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初恋10

兄さんと翔平君が私の就職に心を砕いてくれていたのは知っていたけれど、何か特別な話でもしたのだろうか。


「えっと、翔平君?」


翔平君の両腕は私の背中に回されたままで、体が熱くなる。


「俺は、樹からその話を聞いて、「だめだ」って言ったんだ。なんでわざわざ遠くの会社に就職させるんだって怒ったし」


「えっと、そんなこと、聞いてないけど」


「だろうな。樹からはそのことをふたりで話したことは内緒にしろってきつく言われたし」


それまで私の肩にあった翔平君の頭がそっと離された。


あれ、と思っていると、いつの間にか私の顔の前に、整いすぎている顔があった。


「萌は子どもの頃から俺のことが好きで、俺のすることや言うことに影響を受けていただろ?」


「あ、うん」


影響どころか翔平君をお手本にして何もかもを決めていた、ということは周知の事実だ。


翔平君が学生時代にクラブ活動で続けていたテニスは、あまりにもそのプレイ姿が格好良すぎて思わず自分も入部した。


とはいっても、そんな甘ったれた動機で始めたテニスで花開くこともなかった。


地方選抜に選ばれた翔平君と違い、校内選抜にも選ばれなかった私は早々に自分の実力を知りマネージャーに転向した。


それはそれでいい思い出になっている。


そして、翔平君が時々さらりと描いてくれたイラストの素晴らしさに影響を受けた私は、自宅近所の絵画教室に通い始めた。


中学に入学したと同時に始めたその習い事は、意外にも私の中にあった才能を刺激し、翔平君が驚くほどの実績を残すことになった。


絵画コンクールでは入選を繰り返し、大賞を獲ったことも何度かある。


翔平君がきっかけで始めたとはいえ、自分でも努力を重ねたという自負もあり、その後の進学や就職に影響を与えた。


今デザインの仕事に就いているのは、翔平君を通じて自分の絵の才能を知ったことも関係しているかもしれない。


「俺にそのつもりがなくても、俺の言葉ひとつで萌は将来を考える。大学は、さすがに俺のあとを追ってこれなかったけどな」


私は肩を揺らして笑う翔平君をちらりと睨んだ。


「仕方ないでしょ。お勉強は苦手だったし、それに翔平君が通った大学は国内最高峰だもん。無理無理。翔平君が私に意地悪してるとしか思えなかった」


「まあな。きっと、萌が追ってこれないだろうと思って決めた大学だったし」


「そんな気がしてた。だけど、あまりにも無理だってわかりすぎて諦めるのも一瞬だった」


当時を思い出して小さく笑った。


すると、翔平君はすっと真面目な表情を浮かべて私を見つめる。


「だけど、結局は自宅通学圏内の大学に通うように俺が言って、そうさせたし。いつも萌の人生に必要以上に介入する俺を、樹は警戒してたんだ」


「兄さんが? そんなことないよ。私が翔平君のことを追いかけては跳ね返されてがっかりしているのを見ていつもからかってたし。第一、翔平君は私のことを考えていろいろ言ってくれたし」


「たしかに萌のことを考えてうるさく言ってたけど、萌のためだと言いながら、自分の目が届く場所に萌を置いて安心したいがための自己満足だった」


「でも、私……翔平君が構ってくれるのが嬉しかった」


翔平君の瞳が寂しげに揺れていて、思わず大きな声をあげた。


誉められることも叱られることも、相手が翔平君なら嬉しかったし、それが嫌だと思ったことはない。


面倒くさいと思ったことはあるにしても、翔平君が私のことを気にかけてくれればくれるほど、私は元気になっていたような気がする。


「嬉しかったか……。だけど、樹はそんな萌をずっと心配しながら見守っていたんだ。萌の気持ちを知っていただけに仕方がないとも思っていたはずだ。だけど、さすがに就職だけは萌が自分で決めないとだめだって焦ったんだろうな。萌が俺に左右されることなく自分で自分の将来を決められるよう、俺に『萌の就職には口を出すな』って何度もそう言って、萌が自宅から通えない遠くの会社の採用試験を受けるのを認めさせたんだ」


「そう……」


家族でもない翔平君が「認める」なんて、他人が聞けば違和感を感じるかもしれないけれど、兄さんが翔平君に頼み込んだらしいその状況を、私はすんなり理解できた。


私は翔平君のやることなすことの多くに影響を受けていたし、翔平君が、私のことを心配しかわいがるのは当然だと構えていた部分がある。


それを危惧した兄さんが翔平君に「黙ってろ」と言って釘を刺したのも納得できる。


「まあ、俺も萌に構いすぎてる自覚はあったから、渋々ながらも樹の言う通り、萌の就職に関しては黙って見守るつもりでいたんだ。今思い返しても、落ち着かない時間だったけどな」


翔平君はそこで言葉を区切ると、再び私を抱き寄せた。


今日一日翔平君から何度も抱きしめられて、相変わらずどきどきしつつもすんなりと体を預けられるようになった……気がする。


翔平君の体温や吐息にも少しずつ慣れて、緊張よりも嬉しさのほうが上回るようにもなった。


だから、今翔平君が口にした言葉が少しだけ震えているのも、感じた。


私の就職に関して口を出さないと兄さんと約束したことが、それほど苦しかったのだろうか。


翔平君の胸に頬を当てて、じっと考えたけれど、震えた言葉の理由はそれ以外思いつかない。


すると。


「そろそろ萌を解放してくれって樹に言われたら、他人の俺が何を言い返せるわけでもなかったからな。萌がどこに就職しようが祝ってやるつもりでいたんだけど。結局、あの事故のせいで萌の就職をだめにしてしまった。だから、萌が満足のいく仕事ができるまで、俺は見守るだけでいようって思ってたんだけど。帰りが遅いだとか言って、樹よりも口うるさかったよな」


「翔平君……」


肩にかかる吐息が、熱い。


これまで翔平君を追いかけていたのは私自身のわがままでもあるのに、兄さんはなんてことを言っていたんだろうかと申し訳なく思う反面、そう言わせたのは私だなと、過去を反省する。


もちろん、事故のことで翔平君を恨んだことはない。


もしもあのとき希望通りの就職を果たせたとしても、それが私の幸せにつながっていたのかどうかはわからない。


翔平君と離れてしまった生活を楽しめたのかどうかも不明だし。


こうして翔平君に抱きしめられている今を幸せだと思えるのだから、それでいいと思える。


少しずつ、仕事で認められつつあることも、今が幸せに思える理由のひとつだ。


翔平君の温かさを体中に感じながら、視線を上げると。


翔平君が何故か心細げな表情を浮かべていた。


「この五年、我慢していたんだ。萌が好きで、いつも手元におきたくてたまらなかった。ようやく、萌が仕事で結果を出して、望んでいなかった未来を自分で明るいものに変えた。


そろそろ、俺の我慢も限界だ」


「嘘……。ずっと我慢って、そんな」


「嘘じゃない。萌が好きなんだ」


今まで見せられたことのない強い視線に、私は身動きがとれなくなった。


「俺が過去に付き合った女のことを、萌が聞いてもいい気分じゃないってわかってるんだけど」


「お、女? 翔平君の恋人ってこと……?」


翔平君は、立て続けに予想もしていないことばかりを口にし、私をじっと見つめる。


好きだと言われた幸せを実感して喜ぶ間もない。


「これまでに、恋人っていう存在はそれほどいない。会ってその気になれば抱くし、二度と会わなくてもとくに問題のない女のほうが多かった」


「……あ、そ、そうなんだ」


吐息がかかかるほどの近い距離にある翔平君の口元から目を逸らす。


あまりにも近すぎて、どこを見ていいのかわからない。


おまけにこれまではっきりと聞いたことがない翔平君の女性関係について聞かされて、平静でいられるわけがないし。


「大学時代に父さんと母さんの知り合いのカメラマンに頼まれてモデルをしていただろ? それがきっかけだったと思うけど、俺の周りにはモデルやら女優の卵やらが何人もいたし、芸能界への伝手として俺を利用しようとする女もいた」


「あ、それ、聞いたことがある。美乃里さんに紹介して欲しいから翔平君に近づく女性が少なくないって兄さんが呆れてたもん」


「俺の両親が俳優だと知って、俺を踏み台にしようとする女ばかりじゃなかったとは思うけど、本気で俺に惚れてる女をどう見分ければいいのかもわからないし、面倒だし」


「うん」


「で、俺もオトコだし。そんな女を抱くこともあった」


「……そう、なんだ」


翔平君が女性から人気があって、その隣にいられる立場をその誰もが欲しがっているというのも知っている。


恋人だと紹介された人はいないけれど、これまでに何度か翔平君の腕にぶら下がるように体を寄せて歩く綺麗な女性を見たことがある。


大通りを歩いていたり、たまたま入ったレストランで食事をしているのも見たことがある。


そのレストランはホテルの最上階で、食事のあとでふたりがどうしたのかなんて想像もしたくはないけれど。


翔平君が、聖人君子のような毎日をこれまで送ってきたわけではないと、わかっている。


けれど、私にはいつも疑うことのない愛情を注いでくれた。


翔平君の側にいると温かい気持ちになったし、まるでペットのようにまとわりつく私を邪険にするわけでもなく、それどころかその懐に入れて守ってくれた。


志望大学を決めるときだって、実の家族以上に私を心配して「実家から通える大学以外認めない」という一方的な命令を出されてむかつくこともあったけど。


それは、私の恋心に応えようとしてではなく、ただ私を妹のように思う愛情に基づく優しさからの言葉だった。


だから、翔平君が女性とどういう付き合いをしたとしても、そしてそれが本気のものではないとしても、私に口を出す権利はないけれど。


わかっているけれど、やっぱり。



「いい気分じゃない……」


ぽつり、つぶやいた。


「翔平君がもてるのも知ってるし、私はずっと妹みたいなものだったから。何も言えないけど、やっぱり嫌だ」


「ああ。これまでのことは変えられないし、30をとっくに過ぎたオトコの不甲斐なさだと思って諦めてくれるか? 萌が今悲しいと感じる以上に、これからは萌を大切にするし、萌だけを愛するから」


「あ、愛するって、ほ、ほんと?」


ここまではっきりと翔平君が想いを口にしてくれるなんて思わなかったし、それに私を愛しているなんて。


夢のようだ、というか、夢じゃないよね。


「しょうへーくん……」


「あーあ、泣きそうだな」


腰に回された手に力が入り、今にも唇が触れ合いそうな距離で翔平君が笑う。


「人見知りで泣き虫。樹の後ろでこわごわとあたりを見回していた小学生が、いつの間にか俺を見上げてはにかんでた。俺が笑えば顔を真っ赤にして笑い返して、俺が冷たくすれば……まあ、そんなことこれまであまりなかったけど、俺が優しくしないと唇をかみしめて涙をこらえるし」


「そ、それは大げさでしょ……。私、顔にそれほど感情は出ないと思うけど」


肩を揺らして笑い声をあげる翔平君に慌てて反論する。


「たしかに、私は、翔平君が……」


好き。


コンビニの前で言いそびれた言葉を今ここで言ってもいいのだろうか。


さっき翔平君は私が翔平君のことを好きだと自信に満ちた態度で言っていた。


小さな頃から私に見せていた強気な口ぶりは健在だけど、それでもどこか何かを探るような落ち着きのない様子も見え隠れしている。


「で、その続きは? 俺だけが萌を喜ばせる言葉を言うのはおかしいだろ?」


私の次の言葉を催促するように、翔平君の唇が私の頬を滑る。


視線だけは私の目から離さず、何度も頬を撫でるように。


私の体はぴくりと反応し、思わずあとずさってしまったけれど、腰に置かれた翔平君の手がそれを許さない。


離れた距離以上に引き寄せられ、ほとんど抱きしめられたような距離感で私の言葉を待っている。


「萌」


私の名前をつぶやいた唇が、私の唇の端を這う。


唇に触れそうで触れない微妙な刺激に、足元からくずおれそうになる。


力が抜けかけた私の体は翔平君に支えられ、その反動で私は翔平君を見上げた。


相変わらず私の頬に感じる翔平君の唇の熱に「あ……っ」と小さな声をあげて恥ずかしくなる。





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