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あなたは私を覚えていない。それでも、また好きになってしまった。

作者: 霧原 澪
掲載日:2026/04/24

 カイル・ドレントが帰ってきた、という知らせを聞いたのは、王都の市場で花を選んでいるときだった。


 隣にいた侍女のルナが「騎士団長殿が北の戦線から戻られたそうです」と囁いて、それだけで私の手から白い花が落ちた。石畳に散らばった花びらを拾いながら、私はしばらく立ち上がれなかった。


 二年。


 二年前の春、カイルは私の前に立って言った。「セラ、もう会うのをやめよう」と。理由は言わなかった。ただ、申し訳なさそうな顔もせず、ただ静かに、まっすぐそう言った。私は泣かなかった。泣けなかった。何かを言おうとして、何も出てこなくて、ただ頷いた。


 それから一年後、カイルの副官だったマルコが私を訪ねてきた。「団長があなたと別れたのは、セラ様を守るためだった」と言った。敵対する北の貴族派閥が、騎士団長の弱点を探していた。私がその「弱点」だった。カイルは私を切り捨てることで、狙われる理由をなくそうとした。


 怒ればよかったのかもしれない。泣けばよかったのかもしれない。でも私はその話を聞いて、ただ「そうでしたか」と言った。それだけだった。カイルに直接確かめることもできなかった。彼はもう北の戦線へ発った後だった。


 そして今、帰ってきた。


 記憶を失って。


*


 王宮の医務室に足を運んだのは、翌日のことだった。


 父が宮廷医師の手伝いを命じられており、薬草の補充を届けるのが私の役目だった。別に会いに行ったわけではない。そう自分に言い聞かせながら廊下を歩いていると、開いたままの扉の向こうに、白い寝台が見えた。


 カイルがいた。


 上半身を起こして、窓の外を見ていた。二年前より少し痩せていた。左の額に包帯が巻かれていた。髪が伸びていた。それ以外は、何も変わっていなかった。


「失礼します」と私は言った。「薬草の補充に参りました」


 カイルが振り向いた。


 私を見た。


 何も起きなかった。


 当たり前だった。わかっていた。記憶がないのだから、知らない顔として見ているはずだった。でも実際にその目が私を「初めて見る人間」として映しているのを見て、胸の奥で何かが静かに崩れた。


「ありがとう」とカイルは言った。低い声だった。二年前と同じ声だった。「君は宮廷の方?」


「男爵家の娘です。父が医師の補佐をしております」


「そうか」彼は少し目を細めた。「なんだか、落ち着く声だな」


 私は返事をしなかった。薬草の袋を棚に置いて、一礼して、部屋を出た。廊下に出てから、壁に背中をつけて、しばらく動けなかった。


*


 それから、会う回数が増えた。


 父の手伝いで医務室に来るたびに、カイルは声をかけてきた。最初は「また来てくれたのか」という程度だった。それがいつの間にか「今日は何を持ってきた」「この花は何という名前か」という話になり、窓際に椅子を引いて向かい合って話すようになった。


 カイルは快復が早かった。二週間もすると包帯が取れて、三週間目には室内を歩けるようになった。


「俺は何を忘れているんだろうな」とある日、彼は言った。独り言のようだった。「副官のマルコが来てくれて、いろいろ話してくれる。でも、話を聞いても何も浮かんでこない。知識はあるのに、感覚がない。不思議なものだ」


「怖くはないのですか」と私は聞いた。


「怖い、か」カイルは少し考えた。「怖いかどうかもよくわからない。ただ、何か大切なものを置いてきた気はする。それが何なのかがわからない」


 私は何も言えなかった。


 あなたが置いてきたのは私です、とは言えなかった。あなたが守ろうとしたのは私です、とも言えなかった。言ったところで何になるのか、わからなかった。記憶のない人間に過去を押し付けることが、正しいのかどうか、わからなかった。


 ただ、毎日会うのが苦しくなっていた。


 笑いかけてくるカイルが苦しかった。昔と同じ目をしているのに、その目が自分を映していないことが苦しかった。それでも足が向いてしまうことが、一番苦しかった。


*


 転機は、カイルが初めて医務室の外に出た日に来た。


 快復祝いに王宮の中庭を一緒に歩いた。カイルは久しぶりの外の空気を大きく吸い込んで、それから私を見て言った。


「セラ」


 私は足を止めた。


「今、何と言いましたか」


「セラ、と言った」カイルは少し首を傾げた。「おかしいな。なぜそう呼んだんだろう。君の名前を聞いていなかったのに」


 心臓が鳴った。


「……それが私の名前です」と私は言った。「セラ・ヴェイン。男爵家の娘です」


 カイルの目が静かに揺れた。


「知っていた、というわけじゃない」と彼はゆっくり言った。「でも、その名前だと思った。なぜだろう」


 私は答えなかった。


 答える代わりに、空を見上げた。雲が流れていた。二年前も、こういう空の下でカイルと並んで歩いたことがあった。あのときカイルは何も言わずに私の手を取って、それだけで私は泣きそうになって、でも泣かなかった。


「セラ」


 もう一度呼ばれた。


「俺は、以前あなたと会ったことがあるのではないか」


 振り向いたら、カイルが真剣な顔でこちらを見ていた。


「記憶がないから確かめようがない。でも、あなたといると、何か思い出しそうな気がする。懐かしい、というのとも違う。もっと、近い感じがする」


 私の目が熱くなった。


 ずるい、と思った。覚えていないくせに。忘れたくせに。それでも同じ目をして、同じ声で、また同じように私の名前を呼ぶのか。


「会ったことがあります」と私は言った。声が少し震えた。「でも、昔の話です。あなたが覚えていなくても、問題ありません」


「問題ない、か」カイルは静かに繰り返した。「あなたはそれでいいのか」


 よくない、と思った。


 全然よくなかった。


 でも、よくないと言ったところで何も変わらない。記憶は戻らないかもしれない。戻ったとしても、守るために捨てたという事実は変わらない。それをどう受け取ればいいのか、二年経った今もまだわからなかった。


「よくないです」と私は言った。


 声に出したのは、自分でも意外だった。


 カイルが少し目を開いた。


「よくないけれど」と私は続けた。「どうすればいいかも、わかりません。あなたが覚えていないなら、また最初から話すしかない。あなたが覚えていないあなたと、私が知らないあなたを、また知るしかない」


 カイルはしばらく黙っていた。


 それから、ゆっくりと口を開いた。


「それでいい」と彼は言った。


「俺もそう思う」


*


 帰り道、私は一度だけ泣いた。


 路地に入って、誰もいないのを確かめてから、声を出さずに泣いた。悲しかったわけじゃない。悔しかったわけでもない。ただ、二年間ずっと抱えていた何かが、少しだけほどけた気がした。


 カイルはもう私を覚えていない。


 あの春の日も、偽りの別れも、守ろうとした理由も、全部消えてしまった。


 でも、名前だけは覚えていた。


 記憶より先に、名前だけが戻ってきた。


 それで十分かどうかはわからなかった。でも今日だけは、それで十分だと思うことにした。

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