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初恋14

翌朝、約束した通り翔平君とふたりで駅前のカフェでモーニングを食べた。


明け方には雨もあがり、傘をささなくてもいいとはいっても師走の朝は寒い。


凍っている歩道を歩くのは大変で、何度も転びそうになってしまった。


それを見かねた翔平君が腕を貸してくれて、私はその腕に両手を絡ませながら歩いた。


カフェまでたったの五分。


もう少しこうして歩きたいと思いながらの朝はとても幸せな時間だった。


そして、出勤前の慌ただしい中でベーグルを食べたあと、職場へ向かった。


同じ沿線に職場があるのも嬉しくて、混み合う車内も今日は翔平君に寄り添える絶好の機会とばかりに思う存分くっついていた。


すでに事務所に着いた今も、そのときに触れていた翔平君の温かさが私の体に残っているような気がして頬は緩みっぱなしだ。


「白石、顔が変だぞ」


「は?」


いつも以上に顔がおかしい。さっきから緩みっぱなしで見ていて気持ち悪い」


「気持ち悪いなんて女性に言う言葉じゃないでしょ。同期といえども礼儀知らずは嫌われるよ」


「同期以前に小学校からの腐れ縁だろ? 別に俺が何を言おうがどうってことないくせに」


「そうだね。たしかにそうだった」


同期の小椋くんの言葉に、私は小さく笑った。


普段と何も変わらない金曜日の午前中だけど、私は普段とは違う軽やかな気持ちでパソコンに向かっていた。


翔平君の特別になれたことで、私の日常すべてが輝いているようだ。


今日中にあげなければならない企画書だって、軽やかに進めて……いければいいけれど、こればかりはまだまだ格闘中だ。


「何かいいことでもあったのか?」


小椋君が訝しげな声で聞いてくる。


視線を向けると、おかしなものでも見るような目で私を見ていて、逆に私のほうがおかしくなってくる。


よっぽど私はにやけた表情を浮かべているのだろうと気づき、真面目な表情を作ってみるけれど、それは一瞬の努力にすぎなくて、すぐに頬が緩んでしまう。


「『ルイルイ』のフルーツタルトでも食べたのか? 三食それでも大丈夫だっていつも言ってるだろ?」


「あー、そうだね。三食でも大丈夫なんだけど、というより是非ともお願いしますってぐらい大好きだけど……」


だめだ、大好きって言葉を思い浮かべた途端、翔平君を思い出してうまく表情が作れない。


職場で見せるにふさわしい顔にしなければと焦りつつも、上がった口角を元に戻すことすらできず。


「ルイルイよりももっと、嬉しいことがあったからね。……これ以上は黙秘権を行使しますので、仕事に戻ってください」


「はあ? もっと? って、もしかしたらオトコでもできたか? そういえば見合いするとか言ってなかったっけ?」


私の言葉に驚き、小椋君は椅子の背もたれに預けていた体を起こすと、その顔を私に近づけた。


小学生のときから見知ったその顔は、『綺麗』という表現がふさわしく、女性に間違えられることはないにしても、女性が羨ましがるには十分すぎるほど整っている。


坊主頭の野球少年が、どうしてこうも格好よく成長したのかと、同窓会のたびに話題になっているけれど、中学、高校を同じ学校に通っていた私でさえ答えられない不思議のひとつだ。


「見合いは週末だったよな。で、昨日はそれに備えてエステに行くって早く帰ったし。そうだよな、まさかひと晩で男を作るなんて早わざ、持ってないだろうし」


「早わざ?」


そんなの手持ちの得意技の中にはないけれど、男を作るという意味を考えれば、たしかに昨日は私が長年追いかけ続けていた男性と気持ちを通い合わせることができた記念すべき日だった。


「白石が子どもの頃から無駄な努力で想い続けている初恋の男。そいつを忘れるための見合いだろ? ほかに男の影なんてなかったし、じゃあ、その崩れきって緩んだ顔を見せる理由はなんだ?」


「崩れきったなんて、本当に失礼なことばっかり言ってるよね。小学生の頃の憎たらしい男の子がそのまま大人になったみたいで笑えるんだけど」


というより、私の大切なリボンを墨汁で汚したあの頃よりも口がたつようになって、さらに子どもじみた発言が目立つような気もする。


黙っていれば格好いいのにな。


「で? やっぱり『ルイルイ』のスイーツか? それとも新居に欲しいって騒いでたライトが手に入ったとか」


「あ、そういえばあのライト、週末に配達されるってメールが来てた」


ここ数日の慌ただしさで忘れていたけれど、美乃里さんがお祝いにくれたソファと並べると合いそうなルームライトが届くのだ。


新居に必要なものを揃えるために回っていたお店で一目ぼれしたそれは、ポール部分とアーム部分が分かれていて、ソファの横に置き読書用のライトとしてもアームを曲げれば対応できるという優れもの。


今回家を買うために手持ちのお金のほとんどを使ってしまったこともあり、必要最低限の家具や家電しか買っていないけれど、このルームライトだけは諦められなかった。


翔平君の部屋に兄さんと遊びに行ったときにもよく似たライトが置いてあって、いいなと思っていた。


もちろん、翔平君の部屋にあるものと比べればかなりお手頃な価格だろうと思うけれど、私にとってはかなりの贅沢だ。


「週末って、土曜に届くのか?」


「あ、うん。夕方だって」


今日帰ったらリビングを掃除しておかなきゃ。


ただでさえ夕べ翔平君が泊まったせいで落ち着かなくて、掃除どころじゃなかったし。


……泊まったといっても、翔平君とは何もなかったけど。


あ、キスはしたし、その先の濃い目の触れあいはたしかにあったりもしたけれど。


そのことを思い出しただけで、再び顔はにやけて口元は緩んでしまう。


彼女として翔平君の隣りにいられるという権利は、思った以上に私を幸せにしてくれ、強くしてくれるようだ。


私が一方的に望んで得たポジションではなく、翔平君も私が隣りにいることに幸せを感じていると教えられて、舞い上がる気持ちは天井知らず。


ますます右肩上がりだ。


いい年して、何だこの甘ったるい感情は、と思わなくもないけれど、ふとその気持ちを口にしたとき、翔平君はあっさりと言ってくれた。


『いい年っていうけど、こうして俺らが並んで生きていくための状況がようやく整ったってことだろ? 萌が仕事で結果を出し始めた今がふたりで寄り添ういい頃合いってことなんだから、その意味を間違えるな。今がふたりにとってのいい年ってこと』


ぎゅうっと、抱きしめてくれた翔平君は、「だけど、油断してたよな。まさか萌の気持ちがここまで俺を射抜いて……ほんと、全然のんびりしたもんじゃないし油断大敵だし、シミどころの頑固さじゃないって」と訳の分からないことをぶつぶつ言ってたけれど。


それを聞くタイミングを失うほどの熱いキスが繰り返されて、私の足には力というものが全くなくなって。


べったりと翔平君にくっついたまま、リビングのソファの上で朝を迎えた。


まだ私を抱くのは早いと言いながらも、一晩中私を抱きしめる腕が離れることはなくて、ドキドキした。


といっても、翔平君の胸に抱え込まれてその鼓動を直接耳にしていると、これまで感じたことのない安心感に包まれるようで、すぐに寝入ってしまった。


一方、翔平君は一晩中私を抱きしめながらまんじりともしない時間を過ごしていたらしい。


私のことを決して短くはない時間をかけて見守り、愛してくれていた翔平君は、自分の腕の中で眠る私を抱きたいと何度も思ったと言っていたけれど。


展開の速さに戸惑う私を気遣い、ぐっと堪えてくれた。


『抱きたい女を抱きしめるだけで何もしないなんて、自分の欲にひたすら忠実だった若い頃には考えられない』


なんてことを言われて、若い頃の翔平君が女性に対してどれだけフットワークの軽い生活をしていたんだろうかと疑問は残るけれど、それはもう時効にしよう。


今まで何もなかったなんてありえないし、あれだけ格好いい見た目で名前を知られたデザイナーなんだから、本人にその気がなくてもたくさんの女性が集まっていただろうし。


私が太刀打ちできないほど魅力的な女性との付き合いもあったに違いないけれど。


何故か今の私には、不安がまったくない。


翔平君が私だけを大切にしてくれ、愛してくれているという確固たる自信があったりもする。


だてに二十年近くを翔平君一筋で過ごしてきたわけじゃない。


翔平君は、ときにはわがままも言うし強引にことを運ぶという頑固さも持っているけれど、人を傷つけたり自分本位に我を通すことはないと、知っている。


昨夜だって、『一緒に暮らす』と高らかに宣言していたにも関わらず、やはりそのためには片づけなきゃいけない雑事は多いと改めて気づいたのか、延期宣言を追加した。


賃貸だとはいっても翔平君にも自宅があるわけだし、突然そこを放り出して我が家に住み着くわけにはいかない。


昨日は私のお見合い相手の会社を訪ねて「お見合いはなかったことにしてください」と言って頭を下げ、私の両親と兄さんから私との結婚を前提とした付き合いを許してもらい、興奮していたらしいし。


翔平君のことは無条件に信じられる。


勢いに任せて口にする言葉は翔平君の本音だろうけれど、その本音や願いをやみくもに行動に移すことはない。


だから、『一緒に暮らす』という言葉は彼がそうしたいと願う本音に違いないとはいえ、だからといって私の気持ちや周囲の状況を無視してまで推し進めることはないとわかってる。


私の戸惑いを感じてソファで私を抱きしめたままひと晩を過ごしたことを考えてもそうだし、私を傷つけることはないとわかっているから、たとえ過去に何があったとしても、そのことで翔平君を責めることはないし、落ち込むこともない。


長い付き合いを通して、翔平君の優しい面も、ずるい面も、ちゃんとわかっているから、大丈夫なのだ。


「なあ、そんなにライトがくるのが嬉しいのか?」


「え?」


「幸せそうな顔をしてライトを思い浮かべてるところ言いにくいんだけどさ」


「あ、うん……」


ライトのことを考えて気持ちをふらりとさせていたわけではなく、翔平君への想いをかみしめていたんだけど、私がかなり緩んだ表情を見せていたのは事実に違いない。


すると、小椋くんは「やっぱりこいつ、忘れてるし」と前置きしたあと。


「あのさ、明日の土曜だけど、俺と白石、仕事だから」


「え、仕事?」


小椋君の言葉に驚いた私は、思わず大きな声をあげた。







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