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初恋12

我慢の限界を超えて、自分の想いをコントロールすることをやめたらしい大人のオトコは、私が恋に落ちた頃の大学生のオトコにも見えた。


まだ子どもだった私をただ「かわいい」という目で見ていたあの頃の、単純な優しい表情。


キッチンでいそいそ動いている私について回る翔平君が新鮮で、そしてその状況が泣きそうなくらい嬉しくて。


ケチャップを持つ手が震え、背中に感じる翔平君の体温に溶けそうになりながら、どうにか作り終えたオムライスをテーブルに並べた。


オムライスにハートを描きたかったけれど、震える手ではうまく描けそうになくて、諦めた。


「うまい。手際もいいし、成長したな」


四人用テーブルの向かい側でなく、何故か隣りに座った翔平君に視線を向けた。


隣りに座っただけでなく、わざわざ椅子の位置を私のそれに近づけるなんて。


「翔平君?」


「え? いいだろ別に。今まで距離を作っていた時間を取り戻すために、これから精一杯萌のそばにいることにしたから」


「……あの」


「いいんだよ。悩むな。萌が俺に惚れていて、俺も萌の気持ち以上に萌に惚れてるってことだけで今はいいだろ」


そ、そうなのかな。


もちろん私は翔平君に惚れていてそのキャリアは二十年近くという諦めの悪さ……じゃなく一途さ。


アマザンホテルからの帰り道以来、まるでお付き合いを始めたばかりの恋人同士の高い温度を体現しているような距離感が続き、私は戸惑っている。


絶えず体が触れ合っているなんてこと、そうしたいと思って意識しなければありえないし。


落ち着かない気持ちを無理矢理抑えこみ、横目でちらりと翔平君を見る。


そこにはいつもと同じ整った横顔と、シャツのボタンを幾つか外しているせいか微妙に見え隠れしている形のいい鎖骨。


やっぱり格好いい。


艶のある黒い髪は短いながらも毛先の流れが綺麗だし、男性にしては長いまつ毛は切れ長の目をさらに魅力的に見せているし。


私が知っている中で一番の男前で、ずっと見ていても飽きない。


翔平君だけでなく、私自身も子どもの頃に戻ったようなテンションを保っているせいか、当時のように翔平君を見つめ続けてしまいそうになるのをぐっと堪える。


目の前のオムライスに視線を落として食べることに集中しようとしても、どうしても自分が望んでいた未来に今たどり着いたような気がしてならない。


翔平君が、私を好きになってくれた。


冷静な判断を心がけて何度も熟考して、そして私ひとりが盛り上がっただけで、あとから落とされないよう注意しても。


「面白い顔して考え込むなよ。まあ、何を考えてるのかはわかりすぎるけどな。どれだけ考えても、俺が萌に惚れていて、そばにいたいっていう、この気持ちが揺らぐことはないから」


「その……えっと」


「俺が萌を好きになって、ずっと一緒にいたいしそれ以上のこともしたいし。あ、結婚っていうだけでなく、さっきのキス以上のこともだけど。萌が欲しいと思っていた俺の気持ちは、ようやく萌のものだから」


「う……ん」


キス以上のことって言われたとき、思わずむせそうになった。


それって、やっぱりそういうことだろうけれど、それは私たちが特別な関係になったということだろうか。


今日のこの流れや翔平君の言葉を振り返ればそうなのかな、私の思いこみ、にしてはあまりにも翔平君の言葉は甘すぎるし。


でも……。


どれだけ自分の都合のいい解釈をしないでいようと思っても、やはりそれはしなくてもいい労力だったようで。


「萌、腑に落ちないこととか聞きたくてたまらないことが多いのもわかるけど、ひとまず自分が望んでいたものが手に入ったことを喜べ。今まで俺が好きでたまらなくてどうしようもなかっただろうけど、その短くもない時間を取り返すためにも、悩むな」


翔平君は、私の両肩に手を置くと、何かを吹っ切ったような瞳を私に向けた。


横顔も素敵だけど、正面からの真面目な顔はさらに素敵だなと。


そんな素敵な翔平君から惚れていると言われて、嬉しいと思うけれど、何度言われても他人事のように思える。


私が翔平君に、不安のすべてを捨てて飛び込みたいけれどできないのには理由がある。


「兄さんが、翔平君は結婚するって言ってたけど、それってどういうこと?」


心にひっかかっていたことを、ようやく口にして、翔平君を見ると。


一瞬顔を歪めて「樹、ホント面倒だよなあいつ」とぶつぶつ言っている。


私の肩に置かれた手に力が入り、翔平君の声も大きくなった。


「たしか、長い間好きな女と結婚するって樹に言ったけど、酔っぱらっていたあいつは俺が誰と結婚するかなんて聞かずに勝手に盛りあがったんだよ」


「え?盛り上がって?」


「そう。とうとう萌の失恋も確定だって言って泣き出すし。でも俺が幸せになるなら応援するって店で叫んで大変だった」


翔平君はそのときのことを思い出したのか、面白くなさそうなため息をついた。


翔平君が結婚すると兄さんから聞いたとき、たしかに兄さんは酔っていたけれど、そのせいで大きな勘違いをしていたってことなのだろうか。


それは間違い? でも、結婚すると、今も言っていたけれど。


「じゃ、誰と……?」


兄さんが聞かないままだったという翔平君の結婚相手は誰なんだろう。


今日、翔平君がずっと私を甘い言葉で混乱させて、そして自分は私のものだと言い続けているのだから、期待、しそうになる。


その相手はもしかしたら、私なのだろうかと。


「期待しちゃいそう」


今日伝えられた翔平君の気持ちを、まだ信じ切ることができないのか、結婚相手が私であればいいけれど、そうではないのかもしれないと。


長すぎる片思いの後遺症で、自信が持てない。


けれど、それを見透かす翔平君の瞳が、私を責めているような気がする。


もっと自信を持てと、そう言って叱っているような、厳しい目。


けれど、そこにはたしかに愛情も感じられて。


「わ、私、翔平君のお嫁さんに、な、なり……たいんだけど」


途切れそうになる言葉を繋げて告げた言葉は、私が長い間抱えていた夢だ。


いつか翔平君の隣りでいつもほほ笑んでいるお嫁さんになりたいと願い続けていた。


翔平君の気持ちを伝えてもらった今になってそれを言うなんて、ちょっとずるいかもしれないけれど、それでも心臓はばくばくとうるさい。


照れくさくて落ち着かないまま、翔平君からの言葉を待っていると。


ほっとしたように大きく呼吸をした翔平君が私の唇に、そっとキスを落とし、そして。


「そのプロポーズ、喜んでお受けします」


頬にかかった私の髪を後ろへ流しながら、そう言って笑ってくれた。


疑いようのない幸せに満ちた笑顔を見せられて、私の体も幸せで満ちてくる。


「翔平君っ」


嬉しくてたまらない私は、飛びつくように翔平君を抱きしめた。


もう離さなくてもいい、誰にも遠慮しなくていいと知った私は怖いもの知らずだ。


「お、おい、萌」


あまりの勢いに足元を崩した翔平君が、慌てて私を抱きとめてくれた。


「好き、大好き」


「萌……ちょっと離せ、あぶねーだろ」


体勢を整えながら、私を抱き上げるとそのまま膝に降ろしてくれた。


私は機嫌がいい猫のように頬を翔平君の胸に寄せた。


すりすりと何度か繰り返していると、翔平君が私の体を包み込むように抱きしめてくれる。


「俺は、好きな女と結婚するんだ。こうして俺に甘えて幸せをかみしめている萌と、結婚する」


翔平君は私の頬を両手で撫でながらゆっくりとつぶやいた。


「樹には、ちゃんと報告しておかないとな」


しばらくふたりで手を絡ませ合ったり、時々見つめ合って、そのたびキスをしたり。


翔平君の胸にごろごろと頬を押し付けたり。


端からみれば、恋人同士がばかみたいにいちゃついているとしか思えない時間を過ごしていると。


「うまかった。疲れてるのにありがとうな。今度は俺が何か作るから、といっても簡単な男料理だけど。あ、鍋でもするか……それより、ここには土鍋はあるのか?」


翔平君はぶつぶつ言いながらキッチンを見回すと、何を見つけたのか表情を緩めた。


「あのコーヒーメーカー、樹からのお祝いか?」


「そうだよ。翔平君がひとり暮らしを始めたときにもお祝い代わりにあげたって言ってたけど」


「これ、値段のわりに優秀なんだよな。だからお祝い何がいいって聞かれて俺がリクエストしたんだ」


翔平君はそう言いながら振り返った。


「粉は?」


「あ、ちょうど今朝切れちゃって。今日帰りに買おうって思ってたのに、翔平君に捕まったから買えなかった」


アマザンホテルの近くにコーヒーの粉を売ってくれるおいしいカフェがあるって聞いて、帰りに寄ろうって思っていたのに、結局それどころじゃなかった。


「くくっ。それは災難だったな。まあ、粉よりももっといいものが手に入ったから機嫌直せ」


拗ねているのが顔に出ていたんだろう、子どもを諭すように、翔平君が言った。


粉よりもいいものって、翔平君のことだろう。


そんなことをさらりと言うなんて、私と違って恋愛に長けているんだなと感じて少し複雑だ。


「インスタントでもいいんだけど、あるか?」


「あー。インスタントもちょうど切らしてるんだ、ごめんね。紅茶ならあるよ、美乃里さんからの引っ越し祝いにたくさんもらったのがたしか……」


私はキッチンの吊戸棚にしまったはずの紅茶を取り出そうと立ち上がった。


「あ、紅茶なら今はいい。コーヒーが欲しかったんだ……。駅前の店、まだ開いてるなら買いに行くけど」


翔平君は、腕時計をちらりと見た。


私もカウンターに置いている時計を見ると、ちょうど22時になろうとしていた。


「あの店、遅くまで開いてるし、行ってくるか。明日の朝も飲みたいしな」


「え? 今から?」


「ああ。すぐだろ。ほかに何か欲しいものがあれば買ってくるぞ」


「ううん、何もないけど。それじゃ、私も一緒に行く」


「いい。遅いから風呂でも入ってゆっくりしてろ」


「でも……」


翔平君は、膝の上でごろごろしていた私をそっと降ろすと、テーブルに置いてあったスマホと財布を手に、玄関へ向かった。


「待って、私も一緒に行くから。それに上に何か着なきゃ寒いよ」


慌てて立ちあがり追いかけると、ちょうど玄関のドアを開けた翔平君が暗い空を見あげていた。


「雨が降り出したな」


感情を抑えたようなその声は、普段のそれよりも低く響いた。


「……雨」


私は玄関から出て、翔平君の隣りに並んだ。


暗い夜空を見てもよくわからないけれど、廊下に振り込んでくる雨の勢いは強く、辺りに響く雨音がやけに大きく聞こえる。


しばらくの間ふたりでその音に耳を傾け、ぼんやりと夜空を見上げていると、上着も着ていないせいで体が寒さで震えてきた。


こんなに寒いなら、そのうち雪に変わるかもしれない。


明日の朝積もっていたら通勤が大変だな。


それに、傘をささなければならないとしたら、翔平君、大丈夫だろうか。


そっと視線を上げると、相変わらず外を見ている綺麗な横顔があった。


何を思っているのかわからない固く結ばれた口元からは、微かな緊張感も感じられる。


「翔平君、コーヒーはやめて、紅茶でも飲もう」


翔平君の手をぎゅっと握ると、その手をゆっくりと握り返してくれた。


「コーヒーなら、明日早起きして駅前のカフェのモーニングを食べに行こうよ」


夜も深まった時間、ご近所の迷惑にならないよう、翔平君に体を寄せて小さな声でそう言った。


廊下の灯りに照らされて白みを帯びた翔平君の静かな表情に何も変化はないけれど。


今、翔平君が雨の音を聞きながら何を考えているのかがわかるだけに、この落ち着いた様子が切なく思える。


せめてほんの少しでも、心の痛みを口にしてくれればいいのに。


すると、私の思いを察したのか、口元をゆっくりと緩めた翔平君が私を見た。


「そうだな。あの店のモーニングのスコーンは評判どおりのうまさだよな」


「うん。今日はもうコーヒーは諦めよう」


「……ああ」


たったひと言のその言葉が、ひどく震えていると感じるのは気のせいなんかじゃない。


夜の暗い世界の向こうにぼんやりと浮かび上がっている幾つもの灯りを見ている横顔には何も浮かんでいない。


雨音を聞きながら、ただ遠くを見ている。


「翔平君」


私は、光の加減のせいで普段よりも白く浮かび上がっている傷痕に手を伸ばした。


あの事故によって負った傷は、今も翔平君の心に残っている。


あの日、雨が降って滑りやすくなっていた足元。


近くにいた人が手にしていた傘の先端が翔平君の体を傷つけてしまった。


その先端は翔平君の目の前に突然現れ、階段を転がるほんの一瞬、スローモーションのように過ぎていったらしい。


目に突き刺さるかもしれないと危険を感じた翔平君は、思わず傘から体を逸らし目を守ったけれど、結局首のあたりから鎖骨までを流れる傷が残ってしまった。


幸いなことに、傘の先端がそれほど鋭いものではなかったせいで、ひどい傷にはならなかったとはいえ、翔平君の皮膚には今でも白い傷痕が残っている。


「寒いから部屋に入ろうよ」


つないだ手に力を込めて引っ張っても、翔平君の体はよっぽど強張っているのかびくともしない。


「あ、ココアもあるから、ココアミルク作ってあげる」


「あ? ああ、そうだな。寒いから中に入ってゆっくりしようか」


それまで静かに考え込んでいた翔平君が、ようやく優しい視線を向けてくれたことにほっとする。


そして、すかさず私の肩を抱き寄せ、耳元に唇を寄せると「ゆっくり、何しようか?」と言ってくすくす笑い声をあげた。



玄関に入り、ドアに鍵をかけた途端、その唇は私のそれに重なり、軽いキスを繰り返した。


初めのうちは小さな笑い声に混じりながら感じていた熱も、次第に深いものへと変わり、そっとその表情を見ればどこか苦しげだ。


寄せられた眉間には、この数年の間に何度か見せられた切なさが見える。


















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