初恋11
それでも翔平君は私との距離を取ろうとせず、その腕で私を抱きしめたままだ。
すると、翔平君の唇が私の耳たぶを甘噛みした。
「や……、しょうへい、く、ん。やめて……」
そっと顔をそむけ、翔平君の唇から逃げようとしても、力が抜けている体にできることなんて限られていて、すぐに熱い唇に追いかけられる。
耳から首筋をたどり、鎖骨あたりで何度も痛みを落とす翔平君に、私は抵抗できず、ただ受け入れることしかできない。
未だ経験したことのない感覚と恥ずかしさに、声があがりそうになるのを必死でこらえた。
「我慢するな。感じてるだろ? なあ、初めてか?」
「な、なに……」
「オトコと付き合ったことあったよな。俺以外のオトコと」
鼓動が激しく、荒い息を我慢できない私に反して、落ち着いた声で翔平君が聞いてきた。
翔平君以外のオトコ。
たしかに付き合ったことはあったけど、体を重ねることはもちろん、キスだってできなかった。
翔平君を忘れたくて付き合い始めたというのに、翔平君への気持ちを確認しただけで、相手の男性には申し訳ない思いばかりが残っている。
好きになれると思って付き合い始めたというのに、そんなこと無理だった。
「私、どうしても、できなくて」
「できなかった?」
「うん。翔平君が、好きすぎてどうしようもなくて。ハタチを過ぎたいい大人が、翔平君以外の人とはできなくて情けなくて」
唯一付き合ったことのある男性への申し訳なさと、報われない翔平君への想いに涙した日の感情を思い出し、目の奥が熱くなった。
すると、翔平君の唇が私の目じりをそっと撫でた。
「できなかったって、これか?」
「え?」
ぼんやりと、視線を動かせば、翔平君の力強い視線とぶつかった。
そして、あっという間に翔平君の唇が私の唇に触れていた。
啄むように、そして私の気持ちを気遣うような優しいキスが何度か繰り返されたかと思うと。
「キスも、できなかったのか?」
どこか嬉しそうな翔平君の声。
「うん。今どき挨拶代わりにキスする高校生もいるっていうのに。どうしても、できなくて、情けない」
「付き合ってたオトコは萌に何もしようとしなかったのか?」
「何度か、キスしようとは……。でも、私がギリギリで逃げちゃって、できなくて。優しい人だったから、無理強いはされなかった」
「俺にしてみれば、『萌、よくやった』だけど、その男はつらかったんじゃないのか?」
「今となってはわからない。でも、無理矢理キスしたり抱きたくなるほど私のことを好きじゃなかったのかもしれないし、私が最初からそうならないようにガードしていたのかもしれない」
私が話しているときも尚、変わらず近すぎる翔平君の唇が気になる。
言葉を紡ぐたび、翔平君の唇が私の唇をかすめるのが恥ずかしくてたまらない。
翔平君はこんなこと慣れているのかあまりにも自然で、その仕草もさまになっているけれど。
この年になって初めてキスを経験した私にはなかなかハードルが高いのだ。
「翔平君、あの、話しづらい」
それに照れくさい。
「我慢しろ。キスしながら話すなんて、恋人同士じゃ当然のことだぞ」
「で、でも私たちは恋人じゃない……っん、ふっ、や、やだ」
「嫌じゃないだろ。恋人じゃなくてできないっていうなら、俺の恋人になればいい。恋人どころか、俺の嫁になりたくないか?」
「よ、よめ……」
「俺のことが大好きな萌は、俺の嫁になって、俺の側で一緒に笑っていたいんだろ?」
「あ、あの、それは嬉しいけど、でも。どうして突然……?」
戸惑う気持ちを隠せないまま聞いた。
すると、翔平君の口元が結ばれ、目も細められた。
「突然なんかじゃないんだ。さっきも言ったけど、この五年ずっと我慢していたんだ」
私の言葉を遮るように再び翔平君の唇が落ちてくる。
さっきまでの啄むような軽いものではなく、熱を感じた瞬間からこじ開けられた唇の隙間からは翔平君の舌が私のそれを探し回る。
熱いのはその一点だけではなく、ぐっと引き寄せられた腰のあたりにもざわざわとした感覚が広がっていく。
徐々に力が抜けていく足元を支えるように、さらに翔平君の手に力が込められた。
その反動で、私もきつく翔平君を抱きしめる。
そうしなければ、今にも体が崩れてしまいそうで、必死で縋りついた。
その間も翔平君は深いキスを続け、手加減する気配はまったく感じられない。
さっき初めてキスをしたばかりだというのに、舌を絡ませ合い、翔平君の動きに合わせて首を傾けている自分に驚きながら、それでもそれが心地いい。
「萌、俺と一生こうしていたいだろ?」
「ん…っ。しょう……っ、ふ」
「俺と結婚して、俺を独占したいだろ?」
「やあっ……ん、あ」
翔平君の手が私の後頭部に延び、慣れない心地よさを恥ずかしがる私を逃がさないように固定する。
恥ずかしさと初めて感じる痺れをどう受け止めればいいのかと考えてみても、こうして翔平君と触れあい、熱を交わし合うことに喜びを感じて、それ以外の何もかも、どうでもよくなった。
どうして今翔平君と抱き合っているのかも、ましてや嫁になれと言われているのかもわからないけれど、それももう関係ない。
「翔平君、好き。ずっと好き」
いい大人だというのに、私の口から出たのは子どものような言葉。
「誰にも渡したくない。私以外の人と結婚なんてしないで」
まるで初恋に胸をときめかせ、駄々をこねながら悩んでいる少女のような口ぶりだ。
自分の成長のなさを感じながらも、それ以外に何を言えばいいのか思い浮かばない。
恋愛初心者の自分を実感して情けない。
「ほかの人と、キスしないで」
目の奥から熱いものがこぼれた途端、翔平君の唇がそれを乱暴になめとった。
わずかに目を開けてその仕草を見れば、あっという間にその色気に圧倒されてしまう。
「翔平……」
「泣くほど俺が好きなら、見合いしようなんて思うなよ。萌が欲しいのはほかの誰でもない、俺だろ?二十年近く、ずっとそうなんだろ」
いつの間にか翔平君の唇は私の胸元へと移っていた。
薄いビンクのブラウスのボタンを上から幾つか外し、そこへ顔を埋めると、撫でるのか甘噛みしているのかわからないほどの微妙な感覚を落としていく。
何度か感じる痛みの理由は、見なくてもわかる。
きっと、赤い印を幾つも残しているのだろう。
「……初めてのことばかり」
翔平君の頭に指を差し入れて、その痛みがこれほど幸せな感情を生み出すのだと知るのも初めてだ。
さっきのキスといい、翔平君から与えられるものすべてが私を変えていくようで戸惑いはあるけれど。
翔平君が私の首を捉え、何度も唇を這わせる流れに身を任せても、不思議と怖くはない。
それどころか、与えられる動きに添うように、私の体も跳ねている。
「翔平」
こうして抱きしめられている自信によるものなのか、これまでずっと言いたくてたまらなかった言葉も口を突いて出る。
「翔平……」
「ああ。大丈夫、これ以上のことは今日はしないから」
私の声に心細さを感じたのか、翔平君は視線を上げ、ゆっくりと笑顔を見せた。
息が上がっているのは翔平君だけではなく、私も同じ。
その吐息を混じり合わせるように自然と寄り添い、唇を重ねた。
慣れないキスなのに、翔平君の動きにしなやかに従い目を閉じる。
そして、何度もキスを繰り返したあと、ほっと息をついて、顔を見合わせた。
すると、翔平君は私の耳元に指を差し入れ髪を梳くと、くくっと声をあげ笑った。
「顔が、赤いな。気持ち良かったって顔してる」
「な、そんなことっ」
「そんなことないなんて言わせない。それとも、俺ひとりが萌とのキスを楽しんでいたのか?」
「それは……違う……」
からかうように私の顔を覗き込んだ翔平君と目を合わせるのが、恥ずかしい。
「今日は、これだけで我慢しておけ」
「は?」
「そんなに物欲しげな顔をして俺を煽っても、今日はここまで。うぶでかわいい萌ちゃんは、キャパいっぱいで壊れそうだしな」
翔平君は額と額を合わせると、焦らすような笑みを浮かべた。
まとわりつく私を面白がっていた、出会った頃の翔平君を思い出すその表情を見せられると、私の頬も緩んでしまう。
翔平君と一緒にいると楽しくて仕方がなくて、子どもながらに身なりを気にしては鏡の前に立つ時間がどんどん増えていたあの頃。
「翔平君」
そう呼ぶだけで甘美な想いに囚われていた、おませな子ども時代。
「また、その呼び方に戻るのか?」
「え?」
優しい時代を思い返していると、当時と同じ、少年のような拗ねた声が聞こえた。
そう言えば、あの頃も私がたまに「翔平にいちゃん」と呼ぶと、今みたいに不機嫌な声で「俺は萌のにいちゃんじゃないから」と言っては「翔平君」と言い直させられたっけ。
そのことを思い出して、首をかしげた。
「ちゃんと『翔平君』って言ったけど? 『翔平兄ちゃん』なんて呼んでないし」
「それはガキの頃の話だろ? 今はこうして大人になったし、それに萌は俺の恋人だから」
「こ、恋人……」
「そう。だから、これからはなんて言うんだ?」
「えっと……」
「さっき、キスで気持ちが弾けそうになってたとき、何度も言っただろ?」
私を背中にある翔平君の手が、思いださせるように上下している。
その刺激が促す言葉を、私はちゃんとわかっているけれど、それを口にしたのは翔平君と抱き合い初めての触れあいにどうしようもなくなっていたときで。
未だドキドキしながら体の熱を逃がせないながらも多少の平静さは取り戻している今。
口にすることは躊躇してしまう。
「萌? 言ってみろよ。わかってるんだろ?」
私をその胸に抱きながらゆっくりと体を揺らし催促する翔平君が、かわいい反面憎たらしくもある。
「萌。さ、言ってみ」
私の顔を覗き込んで整った顔で見つめられると、逆らえるわけがない。
きっと翔平君はそれを自覚しているのだろうけれど、私の気持ちがすべてばれているに違いないこの状況で逆らうなんてできない。
私は覚悟を決めて、視線を合わせた。
その途端、翔平君は嬉しそうに口元を上げた。
その顔に、私が弱いって知ってるくせに……。
「えっと……しょうへい」
「正解。その自信のない声は、かわいすぎる潤んだ目と赤い頬で許すか」
小さな声でつぶやいた私に満足げに息をついた翔平君は、「ま、そのうち慣れるさ。先は長いんだ」と言って、私の唇に、何度目かわからないキスをした。
すると、反射的に応えてしまう私に気づいたのか、翔平君は唇を重ねたまま、くぐもった笑い声をあげた。
「幸せだな」
翔平君は相変わらず私の唇を啄みながら、私の心の中をそのまま、言葉にしてくれた。
「相変わらずオムライスが好きなんだね」
「ああ。時間があれば自分で作るくらい好きだな」
「翔平君、昔から料理上手だもんね」
「上手かどうかは別として、親が家にいない時間が長かったから、自然に覚えたんだ。必要に迫られれば誰でもオムライスくらい作れるさ」
よっぽどオムライスが食べたかったのか、明るい声でそう言いながら、翔平君はスプーンを動かす手を止めようとしない。
この部屋に帰ってきたあと、翔平君が言うには「年上の男の本気をなめるな」という、想いの強さを与えられて、ひとりでは立てないほどの甘い刺激に降参させられた。
抱きしめられて、キスされて、好きだと言わされて。
翔平君が望むことを濃く深く甘く、私は与えられて与えた。
私がこれまで男性とのあれこれを経験したことがないということに嬉しそうに頷き、だったら今日はこれ以上は何もしないと、それ以上のあれこれは次回へ持越し。
と言いつつも何度目かもわからないキスを繰り返していた翔平君の表情はやたら色気が満ちていて、しがみついていた手をさらにぎゅっと握って気持ちを落ち着かせた。
小さな頃からずっと想いを寄せていた翔平君とキスをして抱き合っていることを夢のようだと思う合間に感じた痛みの数だけ胸元に残された赤いしるし。
私の心を見透かすように「夢じゃないぞ」と甘い声でささやいてくれた。
『白石萌ってアイドルみたいな名前だけど、水上萌も負けてないだろ?』
翔平君は私の体を抱きしめたまま、大きく揺らした。
『萌が、こうして大人になるまで……長かった』
その言葉からは、翔平君の安堵の想いが知らされた。
これまで翔平君が我慢していたという私への想いを聞いて夢見心地で過ごしたあと、私は思い出したように翔平君にリクエストされたオムライスと、冷蔵庫に残っていた野菜でサラダを作った。
急いで作っているとき、キッチンに立つ私の傍らから離れずにいた翔平君。
火を使うから離れていて欲しかったけれど、翔平君は私の後ろからお腹に腕を回してくっついていた。




