幸せしか知らない少女
大学にて提出した課題の原作。
ざああっと降り注ぐ雨が髪を濡らす。周りを通り過ぎてゆく人は、私を避けて道の隅へと寄る。
道の真ん中を歩く私が通りやすいように道を開けてくれているに違いない。
裸の足の裏に刺さる小石は、脇腹からじわじわと滲む痛みが夢ではないことを教えてくれている。肌を潤す雨粒は、私の服を汚す赤い液を洗い流してくれる。
なんて、なんて私に優しい世界だろう。嬉しくて、嬉し過ぎて涙が止まらない。
物心というものが自分に宿った時、私の世界に両親というものは存在していなかった。不幸な事に私が生まれてすぐに交通事故に巻き込まれて死んだのだそうだ。
幼い私は、きっと二人が死んだのは、私が彼らの分の幸せを母の腹から出る時に全部奪ってしまったからだろうと思った。
遠い親戚の家に引き取られた私は、義理の親からこれでもかという程の愛を受けて育った。人の言葉をまだ話せない内は、私の育成の邪魔にならぬ為という理由で冷蔵庫に閉じ込められた。段々と自分の足で立てる事が出来るようになると、歩く練習の為に外に連れ出してくれた。練習だからという理由で遠い何処かの公園に置いて来て貰ったこともある。行きに歩いた道を辿って、ただいま、と言って家の玄関の戸を開ければ、おかえりという言葉の代わりに厄介者を見るような眼を向けられたこともあったが、義母曰く、それが優しい人の目らしい。毎日家に帰ってくる度に私に向けられる目は、優しさを含むものだと知って幼心を喜びに滾らせたものだ。
やがて、私は、義理の親元を離れ、中高一貫の寮制の学校に入学することとなった。旅立ちの日、少ない荷物をまとめて出ていく私をとても優しい目で義父と義母は、見送ってくれた。
「頑張って、いってらっしゃい。」
後にも先にも、あんなに嬉しそうに笑う義母の姿を見たのはそれが始めで最後だった。
義母が持たせてくれた小銭から電車代を出し、小さな電車に揺られて辿り着いた駅の周りには見慣れない草で埋め尽くされており、私は、興味深げにその葉を一枚だけ手にとってしげしげと眺める。
「この辺りの土壌はね、綺麗な水仙を育てるのには最適なんだよ。」
通りがかった農夫らしき人が教えてくれた。
「日本水仙っていう種類なんだけどね、師走から如月・・・冬の季節にかけて白と黄色の花弁をつける花だ。その時期には水仙目当ての観光客で街も賑わうんだけど・・・嬢ちゃん、この街じゃ見かけない顔だね」
私は、目線を水仙から農夫の方に移した。
「ここの出身ではないです。」
「・・・まさか、あの山に登るのかい?」
農夫が指差す方に釣られて目をやると、遠景に桜色で覆われた山が聳えているのが見えた。山の木々の軍勢の中に塀に囲まれた古い洋風の建造物があるのがぼんやりと微かに見て取れる。私は、首を縦に振って肯定の意を示す。
「やはりそうか。君もいくんだね。」
優しげだった農夫の顏が気の毒そうな目で私を見た。その瞳が無知な私の顔を映す。それは、憐れみと喜びの入り混じったような色を携えているのがはっきりと見て取れる。
私は、農夫に別れを告げて桃色の山に向かった。
「貴方、今話していた子ってもしかして」
「そうだよ、あの学校でいく子らしい」
「口減らしかしら。容姿からして品行も悪そうだし目つきも悪いし。幾ら親でもあんな気味悪い子を傍に置いときたくないわよね。産んだ母親に同情するわ」
「まぁ、いい。我々には彼女がいった後の事しか関係ないんだから。」
耳を塞ぐと風の梵が私の細い腕を冷やした。目を瞑ると視界は闇に閉ざされた。
ずっと、こうしていたいとさえ思う。私は、光ある世界でも十分幸福だというのに闇にも至高の幸福があるのだろうかと感じることが間々あった。
季節は春。花咲き乱れ、冬の極寒に耐えていた若芽が顏を出す季節。
私は、退屈な入学式の後、自分に割り振られた寮の部屋に足を向けた。散々道に迷って着いた部屋の中にいざ、足を踏み入れると、床から埃が舞う。寝具以外には大した家具もない部屋は長い間誰も使った様子はない。まるで、鳥を閉じ込める檻の様だ。この部屋の第一印象。恐らく最期まで変わることはないであろうことは容易に想像できた。
「学校来るのに一回一回山道登るなんて最悪。疲れたー・・・。」
窓際のベッドを陣取って、空を眺めていると別の生徒が入ってきた。この部屋の居住者の欄には私の他にも名前があったので、恐らくその生徒だろう。
「結構体力使うよね。アンタは何処から来たの?アタシは関西。」
・・・これは、私に対して話しかけているのだろうか。しかし、初めて会った他人にこんなに気さくに接する人に今まであったことがない。が、部屋には私以外に人はいないので恐らく彼女が対話を試みているのは私と見て間違いないだろう。
「・・・東京。」
大抵の人は、首都圏のイメージが強い為か、東京出身の人は、華やかで礼儀正しいのだろうと印象付ける。しかし、私が東京出身と知ると決まって皆落胆めいた表情をする。きっと、私に東京なんてイメージは似合わないと顔で教えてくれているのだろう。有難い。
彼女も親切な人格の持ち主なら落胆めいた表情をしてくれるに違いなかった。でも。
「へぇ、全然そんな風には見えなかった。アンタって東京って言うより、田舎の学校の教室の中で一人で本読んでそうなタイプに見える。」
彼女の名前は、井沼沙織。私の生涯で初めて出来て、初めて失くした友人の名前だった。
季節は夏。太陽が全てを焼き尽くそうと日光を迸らせる季節。
同じクラスになった私と沙織は、他人の関係からよく一緒に休み時間を過ごしたり昼食を摂ったりする友人関係へまで発展した。口下手な私が友人なんて作れたのは、私よりも数段口達者な沙織のお蔭だろう。
いつしか、彼女が私にとってかけがえのない存在になっていた。
「そういえば、昨日、西校舎の窓が誰かに割られてたらしいよ。」
年頃の女子らしく噂好きな沙織は、事件や他人の色事を掻き集めるのに余念がなかった。学校の中にたまにちらほらと漂う良い噂も悪い噂もその発端は大抵は彼女だ。
「しかも昼間にいきなり割れたもんだから下を通ってた女子に硝子片が幾つか刺さったんだって。その子は、命に別状はない程度の怪我で済んだらしいけど、その女子生徒、性格のせいで周りから厄介がられてて恨みとかも散々買ってたみたい。」
犯人、絶対復讐目的だよねと笑う沙織を見て周りの同級生達は眉間を寄せている。
「可哀想だと思う?その子の事。」
沙織は、突然笑うのをやめて私の顔を覗き込んだ。
「アンタは、周囲から恨まれて孤立して挙句には怪我したその子の事、憐れむ事が出来る?」
「どうして、そんなことを私に聞くの。」
「アンタが優しい人かどうかを調べてる。」
アタシにとって、優しい人かどうかをね。
彼女は笑った。歪んだ口で笑った。
そして、私は、彼女を手放したくないと思った。
「そうだね。その子はとても可哀想だと思うよ。」
「アンタなら、そう言ってくれると思った。」
納得いく答えを得られたのか、優しい笑顔を浮かべる沙織の顏には、無数の硝子の切り傷がある。傷の一つは、沙織の顏を動かす筋肉の一部を痛々しい傷跡と共に切断していた。恐らく、それのせいで彼女は最後まで歪んだ笑みしか浮かべることができないだろう。
休み時間、委員の仕事があると言って教室から出て行った彼女の後を追うように私も教室から出た。向かう先は、屋上。今日は天気がいいから、空も晴れて夏日和の綺麗な青を持っているだろう。
「・・・開いてない。」
いつもなら空いているはずの屋上の扉は、強固な錠前で閉じられていた。揺らしてみたが、開く気配はない。
期待が外れて、八つ当たりに扉を足で蹴とばした。これぐらいなら、誰かに見られている訳でもないし、罰は当たるまい。
「自分の怒りを他の物にぶつけちゃいけないよ。」
背後から響く声。今の私の行為を後ろの人物はしっかりと見ていた。
私は、厄介な事になったと肩を竦ませる。ただの生徒に見られていたのならいいが、後ろから聞こえる声には、聞き覚えがあった。しかも、今一番聞きたくない声。
「人間は話せるけど、扉や枕は口無しだから、言葉を持ってない。人間は他人に怒りをぶつけることも出来るし、傷がついても治るけど、物は一度傷ついたら誰か直そうとする人間がいない限り直らない。」
私が扉を蹴った時に出来た窪みを愛おしそうに指で撫でる男。風紀委員長の北沢圭介。規律に異常に厳しいことで有名だ。しかも、私が最も苦手とする相手。
「ちょっと、来てもらおうか。」
逃げようとした私の手を、委員長はしっかと握りしめた。
この学校には破ってはいけないルールが幾つかある。別に普段から授業を真面目に受けて生活を送っていれば髪にも懸からないので、ルール全てを覚えている生徒はいない。しかし、一つだけ皆が知っていて、しかも絶対とされている規則。それは公式ではなく、暗黙のルール。
風紀委員長、北沢圭介の前で絶対に規則を破ってはいけない。
「どうして?」
私は、自慢げに話す沙織に聞き返した。
「なんでって聞かれても・・・。アタシも実はよく知らないのよ。教えてくれた教師も口づてに聞いただけだって言うし。」
情報通の沙織が知らないとは。彼に少しだけ興味が湧いた。ただ、私は危ない橋を渡りたがるような酔狂ではない。今の状態でも十分幸せなのに、今さら危険な賭けをしてそれを壊すなんて私には考えられないことだった。
・・・そう決めていた筈なのに。風紀委員長なんて朝礼でしか見かけたことはないし、余程のことがない限り大丈夫だろうと高を括っていた私は、それを入学してからたったの四ヶ月で破ってしまったのだ。
生徒の間で語り継がれる暗黙の掟。それを破った私は、どんな懲罰が待っているのだろう。
北沢は、私を連れて職員室に向かった。教師に言いつけるのかと思いきや、その前を素通りした彼は、奥の階段に進んでいく。そして・・・。
「屋上よりもこっちの方がよく見えるよ。」
誰もいない階段ホール。北沢が開けた扉の向こうには。
「空の、青・・・。」
両手では抱えきれないような夏独自の空が延々と広がっていた。
「君、いつも昼休みになると屋上で空を見てるね。」
空に見惚れている私に北沢が声をかける。
「風紀委員室の窓からさ、屋上が見えるから君の事もいつも見えるんだよね。」
「どうして、私が空を眺めてるって分かったんですか?」
空から視線を逸らさず、委員長に問う。彼が小さな声で笑うのが聞こえた。
「僕も同じことしてたんだ。この鳥籠みたいな学校に入ったばかりの頃は。いつか、この鳥籠から出て、自由を手に入れた僕が初めて見た海は、あの空の青と同じなのかなって毎日考えてた。」
奇しくも、私が苦手だと感じていた彼が考えていたことは、私の日々思っていたことと全く同じだった。そのことを知って、私は、彼に嫌悪感を感じた。それは、俗にいう同族嫌悪という症状の一種である。
「で、委員長は。」
「他には何も言ってない。ただ、あの空を他の生徒にも見せたかっただけかもしれない。」
「相変わらず、考えが読めない人だね・・・。」
頭を掻き毟って悩む沙織。私は、ふと委員長が言っていたことで気になった言葉があったのを思い出した。
「沙織、この学校の事どう思う。」
「何が言いたいの。」
「この前、委員長がこの学校の事、鳥籠って比喩してたの。しかも、この学校にいるうちは自由になれないみたいなことも言ってた。」
「・・・・・・。」
「・・・沙織?」
急に水をうった様に静まり返った教室。私の声と風で教科書が捲れる音だけが響く。他の生徒を見ると、皆私に驚きと恐怖が入り混じった表情を向けていた。何か、不味い事を言っただっただろうか。
「何言ってんの。ここはただの学校だよ。生徒個人の自由まで制限する権利があるはずないじゃん。」
「・・・でも、」
言いかけた言葉は最後まで発されることはなかった。私の頭に椅子が飛んで来れば避けるしかないから。
「違う。そんな訳はない。」
椅子を投げた同級生は、普段は面倒見の良いリーダー的な存在の生徒だった。沙織と私の会話をすぐ後ろで聞いていたらしい。
「ここは檻なんかじゃない。俺たちは閉じ込められてなんかいない。俺は、親に見捨てられたんじゃない。俺が親を見限ったんだ。」
その生徒は、目が血走っていた。彼が発する言葉も段々と意味を成さない奇声になっていく。沙織が私の手を引いて彼から逃げようと後ろに下がった。
「俺は、邪魔だって死ねばいいって生きていいって誰も言わない誰も俺を見ない、だったら母さん、なんで俺を産んだんだよぉぉ!!」
彼は、机を蹴り窓から上半身を乗り出した。教室の中の誰も彼を止めることが出来なかった。いや、止めようとしなかった。
「まぁ、ルールを破っちゃったんだから仕方ないよ。」
誰が言ったかは分からない。でも、言ったその人が悲鳴と奇声が入り混じらせた声で落ちていく彼を笑っていたのは確かだ。
教師が戻ってきて、生徒全員に各々の部屋で待機しているように言った。今日の授業は取り止めらしい。沙織は、委員の仕事だと言ってまた出て行った。夕闇に覆われ始めた空を見ながら、私はベッドに寝転ぶ。
―――――俺は、親に見捨てられたんじゃない。
彼の死に際の言葉が私の頭の中で反芻していた。その声から逃げたくて、私は睡魔に身を委ねた。
季節は秋。紅葉と落ち葉が山も人の心の奥も覆い尽くす季節。
春は緊張していた新入生達もこの学校の風潮に幾分か慣れたらしく、自分で自分の締め方を決めた。夏には入れなかった屋上も二学期が始まると、春の時と同じく開いているようになった。
早速、沙織のいない昼休み、私は屋上に続く階段を上った。空が見たいのなら委員長が教えてくれた階段に行ってもいいのだけれど、あの場所を委員長が知っているのなら彼と出くわす可能性がある。
嫌な人物に自ら進んで会いに行こうとは思わない。彼のせいで屋上にいる時も彼に見られているのだろうかと思うと清々しい気分も萎んでしまう。
「また、ここに来たんだ。やっぱり、僕が紹介した方には行ってはくれないか。」
淋しそうな声が聞こえた。無視。
「そこから君は、落ちたいの?死にたいの?」
彼は私と並んで横に座る。
「別に死にたくはないです。ただ、空が見たいだけ。」
「そっか、空の上を見てるんじゃないんだ。」
ちらりと彼の顔を見ると、この前よりも隈が増えて肌も白くなっているように見えた。病人の様だ。
「いつかね、僕もここに来て何回か飛び降りたいと思ったことがある。夏に死んだあの少年や他の子達みたいに。」
「自殺願望を語りに来たんですか。」
「まさか。ただの独り言だよ。」
雲が風に流されて山の彼方に消えていく。
「君を見ていて、分かったことがある。」
「・・・何ですか。」
「君は、空は見るのに周りの物も人も自分も見ていない。偽りの自分を見て、偽りの世界を見てそれだけで満足している。」
「私は、嘘なんてついてません。」
「確かに、君は嘘はついていない。いつだって本当の己でありたいと願っているし、他人の良い所もよく見ている。でも、光がない暗い場所や他人の邪悪な部分に目を向けたことがあるかい?向き合おうと思ったことがあったかい?別に僕はそれが悪いことだとは言わないよ、一種の精神を保つための正当防衛だと思う。君が今まで狂気に落ちずに生きてくる為にはしょうがなかったと思う。でも、そんな子供騙しは、もうそろそろ終わりにしなければいけない。嘘が暴かれた時、辛いのは君だ。」
私は、一度も彼を見なかった。彼の目を見てはいけないと思った。
「夏は、死体が腐りやすい。だから、処理も他の季節に比べて面倒だ。でも、秋になった途端、皆我先にといってしまう。」
私は、立ち上がった。彼の隣から逃げた。逃げたかった。
「君の教室には、あと何人同級生が残ってるんだい?」
私の世界を、価値観を、幸せを壊さない為に。
「お帰り。遅かったね。」
教室に戻ると、沙織はいつもの様に歪んだ笑みを浮かべて待っていた。
「また、屋上に行ってたの?」
「うん。」
「やっぱり、アンタは、中々踏ん切りつかないんだ。」
何の事かと首を捻る私を見て、沙織はまた笑う。私が次の授業の準備を始めようとすると、沙織は一瞬ぽつりと言葉を落とすように呟いた。
「アタシね、明日にしようかと思ってるんだ。」
私は、教科書を落とした。教室の床に落下音が静かに響いた。
「やっぱ、最後ぐらいは自分で決めたいからね。産まれた時は、選べなかったし。」
「沙織、駄目だよ。冬は来てないじゃない。」
「でもさ、もう秋だよ。」
沙織は、机の上に落ちている銀杏の葉を繁々と眺める。
「このままこの教室で冬を迎えたら、アタシは二度と出られなくなる。見たかった物も普通の生活らしいことが出来る可能性もなくなる。アタシは、そんなのは嫌だ。例え、天国も地獄も来世もないとしてもアタシの未来を縛りたくない。他の誰にも縛らせたくない。」、
沙織の意志は固かった。私が足にしがみついて懇願しても、歪んだ笑みで寂しそうに笑うだけ。
「アンタがいてくれて良かった。もし、アタシ一人だったら、多分、秋までこの学校にいようなんて思わなかった。この教室や他の生徒みたいに春に絶望して次の冬に恐怖してさっさといっちゃってたと思う。アンタのお蔭だよ。自分の人生に意味を見いだせたのは。」
こんな奴の友達になってくれてありがとう。沙織は、歪んだ笑みを浮かべて、でも、幸せそうに笑った。
次の日、彼女は、屋上から飛び降りた。
埃を被った寮の部屋。私の机以外には何もない教室。春には生徒がいた廊下も秋の終わりに差し掛かった今では、誰もいない。いなくなった。皆、いってしまった。
「最後に残ったのは君か。」
一人屋上に座ってる私の背中に声がかかる。
「先生方は、他の子にばっかり賭けてたけど。まぁ、年季の薄い先生も多いし仕方ないか。ところで、もうそろそろ自分の嘘の世界には飽きてきた頃なんじゃないかい?」
「貴方は、誰に賭けてたんですか。」
「君と井沼沙織。僕のストレート勝ち。でも、僕個人としては井沼沙織の方に残っておいてほしかった。死体処理委員がいなくなっちゃったら、君の死体を処理するのは僕になっちゃうし。」
面倒だねと苦笑する彼。その声と連なるようにチャイムが鳴った。
「今日が秋の最後の日だ。明日からは冬になる。もう、優しい夢は終わる時間だ。君には、空じゃなくて現実を見てもらわないといけない。」
彼は私の体を抱きかかえて、屋上を囲うフェンスの扉を開ける。その先に、私たちを支える床はない。 それを見ない様に私は目を瞑った。開けるものかと思った。私の世界は私だけのものだ、誰にも渡さない。
「僕を勝たせてくれたから、君には選ぶ権利をあげる。さぁ、選ぶといい。」
ここでいくか、冬を待つか。
木枯らしが私と委員長の体を揺らす。ゆっくりと閉じていた瞼を開いた。
私は――――――――。
季節は冬。全ての命が眠りについて、暖かい春を待つ季節。
駅前の日本水仙が咲き誇る花畑に辿り着いた私は、その花達を踏みつけて遊んでいた。私の足が空と地面を行き来する都度、土と血に塗れて萎れた花弁が舞う。私の世界には、水仙だけが映り込んでいた。
遊び飽きた私は、傍に置いておいた委員長の体を引きずって、水仙の花畑に穴を掘り、彼を埋めた。彼の頭だけは空が見えるように土を被せず、出したままにする。
私の周りにいる人は皆優しかった。だから、嫌いな人でも最期ぐらいは優しくしてあげたいと思うのだ。
荷物がなくなって、身軽になると私は、空を見上げた。何もかもが無くなった今となっては、空さえも飛べる気がする。すると、空から小さな水が、やがては大きな水が降ってきた。本物の雨だ。やっぱり、学校にいたときに度々降っていた悲鳴を上げる重たくて赤い雨粒よりも綺麗な水の雨の方が素晴らしい。
きっと、この雨は、あの鳥籠から出てきた私を祝福してくれているのだろう。この水仙は、私への贈り物だ。世界は、何処までも私に優しくしてくれる。儚い夢を見せてくれる。
沙織も此方を見ればよかったのだ。現実なんて歪な物は見ないで、綺麗な優しい夢にさえ浸っていれば良かったのに。でも、逝くことを選んだ沙織も他の皆も愚かだとは思わない。だって、生きることを放棄すればどうなるかを私に教えてくれたのだから。彼らの死をもって、私に生きる力を、未来に続く道を与えてくれた。
心の底からありがとう。私の為に死んでくれてありがとう。
沙織が溶けたのであろう、水仙の土壌を慈しみを持って撫でた。
ぐちゅりと音が鳴って、私に脇の腹から雨と一緒に赤い液体が零れ落ちる。足から力が抜けて、花畑に倒れ込む。日本水仙の芳醇な香りが鼻腔を埋めた。
皆が選ばなかった幸せしか知らない私は、土に溶けて春を待つ。
「この辺りの土壌はね、綺麗な水仙を育てるのには最適なんだよ。」
日本水仙。花言葉は、自己愛。その愛は、今日も命を苗床として咲く。
次の春が来るまで、あと少し。
この小説に関しまして質問があれば、作者のコメント欄にてご開示ください。