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十一

 先月、五度目の挑戦にして新人賞を受賞し、僕は美也さんの家を出た。それからどこをどう歩きまわったかはあんまり明確には覚えていないけれど、ある日はビジネスホテルだったり、ある日は漫画喫茶だったり、本当にたまに出版社のソファでそのまま眠っていることもあった。取材と称して地方の学校を訪れたり、街の全容を見たくなって東京タワーに上ってみたり、担当の白石さんに甘えに甘えまくって権力を行使しまくった。

 二十歳の新人作家を、出版社は大事にしてくれた。自分の作品がどれくらいの評価を受けているのかは正直薄ぼんやりしていたけれど、受賞後すぐにドラマ化、映画化が決まった小説を書いた奴を、そうそう手放す人など居るわけもなく、僕はそこの出版社のお抱え作家になった。毎日デスクの混みあったオフィスに出向き、鳴りやまない電話の音に遮られながら打ち合わせをしていると、ついこの間までののんびりした日常が嘘みたいで、恋しかった。

 朝から打ち合わせのあった日、昼になると白石さんと二人でカフェに行った。それまでどこか嫌悪していて立ち入らなかった、少し高いコーヒーを出すところだ。こんなので札を出さないといけないの? と思ってしまうようなサンドイッチを注文して、それでも白石さんは慣れているのか、届いたそれからトマトを下手糞に抜いている。僕はこんなちっぽけなサンドイッチで昼を済ませないといけないのかと絶望しながらそれを見つめ、少しずつかじっては何回も余分に噛んだ。

「昼食中に打ち合わせの続きで申し訳ないけど、さっき言ってた設定で、どうやって落ち着けるの?」

「えーっと、まだちょっとぼんやりなんですけど」

 こんな会話も、しばらくしてすっかり身に沁み込んだ。


 取材、と嘘をついて、一度アパートの近くまで行ったことがあった。結局怖気づいて帰れはしなかったのだけれど、ついでにと思ってムサシさんの本屋に寄った。

 ムサシさんは顔を合わせるとぱっと明るい表情を見せてくれて、よく来たね、と笑った。

「今までいろんな生徒の背中を送り出してきたけど、こういう形で帰ってきた子は初めてだよ」と僕の書いた小説を新品で置いてくれていた。「張り切って特設コーナーまで作ってしまったよ」

 僕は笑顔でそれに応え、そして丁寧にお礼を言った。

「ムサシさんが前にくれた、『ぼくを探しに』っていう絵本のおかげで、小説家を目指そうって決めたんです」

 奥の居間に通されてからそういうと、ムサシさんは細い目をさらにきゅっとさせて微笑んだ。

 その絵本は、一部の欠けた円形の「ぼく」が、その欠けた部分を探して旅に出る話だ。大人向けの絵本、と一部では言われている。

 僕は、欠けた部分が多い。欠陥品、と胸を張っては言わないが、それでも、足りてない部分はたくさんある。それを充足させてくれるパートナーをずっと探していた。お互いがお互いにぴったりと当てはまる無二のパートナー。僕はそれを、この古本屋で見つけた。

「この絵本をムサシさんに貰いに来なかったら、今の僕はなかったと思います」

 それだけで陰の部分を理解したのか、

「君にとって、素敵な本屋になれて嬉しいよ」と言った。


 次の小説は、世間では期待されているらしかった。でも僕はそれをなかなか書き出せずに居た。思い描いているストーリーが、受賞作に比べてがらりと雰囲気が変わってしまうからだ。「恐怖症患者」と名付けたその受賞作は、人間の影や、闇、負の感情をテーマにしたものだった。はっきりとそういう場面がないにしろ、人が人を殺し、安堵し、笑う小説だ。

 僕が書きたかったことがこういうものなのか、考えたことはない。考えなくても結論は出ていたし、何より、これを読ませる時に少し抵抗があったことが、その証拠になっている。

 美也さんは読み終えると深いため息をついて、すごい、と言ってくれた。

「とてもいいよ。君の頭を真っ二つにして脳みそ食べたらもっとよく理解できるんじゃないかって、足りない頭の私は思う」

「最高の褒め言葉をありがとうありがとう」

「二回言うのは」

「思ってない証拠、だよね」

 もう何か月も前のことだ。


 ミーハーなファンは多かった。アスカはまた連絡を寄越してきたし、沓澤からのそれもあった。僕は丁寧に、線を引いて、要件を聞いた。特別視してくれ、という内容は、胸に痛かった。そういう関わり方を求めて遊んでいたのだろうか? とあり得ない妄想が頭をめぐっていって、受賞後すぐは人を信じれなくなった。

 握手をし、サインを書き、笑い、写真を撮り、インタビューに応じる。今までの生活はどこかへ飛ばされて消えて、ここには作家「宮下哲也」という、全く身に覚えのない名前の男が居るのみだ。

 自分が自分では無くなっていく感覚、と自分の小説でよく書いた。皮肉なことに、その文章を書いたおかげで、それを身を持って体感している。遠く離れて行く、自分の意志や、感情、個性が、やがて世間的な「宮下哲也」に喰われていく。一年、下手したら半年もすれば、僕という存在は、文字の中のものになるのかもしれない。

 

 白石さんと打ち合わせを重ねて行くうちに、次の構想が固まり始めた。

 なんてことない青春ストーリーみたいなもので、最初は大反対を受けた。

「世間が求めている宮下哲也って男は、もっと残虐で、奥深くて、醜いやつなんだ」口を開けばそう言ってきた。「こういう世界にはありがちなことなんだが、山村くんが求められているわけじゃない。ペンネームって言うのは、そういうことだ」

 だから、別名義も考えたのだが、新人作家が別名義ですぐに書けるほど甘い世界じゃない、とそれも一蹴される。

 それでも粘り強く、「じゃあここにはこういう含みを持たせますから」とか「この伏線がここで活きますから」と適当なほらを吹いて、なんとか納得させた。根性だけはあるつもりだった。君の性格ってまだ良くわからない、と苦笑されるのを、僕は笑顔で返す。

 構想が決まれば早いもので、プロットを仕上げて白石さんに見てもらい、少し修正を加えるとすぐに書き始めた。「恐怖症患者」を書いた時とは比べ物にならないほど軽くキーボードの上を指が動いてくれる。それは確かに、当たり前と言えば当たり前のことで、この小説は、小説であるけれど、思い出なのだ。考えるのではなく、思い出すだけで済むのだから、指も、記憶を文字に変えて行くのは簡単だった。

 そうやって次回作を書いているうちに、「恐怖症患者」のドラマが始まった。とはいえ、深夜枠だ。一回一時間。若手の俳優を使って、低コストに努めたそれは、思っていた物とはかすった程度の出来だった。でも僕は「すごく良く出来てます」と社交辞令を述べる。

 

 一作目から半年と少し過ぎたころに、ようやく二作目が書店に並んだ。

「宮下哲也の白の世界」

「裏には必ず表がある」

 そんなポップの下に平積みされた僕の本を、一冊、書店で買った。幸い半年以上前の記憶なんて乏しいのか、授賞式の光景が何度かニュースで流れていたけれど、書店員に気付かれることはなかった。誰も僕を、この人だとは思わない。

 本屋を出て携帯を開き、久しく連絡を取っていない女性にメールをする。今から帰るよ。

 

――


 山村くんが作家デビューしてから、私の部屋はずいぶん広くなった。仕事場に近い方が良いから、と笑いながらさっさと荷物をまとめて出て行った彼から、一ヶ月たった今も一度も連絡はない。忙しいのだろう、と折り合いを付けて自分の生活に戻る。立ち位置の変わった二人は、もう気楽に笑いあうことも難しい、らしい。

 ファミレスのバイトはその辺りの時期にやめた。人間関係、というか主に店長からのパワーハラスメントに耐えられなかったし、払う家賃は元に戻ったが二人分の食料を買う必要も無くなって、生活が苦しいということもなかった。続ける理由がなかった。

 武蔵さんにそのことを話すと「じゃあ少し出勤増やそうかなあ、最近腰が悪くなってきてね、店番も辛いんだ」と笑っていた。

 そうやって何カ月か、バイトを繰り返すだけの日々に、戻る。

 

「なんかやつれてない?」

 久しぶりに会った亜紀は、眉間にしわを寄せながらそう言って顔を近づけてきた。

「そう? 働き過ぎかなあ」

「それだけなら、良いけど」

 お互いに核心には触れないで、のらりくらり会話をしながらショッピングモールをあてもなく歩いた。誰かと居るのは気分が紛れて楽だったし、それが亜紀ならばなおさら、気を遣わずに済んで良い。私は頭の中のごちゃごちゃしたものをすっぽりどっかに捨てて、軽い足取りでピアスを買いに行った。

 終わりのころにミスタードーナツで軽く空腹を満たしながら、うわの空の亜紀を笑っていると、それに気付いて、

「あんた本当に大丈夫なの?」と言ってきた。

「なにが?」

「なにがって……。なんだかんだ一年くらい一緒に住んでたじゃない」

「山村くんのこと?」

「他に何があるの」少し苛立って言う。「あっという間に遠くに行って、連絡もなくて、あんたそれでいいの?」

「それでいいもなにも、私と彼は、一緒に住んでいただけの同居人だよ。兄弟でも、恋人でもない、ただの友達。友達が成功して、それをどうとか思う権利、私にはないんだよ」

「関係がどうとかじゃなくて、あんたの気持ちを聞いてんの」

 亜紀は私の返答も待たず、さっさと店を出て行ってしまう。私は追いかけなかった。カフェオレのおかわりを貰って、そのまましばらくぼうっとしていた。


 彼が居なくなってちょうど半年が経ったその日に、私は引越しを決めた。狭い空間に慣れてしまった私一人で住むには部屋が広過ぎたし、家賃ももっと安いところが良いな、と思ったのだ。ここには彼の痕跡がまだ多すぎて、それも少し辛かった。

 引越しを決めたに当たって、古本屋のバイトもやめることにした。使い道のない金がずいぶんと溜まったし、しばらくはこれでのんびり過ごそう、と思っていた。

「寂しくなるなあ」

 本当に寂しそうにそう言ってくれる武蔵さんに申し訳なくなりながら、私は深く深く、頭を下げる。

「私がここで学んだこと、出会ったことは、本当に多いです。感謝しています、本当にありがとうございました」

「君にとって、素敵な本屋になれて嬉しいよ」と笑う。その後で、「そういえば二カ月近く前かな、山村くんが一度ここを訪れたよ」

「そうなんですか?」

「僕は同じことを彼にも言っていたな」先ほどのことを言っているのか、少し照れたように笑う。「二人はまた、この場所で再会してくれるのだと思っていた」

「なんだか、ごめんなさい」

 何度かお礼を繰り返して、店を後にする。

 私の新生活はこれから始まる。


――


 メールの返事はなく、とりあえず向かったアパートで、驚いた。美也さんが居なくなっていた。この部屋を出て行ってしまっていた。そのことを知って、言葉が無くなる。

 僕にはまだ伝えたいことがたくさんあった。話したいことが山ほどあった。それを、彼女は無視して消えてしまった。


――


 新しい家に向かう途中で本屋に寄った。山村くんの新作が出ていると言うので、それを買おうとしていた。

 山村山村……、と呟きながら歩いていたが、そこで彼のペンネームが「宮下哲也」であったことを思い出す。なんだか不思議な感覚だ。彼の名前の中に、私が居る。

 店員さんにお金を払いながら、私がこの作者と同棲していたなんて思いもよらないんだろうなあ、と考えると面白くなって少し笑ってしまった。怪訝そうにこちらを見る店員さんを咳払いでやり過ごし、その後で少し寂しくなった。馬鹿だなあ、と自分で思う。

 電車に乗りながらそれを読んでいた。

 彼の小説を初めて見たあの日、好奇心の中で考えていた「年上の女性と同棲する話」が、彼の手によって、本になっていた。私は思わず本を閉じてしまって、そのまま目も閉じた。心臓がどくんどくんと強く打っているのを全身で感じながら、それでもこれは電車の揺れのせいだ、と誤認しようと必死になった。

 恐る恐る、本を開く。続きを、読もう。彼の脳内を、本音を、見よう。


「美也さん!」

 と聞こえたのは、本を読み終えたすぐ後だった。そして、次の駅で降りようというタイミングだった。

「山村くん」

 私の声は口の中で回って、うまく発声できなかった。

「よかった、会えた。これ、読んでほしくて」

 突き出した両手から渡されたのは私が今読み終えたばかりの小説だった。泣きそうになりながら笑って、カバンにしまった本を取り出す。彼は、しまった、という顔をしながら、苦笑した。

「ありがとう、ありがとう」

「美也さん、本音は?」

「泣きそうなくらい嬉しい」

「僕も」

 

 彼の書いた「半導体」という二作目は、一作目よりも売れた。身近で、ラフで、ゆっくりした彼の真の部分に、共感する声が多かった。

 それのモデルが私と山村くんだなんてわかるのは、亜紀くらいだろう。

「新作読んだよ。笑っちゃった」

 わざわざ新居まで来てくれた亜紀にお茶を出しながら、私も笑ってしまう。

「まんま過ぎてびっくりした。私にもお金入っても良いレベル」

「確かに」

 ひと段落すると、そういえばさ、と亜紀は言った。

「半導体って、どういう意味なの?」

「電気を良く通す良導体や電気を通さない絶縁体に対して、それらの中間的な性質を示す物質である」携帯を見ながら私はゆっくり言う。

 亜紀はへえ、と感心しながら、私を見て、

「良いタイトルだ」

 と言った。

2011年5月にmixiに載せたものを加筆・修正せずそのまま。

一応本編はこれで終わりのようですが、いくつか後日談があったのでもうしばらくお付き合いくださいませ。

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