あなたは私を覚えていない。それでも、また好きになってしまった。
カイル・ドレントが帰ってきた、という知らせを聞いたのは、王都の市場で花を選んでいるときだった。
隣にいた侍女のルナが「騎士団長殿が北の戦線から戻られたそうです」と囁いて、それだけで私の手から白い花が落ちた。石畳に散らばった花びらを拾いながら、私はしばらく立ち上がれなかった。
二年。
二年前の春、カイルは私の前に立って言った。「セラ、もう会うのをやめよう」と。理由は言わなかった。ただ、申し訳なさそうな顔もせず、ただ静かに、まっすぐそう言った。私は泣かなかった。泣けなかった。何かを言おうとして、何も出てこなくて、ただ頷いた。
それから一年後、カイルの副官だったマルコが私を訪ねてきた。「団長があなたと別れたのは、セラ様を守るためだった」と言った。敵対する北の貴族派閥が、騎士団長の弱点を探していた。私がその「弱点」だった。カイルは私を切り捨てることで、狙われる理由をなくそうとした。
怒ればよかったのかもしれない。泣けばよかったのかもしれない。でも私はその話を聞いて、ただ「そうでしたか」と言った。それだけだった。カイルに直接確かめることもできなかった。彼はもう北の戦線へ発った後だった。
そして今、帰ってきた。
記憶を失って。
*
王宮の医務室に足を運んだのは、翌日のことだった。
父が宮廷医師の手伝いを命じられており、薬草の補充を届けるのが私の役目だった。別に会いに行ったわけではない。そう自分に言い聞かせながら廊下を歩いていると、開いたままの扉の向こうに、白い寝台が見えた。
カイルがいた。
上半身を起こして、窓の外を見ていた。二年前より少し痩せていた。左の額に包帯が巻かれていた。髪が伸びていた。それ以外は、何も変わっていなかった。
「失礼します」と私は言った。「薬草の補充に参りました」
カイルが振り向いた。
私を見た。
何も起きなかった。
当たり前だった。わかっていた。記憶がないのだから、知らない顔として見ているはずだった。でも実際にその目が私を「初めて見る人間」として映しているのを見て、胸の奥で何かが静かに崩れた。
「ありがとう」とカイルは言った。低い声だった。二年前と同じ声だった。「君は宮廷の方?」
「男爵家の娘です。父が医師の補佐をしております」
「そうか」彼は少し目を細めた。「なんだか、落ち着く声だな」
私は返事をしなかった。薬草の袋を棚に置いて、一礼して、部屋を出た。廊下に出てから、壁に背中をつけて、しばらく動けなかった。
*
それから、会う回数が増えた。
父の手伝いで医務室に来るたびに、カイルは声をかけてきた。最初は「また来てくれたのか」という程度だった。それがいつの間にか「今日は何を持ってきた」「この花は何という名前か」という話になり、窓際に椅子を引いて向かい合って話すようになった。
カイルは快復が早かった。二週間もすると包帯が取れて、三週間目には室内を歩けるようになった。
「俺は何を忘れているんだろうな」とある日、彼は言った。独り言のようだった。「副官のマルコが来てくれて、いろいろ話してくれる。でも、話を聞いても何も浮かんでこない。知識はあるのに、感覚がない。不思議なものだ」
「怖くはないのですか」と私は聞いた。
「怖い、か」カイルは少し考えた。「怖いかどうかもよくわからない。ただ、何か大切なものを置いてきた気はする。それが何なのかがわからない」
私は何も言えなかった。
あなたが置いてきたのは私です、とは言えなかった。あなたが守ろうとしたのは私です、とも言えなかった。言ったところで何になるのか、わからなかった。記憶のない人間に過去を押し付けることが、正しいのかどうか、わからなかった。
ただ、毎日会うのが苦しくなっていた。
笑いかけてくるカイルが苦しかった。昔と同じ目をしているのに、その目が自分を映していないことが苦しかった。それでも足が向いてしまうことが、一番苦しかった。
*
転機は、カイルが初めて医務室の外に出た日に来た。
快復祝いに王宮の中庭を一緒に歩いた。カイルは久しぶりの外の空気を大きく吸い込んで、それから私を見て言った。
「セラ」
私は足を止めた。
「今、何と言いましたか」
「セラ、と言った」カイルは少し首を傾げた。「おかしいな。なぜそう呼んだんだろう。君の名前を聞いていなかったのに」
心臓が鳴った。
「……それが私の名前です」と私は言った。「セラ・ヴェイン。男爵家の娘です」
カイルの目が静かに揺れた。
「知っていた、というわけじゃない」と彼はゆっくり言った。「でも、その名前だと思った。なぜだろう」
私は答えなかった。
答える代わりに、空を見上げた。雲が流れていた。二年前も、こういう空の下でカイルと並んで歩いたことがあった。あのときカイルは何も言わずに私の手を取って、それだけで私は泣きそうになって、でも泣かなかった。
「セラ」
もう一度呼ばれた。
「俺は、以前あなたと会ったことがあるのではないか」
振り向いたら、カイルが真剣な顔でこちらを見ていた。
「記憶がないから確かめようがない。でも、あなたといると、何か思い出しそうな気がする。懐かしい、というのとも違う。もっと、近い感じがする」
私の目が熱くなった。
ずるい、と思った。覚えていないくせに。忘れたくせに。それでも同じ目をして、同じ声で、また同じように私の名前を呼ぶのか。
「会ったことがあります」と私は言った。声が少し震えた。「でも、昔の話です。あなたが覚えていなくても、問題ありません」
「問題ない、か」カイルは静かに繰り返した。「あなたはそれでいいのか」
よくない、と思った。
全然よくなかった。
でも、よくないと言ったところで何も変わらない。記憶は戻らないかもしれない。戻ったとしても、守るために捨てたという事実は変わらない。それをどう受け取ればいいのか、二年経った今もまだわからなかった。
「よくないです」と私は言った。
声に出したのは、自分でも意外だった。
カイルが少し目を開いた。
「よくないけれど」と私は続けた。「どうすればいいかも、わかりません。あなたが覚えていないなら、また最初から話すしかない。あなたが覚えていないあなたと、私が知らないあなたを、また知るしかない」
カイルはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「それでいい」と彼は言った。
「俺もそう思う」
*
帰り道、私は一度だけ泣いた。
路地に入って、誰もいないのを確かめてから、声を出さずに泣いた。悲しかったわけじゃない。悔しかったわけでもない。ただ、二年間ずっと抱えていた何かが、少しだけほどけた気がした。
カイルはもう私を覚えていない。
あの春の日も、偽りの別れも、守ろうとした理由も、全部消えてしまった。
でも、名前だけは覚えていた。
記憶より先に、名前だけが戻ってきた。
それで十分かどうかはわからなかった。でも今日だけは、それで十分だと思うことにした。




