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初恋1




私が最近引っ越したマンションは、駅から徒歩五分の場所にある。


ゆるい上り坂の向こう側に灯るいくつかの灯り。


家族向けに建てられたというマンションは3LDKが中心で、戸数二十のこじんまりとしたマンションだ。


私が住んでいるのは、そのマンションの中でも小さな間取りの2LDKで、価格も幾分抑えられている。


就職して五年。


実家暮らしでとくに趣味を持たないせいか、思った以上に貯まっていたお金を頭金にして購入した。


二十五年払いでボーナス払いなし。


ボーナスは事務所の業績によって左右されるから頼ることはできないと兄さんに教えてもらい、返済は給与のみにしている。


月々の支払い金額を念頭に置き、悩みに悩み、考えに考え抜いて、契約書に捺印する直前まで胃をシクシク痛めながらも決断した大きな買い物だ。


無事に引っ越しを終えて一カ月。


これまで実家で生活していた私には何もかもが新鮮で、ホームシックに陥ることなく楽しく過ごしている。


朝食作りのついでにお弁当は毎日作っているけれど、さすがに夕食を毎日作るのは大変で、外食やコンビニのお世話になることも多い。


休日には手作りを心がけているとはいえまだ簡単な料理しか作れず、少しずつレパートリーを増やしていきたいと修行中だ。


そんな私にとって、駅からマンションへの道沿いにあるコンビニは、かなり重宝している。


このコンビニの存在も、マンション購入を決めた理由のひとつかもしれない。


毎晩帰りが遅い私には命綱のようでもあり、新商品が発売されると同時に並ぶことも多く、見過ごすわけにはいかないのだ。


このコンビニがなくては生活が成り立たないと言ってもいいほどだ。


今日は、野菜も食べなきゃ。


あ、チョコレートの新商品も並んでる。


冬間近のこの時期、心弾ませるチョコレート達が我が物顔で売り場を占領していて、その戦略にまんまと乗せられてしまう私だけど。


大好きだから、仕方ないよね。


目の前に並ぶいくつかの新商品を手にして、その全部をかごに入れた。


そうでなければ、買わなかったチョコレートが気になって明日の朝通勤の途中で残り全部を買ってしまうとわかっているから。


そんな今までの経験を思い出して、新作のチョコレートすべてを買うことにした。


各メーカーがこの冬のおすすめとして宣伝しているおいしそうな八種類。


チョコレートが大好きだという理由以外にも全種類を買う理由はあるけれど、そのことは考えないようにした。


私はそのパッケージをしばらく見つめたあと、気持ちを切り替えるように視線を動かした。


そして、目当てのものを見つけた。


金色のベースに赤い文字が眩しい長方形のチョコレート。


値段も手頃な単なる板チョコにすぎないとはいえ、その甘さは濃厚で重い。


あっさりとした甘みが主流になりつつある中で、その濃厚な甘みに夢中になった私は、何度もこのチョコレートを買っている。


「食後のデザートはこれで決まりだな」


パッケージの金色はきらびやかで、値段以上に上等な気持ちにさせてくれる。


もともと金色が大好きな私のために作られたような錯覚を覚えてひとりで勝手に盛り上がる。


「これも、翔平君がデザインしたんだよね……」


私のためのデザイン。


その可能性はゼロではないにしても、まさか、それはないだろうと頭を振った。


そして、サラダとおにぎりと、毎月買っている雑誌の新刊もかごに入れて。


レジに向かおうと振り返ると、久しぶりに見る顔がそこにあった。


まさに今思い浮かべていたその顔。


兄さんの親友の翔平君だ。


会えば心は弾み、嬉しさに頬が緩むのを感じるけれど、そんな気持ちを捨て去ろうとしている今、顔を合わせることに躊躇してしまう。


おまけに引っ越して以来初めて会うとなれば、心の準備が必要だ。


そう思い、商品棚の影に隠れようとあとずさったとき。


翔平君が私に気づき、その途端、表情が険しくなった。


「萌、こんな遅くに何してるんだよ。いつまでもふらふらと遊び回ってると樹が心配するだろ」


その言葉に、私は肩をすくめてため息をついた。


「遊び回ってるわけじゃないよ。仕事が忙しくてこの時間にしか帰れないの。兄さんだってそれは知ってる」


毎日の残業で私の体は疲れきっているのに、翔平君はそんなことお構いなしにお説教を始める。


社会人になってかなり経ち、ふらふらと遊んでいるばかりじゃないのに、会うたびいつもお説教じみた言葉で私を睨む。


「仕事って、お前いつもこんなに遅いのか?」


「うん。大体この時間かな。大きな事務所で働いてる翔平君と違って、私は中堅のデザイン事務所勤務だからね。遅くまで頑張らないと仕事は終わらないの」


「……女でも?」


「男も女も関係ない。大きな仕事の納期が迫ったら、男でも女でも会社に泊まり込んで徹夜で仕事してるし。大学を卒業してからは自分が女だなんて意識飛んじゃった」


どうってことないよと、言外に含ませながら笑ってみせると、翔平君は眉を寄せた。


いつまでも私のことを世間知らずの小学生だと思っている彼の態度にはとっくに慣れてしまった。


親友の妹である私への見方としては、当然のものかもしれない。


落ち込みそうになる気持ちを呼び戻すように小さく息をついて、慣れた作り笑顔を浮かべると。


「翔平君には、女だか男だかわからない私なんかよりも綺麗な女子が周りにいっぱいいるんでしょ? 情けなくなるから私のことはあまり見ないでよ。

私はこれから帰ってぐっすり寝て、お肌の調子を整えて、女子力アップさせる予定だし。

それに、どうにか生きてるから心配しないで」


つらつらとこぼれる言葉は本気の本気。


翔平君と一緒に過ごす時間なんて別に欲しくないと、自分の本心をすり替えて、翔平君だけではなく自分自身をもごまかす。


そうでなければ翔平君との距離をうまくとることができないのだ。


私のものでない男性への想いを隠すことがどんどんうまくなる。


そんな自分に心の中で苦笑した。


そして、眉を寄せて不機嫌そうな顔で私を睨む翔平君を無視して傍らをすり抜けると、レジにカゴを置いた。


顔を逸らして翔平君の視界から私の表情が消えるようにと意識して。


カゴの中に溢れているチョコレートをじっと見つめて心を落ち着ける。


こうして翔平君への溢れる感情に折り合いをつけるのはいつものことだ。


翔平君を恋しがる私の気持ちに重くて硬いふたをして、最強の作り笑顔を取り出して貼り付けて。


「じゃ、ね」


視線を合わせることなくつぶやいた。


翔平君の家からも近いこのコンビニで、いつかは会うだろうと思っていた。


というより、それを期待していなかったわけじゃない。


会えば切ないし苦しいし、つらいけれど、会いたい。


片思いだとはいえ、翔平君のことが大好きで、ほんの少しでも会いたい。


会えばふたりの間にある年齢だけではない距離を感じて切なくなるけれど、それでも翔平君と会えれば嬉しくなる。


嬉しくて、苦しくて、幸せで、悲しい。


会わずにいれば、この気持ちも消えていくかもしれないと思うけれど、高校時代からの付き合いである兄さんと翔平君の友情は固いようで、ことあるごとにその気配を感じる。


私の初恋の人で、今でも愛しく思う唯一の男性だけど、翔平君にとって私は単なる親友の妹。


オンナではなく女の子だと何度も実感させられた過去の経験は、私に諦めとため息の隠し方を教えてくれた。


それでもまだ、私は翔平君が好きなのだから、どうしようもない。


この想いを解放して、自分の幸せのためにも新しい恋を見つけなければと思いながらもそれができずにいる。


翔平君への想いを断ち切れない面倒な気持ちはマンションを買うときにも顔を出した。


マンションという大きな買い物をするのだから、多くの物件を見て回り、本当に気に入ったものを買おうと決めていた。


けれど、週末ごとにモデルルームを見に行けば、そのどれにも目を奪われた。


モデルルームという、計算されたインテリアが提供されている魔法の空間に入れば、そのどれもが素敵に見えて、すぐにでも住みたくなる。


私が見たものはどれも魅力的で、すぐにでも欲しくなったけれど、一旦買えば返品なんてできないし、経済的な負担を背負ってでも買うとなれば慎重になる。


簡単には決められなかった。


それでも、幾つかの物件の中から選んだのが、今住んでいるマンションだ。


最終的な購入の決め手となったのが、翔平君と同じ生活圏にあるということだ。


翔平君には結婚を考えている特別な女性がいると知って、今度こそ本当に諦めなければと思う気持ちに嘘はないけれど、ずっと恋焦がれてきた人をそう簡単に切り離すことはできなくて。


離れて楽になりたい気持ちと、つらい思いをするとしても、近くにいたいという気持ちがせめぎ合い、私の気持ちを大きく揺らした。


結局、私は弱いのだ。


現実を考えればそんなこと意味はないとわかっているのに、好きだから、偶然会うことを期待して翔平君の生活圏内にあるマンションを買って越してきたのだ。


だから、こうしてコンビニで偶然会うことを期待していなかったとは言えない。


ううん、正直なところ、かなり期待していた。


「あ、これも一緒にレジ打って」


ふと気づくと、翔平君は私の後ろに並び、私のカゴを指さしていた。


「俺が払うから、会計は一緒で袋は別で」


レジを打つ男の子にそう言っているのを聞いて、私は慌ててそれを遮った。


「あの、私のカゴの商品は私が払うので、会計は別でお願いします」


「うるせえんだよ。まだまだ稼ぎも少ないくせに、黙っておごられてろ」


翔平くんは、ぞくっとするような低い声でそう言った。









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