婚約破棄された令嬢は、星も恋も諦めない
婚約を破棄されたのは、春の終わりのことだった。
王宮の大広間には幾百もの燭台が灯され、磨き抜かれた大理石の床には、華やかな衣装をまとった貴族たちの姿が映っていた。高い窓の向こうでは遅咲きの薔薇が風に揺れ、楽団の奏でる舞曲が人々の談笑に混じっている。ローゼッタ・フィオーレは、その見慣れた光景が、ひどく遠い場所にあるように感じていた。
「ローゼッタ。君との婚約を解消したいと思っている」
エドワード・ハルフォード侯爵令息は、彼女の目をまっすぐに見てそう告げた。その声には、長く考え抜いた末に正しい決断へ辿り着いた者だけが持つ、妙な落ち着きがあった。
隣には、セシリア・ヴェイン子爵令嬢が立っていた。淡い桃色のドレスを身につけた彼女は、可憐という言葉がよく似合う娘だった。エドワードの腕に添えられた白い指先を見て、ローゼッタは、この半年ほどの出来事を一つずつ思い出した。
約束を取り消されることが増えた。手紙の返事が遅くなった。夜会では、気づけばいつもセシリアが彼の隣にいた。
それでも六年間、彼の婚約者だったのだ。まさか本当に、自分が選ばれなくなる日が来るとは考えたくなかった。
「……理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
声が震えなかったことに、ローゼッタ自身が少し驚いた。
「君が悪いわけではない。ただ、私たちは少し違いすぎたのだと思う。君は昔から、何かに夢中になると周りが見えなくなるところがあっただろう。私はもっと、穏やかで、日々の小さな幸福を一緒に喜べる女性と家庭を築きたいんだ」
エドワードは、そこでセシリアに微笑みかけた。
「彼女は、私の話をよく聞いてくれる。私が何を望んでいるのか、言わなくても理解してくれるんだ」
ローゼッタは、何も答えなかった。
六年間という時間は、人を変えるには十分な長さだった。彼の好みに合わせてドレスの色を選ぶようになり、好きだった本を読む時間を減らし、夜更けまで机に向かうこともやめた。苦手な社交界の話題を覚え、侯爵家の領地経営を学び、彼が任されている慈善事業の書類も手伝うようになった。
何より、天文学の研究を諦めた。
エドワードが、そういうことは淑女のする仕事ではないと言ったからだった。
それでも彼にとって、自分はまだ、妻として望ましい女性ではなかったらしい。
「……そうでしたか」
ローゼッタは静かに頭を下げた。
「これまで、お世話になりました」
尋ねたいことは、いくらでもあった。自分が彼のために諦めてきたものを、一度でも考えたことがあったのか。夜遅くまで彼の仕事を手伝ったことも、彼が好きではないと言った話題を口にしないよう努めたことも、すべて無意味だったのか。
けれど、目の前の青年はすでに別の女性を選んでいる。
何を言ったところで、その事実は変わらなかった。
「君なら、きっともっと相応しい相手が見つかるよ」
エドワードは、慰めるつもりでそう言ったのだろう。
ローゼッタは微笑んだ。
「ありがとうございます。どうぞ、お幸せに」
彼は、ほっとしたようだった。
その安堵の表情を見たとき、ローゼッタはようやく理解した。
この人は、自分がどれほど彼を好きだったのか、最後まで知らなかったのだ。
*
翌朝、ローゼッタは屋敷の北塔へ上がった。
そこには祖父が使っていた小さな観測室があった。長らく開かれることのなかった扉は重く、室内には乾いた木と古い紙の匂いが漂っていたが、東向きの窓から射し込む朝の光は、三年前と少しも変わらず机の上を照らしていた。
真鍮の望遠鏡は、最後に使ったときのまま窓辺に置かれていた。
ローゼッタはその前に立ち、そっと鏡筒へ触れた。
天文学に興味を持ったのは、十歳のときだった。
祖父の望遠鏡を覗くと、一つに見えていた星が二つに分かれて輝いていた。それまで世界は、自分の目に映るものがすべてだと思っていたのに、実際には見えていないものが無数に存在していたのだ。
そのことが、たまらなく面白かった。
十五歳になる頃には、夜ごと星を観測し、自分なりに記録をつけるようになっていた。王立天文院へ送った観測結果に対して、当時の院長から研究を続けるよう勧める手紙が届いたときには、嬉しくて何度も読み返したものだった。
けれど、エドワードはあまり喜んでくれなかった。
『君はいずれ侯爵夫人になるんだよ。そういうことは趣味で楽しめばいいじゃないか』
それが、彼の答えだった。
ローゼッタはそのとき、悲しいと思った。けれど、エドワードの言うことも正しいのだろうと考えた。侯爵夫人になれば家の仕事もあるし、いずれ子どもも生まれる。自分の好きなことばかりしているわけにはいかないのだと、そう自分に言い聞かせた。
以来、望遠鏡はここに置かれたままだった。
「……馬鹿みたい」
小さく呟くと、涙が一滴、机の上に落ちた。
彼のことが、本当に好きだった。
だからこそ、諦められたのだ。星を見たいという気持ちも、研究者になりたいという夢も、彼と過ごす未来のためなら、いつか忘れられると思っていた。
それなのに、彼は自分を選ばなかった。
ローゼッタは、引き出しにしまってあった古い観測帳を取り出した。三年ぶりに開く頁には、几帳面な文字で数字が並んでいる。
南天に見える、アレタという青白い星。
その光度が、一定の間隔でわずかに低下しているように見えるという記録だった。
当時は観測器具の誤差だと思っていたのだが、改めて数値を見直してみると、明るさが変わる日には奇妙な規則性があった。
もしも、この星が一つではなかったとしたら。
もう一つ、光の弱い星が存在していて、互いの周りを回っているとしたら。
ローゼッタは、思わず身を乗り出した。
そう考えれば説明できる現象が、いくつかあった。
もっと詳しく調べてみたい。
過去の観測記録を調べ、もっと精密な器具を使って、確かめてみたい。
胸の奥で、久しく忘れていた感情が目を覚ました。
知りたい。
あの星に、何が起きているのか。
ローゼッタは机の上の暦を見た。
王立天文院の研究員選抜試験まで、あと二か月。
三年間の空白を埋めるには、あまりにも短い時間だった。けれど、今度は誰かに反対されたからといって、最初から諦めたくはなかった。
新しいノートを開き、表紙に名前を書く。
ローゼッタ・フィオーレ。
誰かの婚約者としてではなく、自分自身の名前を。
その文字を見つめているうちに、涙はいつの間にか止まっていた。
*
王立天文院に採用されたのは、それから三か月後のことだった。
試験の成績は、決して優秀とは言えなかった。三年間の空白は想像以上に大きく、筆記では解けない問題がいくつもあり、実技試験でも時間が足りなかった。
それでも、提出した研究計画書が評価され、一年間の見習い研究員として採用されることになったのである。
父は最初、研究員になるという娘の希望に難色を示したが、試験に合格したと聞くと、しばらく黙って考えたあとで、研究を続けることを認めてくれた。
「お前の祖父も、そういうところがあった」
そう言って、少し笑った。
王都へ移り住んだローゼッタを待っていたのは、地味で忙しい毎日だった。王立天文院は彼女が想像していた以上に大きな研究機関で、各地から集まった優秀な研究者たちが、朝から晩まで観測と計算に取り組んでいる。
見習いの仕事は、古い記録の整理や器具の点検が中心だった。自分の研究に使える時間は限られており、三年間の遅れを取り戻すためには、ほかの者よりも多くの勉強が必要だった。
それでも、ローゼッタは幸福だった。
夜遅くまで本を読んでも叱られず、わからないことを尋ねれば、難しい顔をしながらも答えてくれる人がいる。何より、星について話していても、退屈そうな顔をされない。
それだけのことが、彼女には嬉しかった。
ただし、研究は思うようには進まなかった。
アレタの光度変化を詳しく調べるには、より精密な観測が必要だったが、大型望遠鏡の使用時間はすでに数か月先まで埋まっている。見習い研究員が個人研究のために割り当てを受けるのは難しく、申請を出しても、今の段階では検証の優先順位が低いと判断されてしまった。
ローゼッタは落胆したが、研究をやめるつもりはなかった。過去の記録をもっと詳しく調べ、観測方法を工夫すれば、まだできることがあるはずだった。
そんなある夜のことだった。
資料室での仕事を終え、ローゼッタが北棟の回廊を歩いていると、頭上から何かがふわりと降ってきた。
「……え?」
それは、思いがけないほど小さな生き物だった。
丸い耳に、大きな黒い瞳。灰褐色の柔らかそうな毛並みと、ふっくらした白いお腹を持ち、前脚と後脚のあいだには、薄い膜のようなものが広がっている。
生き物はローゼッタの持っていた紙袋にしがみつくと、器用に前脚を動かして中から胡桃を一粒取り出した。
「あっ、こら! それは私のよ!」
慌てて袋を引き寄せたが、すでに遅かった。小さな生き物は胡桃を抱えたまま、素早く彼女の肩へ駆け上がってしまった。
どうしたものかと途方に暮れていると、回廊の向こうから足音がした。
「ルル!」
振り向いたローゼッタは、思わず息を呑んだ。
そこに立っていたのは、驚くほど美しい青年だった。
背が高く、濃紺の上着をきちんと着こなしたその人は、黒に近い髪と灰青色の瞳を持ち、端正な顔立ちにはどこか近寄りがたい気品があった。けれど、彼女の肩にいる生き物を見るなり、その整った眉を少し寄せた。
「……申し訳ありません。私の管理が行き届きませんでした」
青年は、まずローゼッタに頭を下げた。
「その子は、私が保護しているモモンガで、ルルといいます。普段は北棟の奥で過ごしているのですが、どうやら扉を開けた隙に出てきてしまったようです。お怪我はありませんか」
「い、いえ。驚いただけですから……」
青年はほっとしたように微笑み、それからルルへ向き直った。
「ルル。人のものを勝手に取ってはいけませんよ」
落ち着いた声だったが、少しだけ厳しかった。
ルルは胡桃を抱えたまま青年を見つめ、いかにも不満そうに小さく鳴いた。それでも、差し出された手へはおとなしく移っていった。
「お取りになったものはお返しできませんから、代わりを用意させてください。どちらで買われたものでしょうか」
「そんな、一粒だけですから、お気になさらないでください」
「ですが、私の責任でご迷惑をおかけしたのですから」
あまりにも真面目な顔で言われ、ローゼッタは少し驚いた。
見たところ、相当身分の高い人物なのだろう。それなのに、見知らぬ研究員にこれほど丁寧に謝罪するとは思わなかった。
「……それでしたら、今度この子を撫でさせていただけませんか」
青年は目を瞬かせた。
「それだけで、よろしいのですか」
「はい。こんなに可愛いモモンガを見たのは初めてですから」
彼女が答えると、青年は少し驚いたように見つめ、それから柔らかく微笑んだ。
「では、ぜひ。ただ、胡桃のお詫びも別にさせてください」
その笑顔を見た瞬間、ローゼッタは返事をするのを忘れてしまった。
「……ところで、あなたは……」
彼女が尋ねかけると、青年は思い出したように名乗った。
「失礼しました。レオンハルト・アルヴェインと申します」
ローゼッタは、その場で固まった。
レオンハルト・アルヴェイン。
国王の弟であり、王立天文院の研究事業を監督する、王国屈指の天文学者。
王都の令嬢たちが一度は結婚を夢見るといわれる、あのレオンハルト王弟殿下である。
「も、申し訳ございません! 殿下とは存じ上げず……!」
慌てて礼を取ろうとしたローゼッタを、レオンハルトは片手で制した。
「どうか、そのままで。今夜はルルがご迷惑をおかけしたのですから、謝るべきはこちらです」
そう言って、腕の中のモモンガを見下ろした。
ルルはというと、叱られたことなどすっかり忘れたらしく、満足そうに胡桃をかじっていた。
*
翌朝、ローゼッタの研究室には、小さな包みが届けられた。
中には上等な胡桃が入っており、簡潔な手紙が添えられていた。
『昨夜は失礼いたしました。ルルは無事に戻り、今朝も元気にしています。約束どおり、次にお会いした際にはぜひ撫でてやってください。――レオンハルト』
包みには、もう一枚、小さな紙が入っていた。
そこには、不器用ながら愛嬌のある丸いモモンガの絵が描かれ、その下に『本人に反省の様子は見られません』と記されていた。
ローゼッタは思わず声を立てて笑った。
それが、二人の交流の始まりだった。
レオンハルトは、ときおり研究室を訪ねるようになった。最初はルルを連れて来ることが多かったが、やがてローゼッタが研究しているアレタの光度変化について質問するようになり、二人は少しずつ、研究そのものについて議論を交わすようになった。
彼は優れた研究者だった。
知識の量も、思考の速さも、ローゼッタとは比較にならなかったが、そのことを誇る様子はなく、彼女の考えに誤りがあれば率直に指摘し、逆に自分が知らないことについては、ためらわずに質問した。
ある夜、ローゼッタが観測記録を見つめたまま、どうしても計算の矛盾を解消できずにいると、レオンハルトが温かいお茶を持ってきてくれた。
「ずいぶん長いあいだ、同じ頁をご覧になっていますね」
「……申し訳ありません。どうしても、ここがわからなくて」
「謝る必要はありませんよ。少し見せていただけますか」
彼は椅子を引き寄せ、ローゼッタの隣へ腰を下ろした。
肩が触れそうなほど近い。
気づけば、彼の横顔ばかりが気になって、肝心の計算が頭に入らなくなっていた。
「フィオーレ嬢?」
「は、はい!」
「……私の説明が、わかりにくかったでしょうか」
「いえ! そんなことは……!」
慌てるローゼッタを見て、レオンハルトは少し不思議そうに首を傾げた。
そのとき、机の端で眠っていたルルが、ふいに目を覚ました。
小さな身体を伸ばし、二人のあいだへ割り込むように歩いてくると、ローゼッタの袖口に頭を突っ込んで、そのまま丸くなってしまった。
「……ルル?」
ローゼッタが小さく呼ぶと、ルルは満足そうに目を細めた。
レオンハルトは、その様子をしばらく見つめていたが、やがて苦笑した。
「どうやら、あなたのそばが一番落ち着くようですね」
「殿下にも懐いているではありませんか」
「それは長年世話をしてきましたから。しかし、最近は私が呼んでも、あなたのところから動こうとしません」
「……ふふっ」
ローゼッタは思わず笑った。
その笑顔を見たとき、レオンハルトがほんの一瞬、言葉を止めたことに、彼女は気づかなかった。
*
一方、その頃、ハルフォード侯爵家では、困った事態が続いていた。
エドワードは婚約を解消した後、それまでローゼッタが手伝っていた領地の慈善事業を、一人で管理することになっていた。
彼は、その程度の仕事は簡単だと考えていた。
書類を確認し、費用を計算し、業者に指示を出すだけのことだ。ローゼッタにもできていたのだから、自分にできないはずがない。
ところが、秋に入る頃には、すでにいくつかの問題が起き始めていた。
北部の領地へ冬の物資を運ぶため、エドワードは最も安い見積もりを提出した業者と契約した。以前使っていた業者よりも二割近く安く、費用の節約になると考えたのである。
しかし、その業者が利用する山道は、冬になると雪で閉ざされることが多かった。
ローゼッタは以前、同じ業者から見積もりが出された際、その危険性を指摘していた。彼女の作成した資料には、過去十年間の積雪量と通行止めの日数、迂回路を利用した場合の追加費用まで記されていたが、エドワードはそこまで詳しく読んでいなかった。
数字が多くて、面倒だったからだ。
結果として、冬の初めに大量の物資が山中で足止めされ、侯爵家は高額な追加費用を負担して、別の経路から物資を輸送しなければならなくなった。幸い、侯爵自身が早急に対応したため、領民の生活に深刻な被害は出なかったが、慈善事業の収支は大きく悪化した。
「なぜ、このような契約を結んだ」
父である侯爵に問い詰められ、エドワードは不満そうに答えた。
「以前の契約より安かったのです。私は合理的な判断をしたつもりでした」
「合理的だと? 輸送経路も確認せずにか」
「そのような細かいことまで、私が調べなければならないのですか」
侯爵は深く息をついた。
「……ローゼッタ嬢がいた頃は、こんな問題は起きなかった」
その言葉に、エドワードは眉をひそめた。
ローゼッタは、ただ書類を整理していただけではなかったのか。
あの女は数字が好きだったから、好きにさせていただけだ。まさか、自分の仕事が彼女によって支えられていたなど、考えたこともなかった。
侯爵が以前の記録を調べさせると、驚くべきことがわかった。
冬の輸送計画も、物資の配分も、予算の見直しも、その大部分がローゼッタの作成した資料に基づいていたのである。しかも、彼女は単に数字を並べていたのではなく、問題が起きた場合の代替案まで用意していた。
エドワードはそれらをほとんど理解せず、提出された書類に署名していただけだった。
「……お前は、婚約者にどれだけの仕事をさせていたのだ」
侯爵の声は、低かった。
「しかも、そのことに今まで気づかなかったというのか」
エドワードは答えられなかった。
ほどなくして、彼は慈善事業の責任者から外され、侯爵家の重要な実務にも、当面関わらせないことが決まった。
さらに悪いことに、セシリアとの婚約にも陰りが見え始めていた。
彼女は音楽を愛し、将来は王都の音楽院で学びたいと願っていた。しかしエドワードは、それを知ると、結婚するのだからそんなことは必要ないと告げた。
『妻には、私を支えてほしいんだ』
そう言われたセシリアは、しばらく黙っていた。
そして数日後、自ら婚約解消を申し出た。
どうやら彼女は、婚約者を支えることと、自分の人生をすべて差し出すことは違うと考えたらしかった。
エドワードには、その違いが理解できなかった。
*
冬が終わる頃、ローゼッタの研究はようやく一つの成果を迎えようとしていた。
アレタの光度変化について、過去五十年間の観測記録を調べ直し、新たな観測値を加えて検討したところ、一定の周期で星の明るさが変化していることが確かめられたのである。
彼女は、その星が二つの天体からなる連星であり、一方が他方の前を通過することで光が遮られているのではないかと考えていた。
もちろん、まだ証明されていない部分も多かったが、仮説を裏づける資料は十分に揃いつつあった。
研究発表会を一週間後に控えたある夜、ローゼッタは資料室で、最後の計算を確認していた。
窓の外には雪が降っていた。
暖炉の火が静かに燃え、机の上ではルルが、小さな前脚を身体の下へしまい込んで眠っている。
レオンハルトは向かいの椅子で、別の研究資料を読んでいた。
「……殿下」
「はい」
「私、本当にここまで来られるとは思っていませんでした」
その言葉に、彼は顔を上げた。
「研究のことですか」
「ええ。去年の今頃は、もう何もかも終わってしまったと思っていたんです。婚約も、将来も、自分がこれまで頑張ってきたことも、全部」
レオンハルトは、静かに耳を傾けていた。
「でも、今は……」
ローゼッタは机の上の資料を見つめた。
「今は、毎日が楽しいんです。失敗することもありますし、わからないことも山ほどありますけれど、それでも、明日が楽しみなんです」
レオンハルトは少し微笑んだ。
「それは、素晴らしいことですね」
「……殿下のおかげでもあります」
「私の?」
「はい。いつも、私の話を聞いてくださいますから」
彼はしばらく黙っていた。
それから、少し困ったように笑った。
「ローゼッタ」
初めて、名前だけで呼ばれた。
彼女は驚いて顔を上げた。
「私は、あなたの話を聞くのが好きなのです」
「……え?」
「研究の話も、子どもの頃のお話も、ルルに困らされているときのあなたの声も。いつの間にか、そういう時間が、私にとって大切なものになっていました」
ローゼッタは、胸が苦しくなるのを感じた。
けれど、彼はそれ以上何も言わなかった。
ただ、彼女の手元にある空になった茶器を取り、新しいお茶を注いでくれた。
その優しさが、かえって胸に沁みた。
*
研究発表会の日、ローゼッタは正式研究員としての採用を認められた。
アレタの光度変化についての発表は、多くの研究者から関心を集め、さらに大規模な観測を行うための共同研究計画も提案された。審査では研究内容と見習い期間中の実績が評価され、正式採用も研究委員会によって決定された。
発表会のあとには、王宮で小さな祝賀会が開かれた。
ローゼッタが庭園に出ると、そこで思いがけない人物と再会した。
「……ローゼッタ」
エドワードだった。
以前より少し痩せ、どこか疲れたような表情をしていたが、彼女を見つけると、ほっとしたように微笑んだ。
「久しぶりだね。正式な研究員になったと聞いたよ。おめでとう」
「ありがとうございます」
ローゼッタは丁寧に頭を下げた。
それ以上、何を話せばよいのかわからなかった。
しばらく沈黙が続いたあと、エドワードが口を開いた。
「……君には、謝らなければならないと思っていたんだ」
ローゼッタは顔を上げた。
「君が侯爵家の仕事をどれほど手伝ってくれていたのか、私はわかっていなかった。父にも叱責されたよ。……今になって、君がどれほど優秀な女性だったか、ようやく理解した」
その言葉を聞いても、ローゼッタの胸は不思議なほど静かだった。
かつてなら、涙が出るほど嬉しかっただろう。
けれど、今となっては、もう遅かった。
「……セシリアとの婚約も、解消したんだ」
「そうでしたか」
「彼女も、君と同じだった。自分のやりたいことばかりで、私の立場を理解してくれなかった」
ローゼッタは、わずかに眉を寄せた。
エドワードは気づかなかったようだった。
「でも、今なら、君のことをもっと理解できると思う。研究を続けたいのなら、趣味の範囲で認めることだって……」
「エドワード様」
彼女は、静かに言葉を遮った。
「私は、もう侯爵夫人になるつもりはありません」
エドワードが目を見開いた。
「……なぜ?」
「ここで研究を続けたいからです」
「それなら、結婚してからでもできるだろう。私は以前とは違うんだ。君が望むなら、多少のことには目をつぶるつもりだよ」
ローゼッタは、ゆっくりと首を振った。
「私が研究を続けることは、誰かに目をつぶっていただくようなことではありません」
エドワードは、何も言えなかった。
「私は、星が好きなんです。知らないことを知りたいですし、これからも新しいことを学んでいきたいと思っています。以前の私は、その気持ちをあなたに理解していただきたくて、ずっと努力していました」
ローゼッタは、少しだけ微笑んだ。
「でも、もう、その必要はないのだと気づきました」
エドワードの顔が、ゆっくりと強張った。
彼はようやく、自分が何を失ったのか、少しだけ理解し始めたのかもしれなかった。
そのときだった。
「ローゼッタ」
庭園の向こうから、よく通る声がした。
振り向くと、レオンハルトが歩いてくるところだった。
今日は王族としての正装を身につけており、濃紺の礼服には銀糸の刺繍が施され、胸元には王家の紋章が輝いている。長身の姿はひときわ目を引き、端正な顔立ちには、普段の研究室では見られない厳かな気品が宿っていた。
近くにいた貴族たちが、一斉に頭を下げた。
エドワードも慌てて礼を取る。
「レ、レオンハルト殿下……」
レオンハルトは軽く頷くと、ローゼッタへと視線を向けた。
「探しました。こちらにいらしたのですね」
「はい。殿下こそ、どうなさったのですか」
「ルルがまたあなたのことを探しているものですから。あの子は最近、私の執務室よりもあなたの研究室のほうが気に入っているようで」
彼は、少し困ったように笑った。
その表情を見て、ローゼッタも思わず微笑んだ。
二人のあいだに流れる親密な空気に、エドワードは明らかに戸惑っていた。
「……殿下は、ローゼッタと親しくされているのですか」
レオンハルトは、静かに彼を見た。
「ええ。彼女とは、研究上でも大切な関係を築いています」
それから、少しだけ微笑んだ。
「そして、私個人としても、大変好ましく思っている女性です」
その言葉に、ローゼッタの頬が熱くなった。
エドワードは、何も言わなかった。
王族としても、研究者としても、容姿も、人柄も、自分とは比較にならないほど優れた青年が、かつて自分が捨てた女性を、こんなにも大切そうに見つめている。
その光景を前にして、彼にはもう、何も言えることがなかった。
「ローゼッタ。少し、お時間をいただけますか」
レオンハルトが、彼女に手を差し出した。
「はい。喜んで」
ローゼッタは、その手を取った。
振り返ることはなかった。
*
王宮の西塔には、小さな屋上庭園があった。
春の夜風が柔らかく吹き、遠くには王都の街並みが広がっている。空には無数の星が輝き、南の低いところには、ローゼッタが長年研究してきたアレタの姿も見えた。
レオンハルトは、彼女を庭園の中央まで案内すると、ふと立ち止まった。
「先ほどは、少々出過ぎたことを申しました」
「……いいえ」
「ただ、あの方があなたに何を望んでいるのか、何となくわかりましたので」
ローゼッタは、彼を見つめた。
「殿下……」
レオンハルトは、少し考えるように目を伏せた。
「私は、あまり器用な人間ではありません。研究のことなら、何時間でも考え続けられるのですが、人の気持ちとなると、どうにも難しい」
彼は、少し困ったように笑った。
「あなたが研究に夢中になっている姿を見るのが好きです。わからないことを知ろうとしているときの、あの真剣な眼差しも、ルルに邪魔をされて困っている顔も、計算が合ったときに嬉しそうに笑うところも」
ローゼッタは、息を止めた。
「最初は、優秀な研究者だと思っていました。けれど、いつの間にか、研究の話をしていないときのあなたまで、気になるようになっていたのです」
その声は、静かだった。
けれど、少しだけ震えているようにも聞こえた。
「あなたがほかの男性と話しているところを見ると、なぜか落ち着かない。ルルがあなたの肩で眠っているのを見ると、あの子が羨ましくなることさえあります」
ローゼッタは、思わず笑ってしまった。
「……殿下が、ルルを?」
「ええ。我ながら、大人げないと思います」
レオンハルトも笑った。
それから、まっすぐに彼女を見つめた。
「ローゼッタ。私は、あなたが好きです」
その言葉は、飾り気のない、けれど何よりも真摯なものだった。
「あなたがこれから先、何を研究し、どんな場所へ辿り着くのか、私は見ていたいと思っています。もし許されるなら、その隣に私もいたい」
ローゼッタは、しばらく何も言えなかった。
嬉しかった。
胸が苦しくなるほど、嬉しかった。
けれど、同時に怖くもあった。
「……私、研究をやめるつもりはありません」
ようやく、それだけ言った。
「もちろんです」
「王弟殿下の妻となる方には、きっと多くのお務めがあるのでしょう。私は、そういうことが上手ではありませんし、研究をしていると、時間を忘れてしまうこともあります」
レオンハルトは、静かに頷いた。
「あなたに負担をかけることは、あるかもしれません。王族としての務めがある以上、何も変わらないとは申し上げられない。それでも、あなたが大切にしている研究を、結婚のためにやめてほしいとは思いません」
彼は、そっと彼女の手を取った。
「必要なことは、一緒に考えていきましょう。私は、あなたに私の望む女性になってほしいのではありません。あなたと一緒に生きていきたいのですから」
ローゼッタは、目を伏せた。
涙が落ちた。
かつて彼女は、誰かに愛されるためには、自分を変えなければならないのだと思っていた。
けれど、今、目の前にいる人は違う。
彼女の夢を知り、その夢を大切にしてくれる人だった。
「……私も」
声が震えた。
「私も、殿下と一緒にいたいです」
レオンハルトは、一瞬だけ目を見開いた。
それから、心から嬉しそうに笑った。
「……よかった」
その声に滲んだ安堵が、ローゼッタにはたまらなく愛おしかった。
彼がそっと身を屈め、彼女の手の甲に口づけたとき、背後から小さな鳴き声がした。
「……きゅっ」
二人が振り返ると、庭園の石柱の上にルルが座っていた。
白いお腹をふくらませ、大きな黒い瞳で二人をじっと見つめている。
「まあ、ルル。どうしてこんなところに?」
ローゼッタが手を差し出すと、ルルは待っていたとばかりに飛び移り、そのまま彼女の胸元へ潜り込んだ。
レオンハルトは、少し呆れたように息をついた。
「……また、あなたのところですか」
ローゼッタは笑った。
「殿下、ルルが嫉妬しているのかもしれませんよ」
「それはこちらの台詞なのですが」
あまりにも真面目な声で言うので、ローゼッタは驚いて彼を見上げた。
するとレオンハルトは、わずかに頬を赤くしていた。
「……あなたがルルを撫でているときは、私のことなど見てくださらないので」
ローゼッタは、しばらく呆然とした。
そして、思わず声を立てて笑ってしまった。
「まあ、殿下ったら!」
「笑わないでください。本気で困っているのです」
そう言いながらも、彼は笑っていた。
ローゼッタはルルを片腕で抱き直し、空いている手をそっとレオンハルトの手に重ねた。
「……では、こうしましょう」
「はい?」
「ルルは私が抱っこしますから、殿下は、私の手を握っていてください」
レオンハルトは、しばらく彼女を見つめていた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……それは、ずいぶん贅沢な提案ですね」
「お気に召しませんか?」
「いいえ。これ以上ないほど」
彼は、彼女の手を優しく握り返した。
ルルは二人のあいだで満足そうに丸くなり、小さな前脚で顔をこすっている。
その姿を見ながら、ローゼッタは思った。
婚約を破棄されたあの日、もう自分には幸せなど訪れないのだと信じていた。
愛する人に捨てられ、六年間の努力を否定され、これからどう生きていけばよいのかさえ、わからなくなっていた。
けれど、あの夜がなければ、きっと今ここにはいなかっただろう。
星を追いかけることも。
ルルに出会うことも。
この人に恋をすることも。
そう考えると、不思議な気がした。
失ったものは、確かにあった。
けれど、それ以上に大切なものを、今は手にしている。
ローゼッタは、レオンハルトを見上げた。
「……殿下」
「はい」
「私、これからも星を追いかけていたいです」
「ええ」
「でも、これからは、たまには殿下のことも見ようと思います」
レオンハルトは、一瞬だけ驚いたような顔をした。
それから、少し意地悪そうに微笑んだ。
「たまに、ですか」
「……もう少し、頻繁に?」
「できれば、毎日お願いしたいですね」
ローゼッタは、顔が熱くなるのを感じた。
彼はそんな彼女を見て、ひどく嬉しそうに笑った。
「その代わり、星を見るときは、私も隣にいさせてください」
「……はい」
二人は並んで夜空を見上げた。
南天には、アレタが静かに輝いている。
あの星が本当に二つの天体から成るのかどうか、完全な答えが得られるのはまだ先のことだろう。けれど、その答えを探していく時間が、ローゼッタには楽しみでならなかった。
それは、これからの人生も同じだった。
何が待っているのかは、まだわからない。
研究者としてどこまで進めるのかも、王弟殿下の隣でどんな日々を送ることになるのかも、今は想像することしかできなかった。
それでも、もう怖くはなかった。
レオンハルトの手は温かく、腕の中のルルは、すっかり安心したように眠っている。
この先、もしも道に迷うことがあっても、今度は一人ではないのだろう。
そのことが、何よりも嬉しかった。
*
翌年の春。
ハルフォード侯爵家の跡取りであるエドワードは、領地経営の仕事を任せてもらえないまま、父の指示で基礎的な実務を学び直していた。
かつて婚約を解消したローゼッタが、王弟殿下の婚約者となったという知らせは、すでに王都中に広まっている。
侯爵家に届いた王宮からの正式な招待状には、二人の婚約を祝う祝賀会の日程が記されていた。
エドワードは、その招待状を長いあいだ見つめていた。
ローゼッタは、いつも自分の隣にいた。
彼が頼めば書類を整え、わからないことがあれば調べ、疲れたと言えば心配してくれた。そんな彼女がいることを、彼は一度も特別なことだと思わなかった。
そして、彼女がいなくなって初めて、自分がどれほど多くのものを受け取っていたのかを知ったのだった。
けれど、気づくのが遅すぎた。
王宮の祝賀会で、ローゼッタはレオンハルトの隣に立っていた。
淡い銀青色のドレスをまとい、髪には小さな星をかたどった飾りをつけている。かつてエドワードの隣で控えめに微笑んでいた頃とは違い、彼女は心から楽しそうに笑っていた。
その笑顔を見て、エドワードはようやく思い出した。
十二歳の頃、ローゼッタが初めて星について話してくれた日のことを。
あのときの彼女も、こんなふうに笑っていた。
それを、自分はいつから見なくなっていたのだろう。
彼女が笑わなくなったことに、なぜ気づかなかったのだろう。
エドワードは何かを言おうとしたが、結局、声をかけることはできなかった。
レオンハルトが、ローゼッタに何かを囁いた。
すると彼女は、頬を赤くして笑った。
レオンハルトも笑っていた。
それは、誰が見ても幸福な二人の姿だった。
エドワードは、静かに視線を落とした。
彼女が自分のものではなくなったことを、ようやく本当の意味で理解したのだった。
*
その夜、祝賀会を終えたローゼッタは、レオンハルトとともに天文院の北塔へ立ち寄った。
ルルはいつもの寝床で丸くなっていたが、二人の足音に気づくと、眠そうな顔を上げた。
「ただいま、ルル」
ローゼッタが声をかけると、小さなモモンガは一度だけ鳴き、彼女の手の上へ乗ってきた。
「……まったく。私が呼んでも、今夜は顔さえ上げなかったのですが」
レオンハルトが、少し不満そうに言った。
「ふふっ。殿下、また嫉妬なさっているのですか?」
「もちろんです」
あまりにも堂々と答えるので、ローゼッタは笑ってしまった。
レオンハルトはその笑顔をしばらく見つめ、それから、彼女の髪に触れた。
「ローゼッタ」
「はい?」
「……幸せですか」
突然の問いに、彼女は少し驚いた。
けれど、答えは簡単だった。
「はい。とても」
そう言うと、レオンハルトは心から安堵したように微笑んだ。
「それなら、よかった」
その声があまりにも優しくて、ローゼッタは思わず彼の胸に顔を寄せた。
レオンハルトは一瞬だけ驚いたようだったが、すぐに彼女を優しく抱き寄せた。
腕の中では、ルルが二人に挟まれて少し迷惑そうに身じろぎしている。
「……ルルが潰れてしまいますね」
「そうですね。先に寝床へ戻してあげましょう」
ローゼッタは笑いながらルルをそっと戻し、もう一度レオンハルトの方へ向き直った。
すると彼は、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「これで、ようやくあなたを独り占めできます」
ローゼッタは、頬を赤くした。
「……殿下は、意外と欲張りなのですね」
「あなたに関しては、そうかもしれません」
レオンハルトは、彼女の額に優しく口づけた。
窓の外には、春の夜空が広がっていた。
ローゼッタは、そっと目を閉じた。
かつて、星を追うことを諦めた少女がいた。
誰かに愛されるために、自分の大切なものを手放そうとした少女だった。
けれど今、その少女は、星も、恋も、未来も、何一つ諦めずに手にしようとしている。
それがどれほど欲張りなことであっても、もう恥じる必要はなかった。
彼女の隣には、同じ夢を見つめてくれる人がいる。
そして、二人が笑い合う足元には、すっかり眠り込んだ小さなモモンガがいる。
ローゼッタは、レオンハルトの胸に頬を寄せながら、静かに微笑んだ。




