐに一度だけ彼女を紹介してもらったけれど、背筋が伸びた綺麗な立ち姿が印象的な人だった。
大学時代のバイト先で知り合ったという彼女と別れたという話は聞かないし、彼女のことを聞くと「俺のことはいいから」と照れて言葉少なにはぐらかす様子はとても新鮮だし。
早く結婚すればいいのに。
なんてことを他人事ながら勝手に考えていると、目の前の小椋君が再び話しかけてきた。
「じゃあ、引っ越し祝いは何がいいか考えておけよ。仕事も順調だし、その打ち上げも兼ねて飲みに行ってもいいぞ」
「え、いいよいいよ。打ち上げなら事務所のみんなで中華を食べにいったでしょ? 今はみんな忙しいみたいだしね」
「忙しいのはいつものことだろ。それに、俺と白石のふたりで飲みに行ってもいいし」
「うーん。仕事もたてこんでるからそのうちにね」
とりあえずは抱えている仕事をひとつひとつ進めなければならないし、本当に翔平君と一緒に暮らすのだろうかとそちらも気になっている。
私の家族に了承を得ていたり、お見合いする予定だった男性に頭を下げて断ってくれたとはいっても私がそれを黙ってやり過ごすわけにもいかない。
先方と顔を合わせて謝罪をしなければならないのならば、なるべく早く伺おうと思っている。
今朝、実家に電話をいれたときに母さんから「お見合いはお断りしたから気にすることはないわよ」とくすくす笑いながらの言葉をもらっているとはいえ、気になるし。
そのくすくすと笑っている真意はきっと、翔平君が私の気持ちを受け入れてくれたというほっとしたものだと簡単にわかる。
とにかく、今日は仕事のあと実家に顔を出すと伝えている。
我が家に事務所のみんなに来てもらうのは、それらをすべてクリアして、落ち着いたからだな。
翔平君と一緒に暮らすのだとしたら、もちろんその準備も必要だし。
今でも夢か現実かわからない曖昧な気持ちだけれど、幸せ過ぎて怖くもある。
「白石?」
「え?」
「また、にやけてるぞ」
「あ、ごめんごめん。へへっ。えっと……そうそう、新居には近いうちに来てもらえればと思うけど、お祝いは気にしないで。ソファやらいろいろお祝いでもらったし。必要なものはほとんどあるから」
「ソファ?そんなものまでお祝いでもらったのか?」
「ずっと欲しいなって思っていたものでね、座り心地も抜群なんだ」
私はそう言いながら、夕べ翔平君と並んで座り、その体温をじかに感じたことを思い出した。
ふたり用のソファはお互いの距離がぎゅっと密になって、自然に触れ合うことができる。
今もまだ隣に翔平君がいてくれるような錯覚さえ感じて、再び口元が緩みそうになるのを慌てて引き締める。
同時に熱くなる体に戸惑う反面、嬉しさも感じていると。
「新居へのご招待なら俺も手を挙げていいかな?」
背後から低い声が響いた。
振り返ると、いつからそこに立っていたのか別府所長がマグカップを片手に笑っていた。
「新居のソファの手配には、俺も一役買ったんだよ。あのソファを取り扱っている店のオーナーは俺の高校時代の同級生でね。映画のスタッフと美乃里に頼まれて、半年待ちの人気商品を拝みたおして融通してもらったんだ」
「え、そうだったんですか?」
「実はそうだったんだよ。俺だってそれなりに顔がきくんだ。のほほんとしているだけのデザイナーじゃないってとこ、たまには見せなきゃな」
細身の体を逸らせ、自慢げに笑っている別府所長を私はまじまじと見つめた。
「美乃里さんが所長と知り合いだって聞いてはいたんですけど」
「彼女が女優として駆け出しの頃、ドラマのセット作りに関わったことがあってね。そのとき以来の付き合いなんだけど。まあ、当時は僕も駆け出しで、修行の身同士、励まし合ってたんだよ」
「そうだったんですか」
「ああ。当時の仲間とは今でも付き合いがあって、その縁が大きな仕事につながることもあるし」
別府所長は、うんうんと頷き優しく笑うと、その笑みをにやりとしたものに変えた。
「美乃里、滅多に人に頼みごとなんてしないのに、どうしてもあのソファをすぐに調達してくれってあまりにも必死でね。その姿が新鮮で僕も頑張っちゃったよ」
ははっと笑い、手にしていたコーヒーを飲み干した。
別府所長は、普段から仕事の大きさには拘らず、楽しい仕事、喜んでもらえる仕事を優先的に引き受けては奥様に「たまには社員の生活とやりがいを考えてお金になる仕事をしなさい」と言われて怒られている。
年に数回、思い出したように世間から注目されるような大きな仕事を受注してくる。
どうやったらそんな効率よく仕事を探してくるのかと不思議に思っていたけれど、もしかしたら、美乃里さん、というよりも水上美乃里という大女優との縁に負けないほどの太いつながりを幾つも持っているのかもしれない。
翔平君の上司が誰なのかは知らないけれど、別府所長と知り合いだと言っていたし、目の前でこうして見せている以外の姿を隠しているのかも。
自分の胸の内をあっさりと見せる人ではないとわかってはいるけれど、奥が深い人だとぼんやり考えていると、別府所長は膝を折り、私と視線を合わせた。
からかうような笑みを間近に見せられて、私は思わず距離をとるように椅子の背に体を預けた。
「僕、翔平君のことも、彼が小さな頃からよーく知っているんだよね」
思わせぶりな言葉に驚く私を楽しむように、別府所長はさらに言葉を続ける。
「美乃里からよく聞いていた『翔平を愛してくれるかわいい女の子』って白石さんのことだったんだね」
「へっ?」
「小学生の頃からずっと翔平君を愛し続けているんだって? たしかにモデルをしていたくらいの抜群の見た目だし、片桐のエースデザイナーって言われるほどの才能もあるし。うん、俺も翔平君はオススメだよ」
くつくつと肩を震わせ、楽しげに揺れる瞳で私を見つめられて、私はどう答えればいいんだろうかと口を開いたり閉じたり。
「白石のご両親が翔平君のお世話をしていたって聞いてるけど?」
「いえ、お世話なんてとんでもない。翔平君は高校生の当時から大人びていてしっかりしていたし」
「へえ。そんな大人の魅力に満ちた翔平君を愛しちゃったわけだね? 美乃里も萌ちゃんに翔平君のお嫁さんになってくれるなら嫁いびりなんて絶対しないってさ。良かったな、嫁姑の問題もクリアだ」
別府所長はそう言うと、それまでの肩を震わせる小さな笑いでは我慢できないのか大きな声をあげて笑い始めた。
事務所で仕事をしている人たちの視線が一気に私たちに向けられる。
「あの、所長? 嫁いびりなんて……その、ないです、えっと」
周囲からの注目と別府所長の笑い声を遮るように慌てても、そんなのどこ吹く風で、所長は気が済むまで笑ったあと何度か深い呼吸を繰り返してようやく落ち着いてくれた。
本当に、自由な人だ。
「美乃里、ずっと翔平君はいつになったら結婚するんだろうかって心配していたから、ようやくほっとしたんじゃないか?」
「そ、そうですか……」
ほっとしたのは美乃里さんではなく別府所長ではないだろうか。
目じりの下がり具合を見ればそれは簡単にわかる。
美乃里さんとの親しさはともかく、翔平君のことも気にかけているんだろう。
けれど、嫁いびりだとか翔平君の結婚と言われても、まだその対象が私だという強気な思いはない。
もちろんそうであればいいなあと願う気持ちは強いけれど、昨日から今日にかけての状況の変化には「嬉しさ」はあってもそれを大々的に周囲に触れ回るほどの確信はなくて。
「翔平君のお嫁さんに、」
なれそうなんですけど、まだ夢のようで……と続けようとしたとき。
私と別府所長の会話を向かいの席で静かに聞いていた小椋君の言葉がそれを阻んだ。
「翔平って、白石が小学生の頃から好きな男だろ? デザイナーの水上翔平。でも最近結婚が決まって白石は失恋確定で、それを吹っ切るためにお見合いするって言ってたよな?」
「え、あ……それが」
思い出すように呟く小椋君の声に、どう答えようかと口ごもる。
小学生の頃の、“リボン事件”以来、小椋君には私の翔平君へのしつこい恋心を何度も話している。
もちろん初めのうちは小学生のたわいもない初恋の悩み相談程度だった。
けれどその初恋が終わりを迎えることはなく。
話しているというより、愚痴を口にする私の落ち込み具合を受け止め慣れているせいか、いつしか私の口から翔平君の名前が出ようものなら同情に満ちた瞳を返してくれるようになった。
『片思い、ご苦労様』
そう言っては優しく頭を撫でてくれることもしばしば。
今回翔平君が結婚を決めたと聞いて衝撃を受けた私が一方的にぶつけた「とうとう、今度こそしっかり諦めなきゃいけなくなっちゃったよ」という言葉にも動じず受け止めてくれた。
きっと、翔平君と私の縁がつながることはないだろうと予想していたに違いないし、それは至極当然のことだ。
長すぎる初恋を思いきるにはどうすればいいのだろうかと、その方法すら浮かばず悩んでいた私を気遣い、飲みに誘ってくれたり、私が大好きなキャラクターのグッズをさりげなく机に置いてくれたり。
いつしか私たちはくされ縁という言葉でひとくくりにするにはもったいない関係を築いていた。
けれど、私が翔平君のことを忘れるためにお見合いをすると言ったとき、小椋くんはいい顔をしなかった。
というよりも、やめておけと何度も私に言った。
せっかく、次の恋愛に向けて前向きに動き出そうとしているのに、どうしてその気持ちに水を差すのだろうかと不思議に思った。
とはいっても、両親の顔をたてる意味もあり、私はお見合いをするために動いていた。
エステだってそのひとつ。
「白石、お見合いするんだろ? それなのに、どうして嫁いびりだとか翔平君のお嫁さんだとかって言葉が出てくるんだよ」
小椋君は不機嫌そのものの口調で私と別府所長に問いかける。
「あの、ね。お見合いは、お断りしたの」
……翔平君が。
心でそう付け足し苦笑する私に、小椋君は頷いた。




