短編 『断頭台の聖女は、涙を売ってスチーム・エクスプロージョンを買う ~水の大精霊使いの王子、体積1700倍の物理法則で破裂死する~』
第1話 牢獄の雫と、死神の計算式
王都の地下深くに広がる大監獄、その最下層。
陽の光など一度も射したことのない石造りの独房には、ただ、冷たく湿った闇だけが澱んでいた。
ポチャン、ポチャン――。
天井の亀裂から染み出した地下水が、汚れた石畳を叩く音だけが、永遠に続くかのような静寂を刻んでいる。
その規則的なリズムは、囚人の精神を削り取る拷問のようだった。
「……う、ぅ……」
鎖に繋がれた少女――アリス・レインは、凍えるような寒さに身を震わせていた。
かつて「聖女」として国民に崇められた美しい銀髪は、泥と脂にまみれて灰色にくすみ、ボロ雑巾のような囚人服からは、痩せ細った白い手足が覗いている。
手首と足首に食い込んだ鉄枷は、動くたびに皮膚を削り、赤黒い錆と血の混ざった膿を垂れ流していた。
痛い。寒い。臭い。
黴と排泄物、そして死臭が混ざり合った空気が、肺を腐らせていくようだ。
(……神様。ああ、神様……)
アリスは、霞む視界で虚空を見上げた。
彼女は祈った。助けてくれと。無実の罪を晴らしてくれと。
この国のために、民のために、自らの寿命を削って雨を降らせ続けてきた自分に、なぜこのような仕打ちをするのかと。
だが、神は答えない。
代わりに答えたのは、鉄の扉が開く重苦しい軋み音と、革靴が石畳を踏みしめる傲慢な足音だった。
「――まだ生きていたか、アリス。相変わらず、汚いドブネズミのような姿だな」
現れたのは、豪奢な軍服に身を包んだ金髪の青年。
この国の第二王子であり、アリスの元婚約者、ヴァルドア・エル・グランツ。
その端整な顔立ちには、かつてアリスに向けられていた慈愛など欠片もなく、ただ汚物を見るような侮蔑の色だけが浮かんでいた。
「……ヴァル、ドア様……」
アリスの声は、喉が潰れて掠れていた。
「どうして……私は、何もしてません……。国庫の横領も、隣国への機密漏洩も……全部、濡れ衣です……」
「黙れ、罪人が」
ヴァルドアは冷酷に吐き捨て、鉄格子の隙間から杖を突き出した。
杖の先端に埋め込まれた青い魔石が、不吉な輝きを放つ。
「貴様の罪は、無能であることだ。……『水の聖女』などとおだてられ、雨乞いしかできない能無しの木偶人形。そんな女が、次期国王である私の隣に立つなど、吐き気がする」
「そ、そんな……。雨を降らせてほしいと、民を飢饉から救ってほしいと頼んだのは、あなたでしょう……?」
「ああ。だから利用した。だが、もう用済みだ」
ヴァルドアは口の端を歪め、残酷な真実を告げた。
「知っているか? 貴様が必死に祈りを捧げて集めた『精霊の加護』は、すでに私が全て吸い取った。……この杖にな」
「え……?」
「貴様はただの魔力タンクだったのだよ。おかげで私は、歴代最強の『水の大精霊使い』へと至った。これからは私が、王として自在に天候を操り、民を導く。……貴様のような、薄汚い依代は不要なのだ」
アリスは言葉を失った。
愛していた。信じていた。
この人のために、命を削って奇跡を起こしてきた。
その全てが、ただ魔力を搾り取るための嘘だったというのか。
「明日の正午、中央広場で貴様の処刑を執り行う。罪状は『国家反逆罪』および『魔女の呪い』だ」
ヴァルドアは楽しげに笑った。
「皮肉なものだな、アリス。水を司る聖女が、火刑台の上で干からびて死ぬとは。……安心しろ。最期に私の最強魔法、『大瀑布』で骨まで洗い流してやる」
「……ひどい……あんまりです……!」
「恨むなら、自分の無知と無力を恨むんだな。神は、強者の味方だ」
高笑いを残して、ヴァルドアは去っていった。
重い鉄扉が閉ざされ、再び静寂と闇が戻ってくる。
アリスの心の中で、何かが音を立てて砕け散った。
プツン、と。
信仰という名の糸が切れたのだ。
「……神様なんて、いない」
アリスは、泥水に濡れた床に突っ伏した。
瞳から溢れ出した涙が、頬を伝い、汚れた石畳に落ちる。
悔しい。憎い。許せない。
私の全てを奪い、踏みにじり、嘲笑ったあの男を。
殺してやりたい。
喉を食いちぎり、その血を啜ってやりたい。
でも、できない。
鎖に繋がれ、魔力を奪われた今の自分には、指一本動かす力さえ残っていない。
「誰か……誰でもいい……。悪魔でも、死神でもいい……」
彼女は、血を吐くような声で呪詛を紡いだ。
「私の命をあげる。魂だってあげる。だから……お願い……あいつを、殺して……ッ!」
その叫びは、冷たい石壁に吸い込まれ、誰にも届くはずがなかった。
――はずだった。
「……計算が間違っていますよ、聖女様」
不意に。
闇の奥から、男の声がした。
「ッ!?」
アリスは弾かれたように顔を上げた。
いつの間にそこにいたのか。
鉄格子の向こう側、看守さえ寄り付かないはずの通路に、一人の男が佇んでいた。
黒髪に、上質な漆黒の三つ揃え。
銀縁の丸眼鏡を掛け、革手袋をしたその男は、この腐臭漂う監獄の中で、そこだけ空気が凍りついたような異質な清潔感を纏っていた。
闇に溶けるような黒衣は、まるで葬儀に参列する死神のようだ。
「だ、誰……? ヴァルドアの追っ手……?」
「いいえ。しがないコンサルタントですよ。名前はネロ」
男――ネロは、アリスの警戒心など意に介さず、鉄格子の前にしゃがみ込んだ。
そして、懐から一枚の白いハンカチを取り出し、アリスの頬に触れようと手を伸ばす。
「ひっ!」
「動かないで。……検体を採取するだけですから」
ネロの手は、アリスの頬を伝う「涙」をハンカチで拭い取った。
そして、濡れた布地をまじまじと観察し、眼鏡の奥で氷のような瞳を光らせる。
「……塩分濃度1.8%。コルチゾール(ストレスホルモン)の含有量は異常値を示している。……素晴らしい。実に純度の高い、絶望の抽出液だ」
「な、何を言って……」
「取引をしましょう、アリス・レイン」
ネロは立ち上がり、冷徹に見下ろした。
その眼差しは、哀れな少女を救済する聖人のものではない。
壊れた玩具をどう修理するか、あるいはどう破壊するかを思案する、マッドサイエンティストの目だ。
「あなたはヴァルドア王子を殺したい。違いますか?」
「……殺したい。殺せるなら、なんだってする!」
「ですが、今のあなたには力がない。魔力は枯渇し、体力の限界。……一方、王子は『水の大精霊』の加護を得て、物理攻撃も魔法攻撃も無効化する流体結界を常時展開している。正面から挑めば、勝率は0.00001%以下」
「分かってる! だから……っ!」
「ええ。だからこそ、『魔法』で殺すのではなく、『物理法則』で殺すのです」
ネロは淡々と告げた。
「彼が使うのは『水』ですね? ならば簡単だ。水という物質は、熱エネルギーを加えることで相転移を起こす。……液体の水が気体(水蒸気)に変わる時、その体積が何倍になるかご存知ですか?」
「た、体積……?」
「約1700倍です」
ネロは、指先で小さな円を描き、それをパッと広げて見せた。
「たった1リットルの水が、一瞬にして1700リットルの爆風に変わる。……もし、彼が得意げに展開している『絶対防御の水壁』が、内側から一瞬で気体に変わったら? その膨大なエネルギーの逃げ場はどこになるでしょう?」
アリスは呆然とした。
想像もしたことがなかった。
水は、癒やしであり、命を育むものだと思っていた。
だが、この男の口から語られる水は、まるで爆薬だ。
「私に依頼なさい。報酬は、あなたのその『涙』だけでいい」
「涙……だけで、いいの……?」
「ええ。あなたの涙に含まれる魔力残滓と、その強烈な情念。……それが私の描く『死の数式』を起動させるための、最後の触媒になる」
ネロは鉄格子の隙間から、革手袋をした右手を差し出した。
「明日の正午。断頭台の上で、最高のショーをお見せしましょう。……魔法しか信じない愚かな王子に、科学という名の神罰が下る瞬間を」
アリスは、震える手でその手を握り返した。
手袋の革は冷たかったが、その奥にある確固たる「殺意」だけが、今の彼女にとって唯一の救いだった。
「お願いします……。あいつを……ヴァルドアを、地獄へ落として……!」
「契約成立です」
ネロは口元だけで笑った。
その笑みは、闇の中で白く輝く三日月のようだった。
「さあ、始めましょうか。体積1700倍の復讐劇を」
男の姿が、闇の中へと溶けていく。
後に残されたアリスは、涙を拭った。
もう泣かない。
次に流す涙は、あの男が破裂して死ぬ瞬間、歓喜のために流すと決めたから。
冷たい雨音だけが響く牢獄で、密やかに、しかし確実に、国を揺るがす処刑の準備が始まった。
翌日。
王都の中心に位置する「聖王広場」は、早朝から異様な熱気に包まれていた。
石畳を埋め尽くすのは、数万に膨れ上がった民衆の群れだ。
彼らの表情には、祭りを楽しむような高揚感と、どこか昏い加虐心が混ざり合っている。
今日行われるのは、国の祭典ではない。一人の少女の公開処刑だ。
「偽聖女を殺せ!」
「俺たちの税金を盗んだ魔女め!」
「王子様を騙すなんて、万死に値するぞ!」
怒号が飛び交う。
彼らの多くは、かつてアリスの祈りによって降った雨で喉を潤し、飢饉を生き延びた者たちだ。
だが、今の彼らにその記憶はない。
王室が流した「聖女は国庫を横領し、王を呪った」というプロパガンダを疑いもせず飲み込み、自らの生活の苦しさをすべて彼女のせいに転嫁している。
集団心理。
個としての思考を放棄し、巨大な「正義」の一部となることで、彼らは残酷な断罪者に成り果てていた。
広場の中央には、巨大な木造の処刑台が組み上げられている。
その四隅には、処刑の様子を王都全土へ中継するための魔導映像機が設置され、水晶のレンズが不気味な光を放っていた。
これは見せしめだ。
王権に逆らう者がどうなるか、そして新たな支配者であるヴァルドア王子の力がどれほど絶対的かを知らしめるための、壮大な舞台装置。
その処刑台を見下ろす王城のバルコニーに、主役の姿があった。
「……愚かな民だ。少し扇動してやるだけで、昨日の恩人も平気で石打ちにする」
第二王子ヴァルドア・エル・グランツは、眼下の群衆を眺めながら、最高級のワイングラスを傾けていた。
金糸の刺繍が施された純白の軍服。腰には、アリスから奪った魔力を宿す「水の大聖霊の杖」が佩かれている。
「殿下。処刑の準備は整いました。罪人アリスは、地下牢から移送中です」
背後に控えていた宮廷魔導師長が、恭しく頭を下げた。
ヴァルドアは満足げに頷き、杖を手に取る。
その瞬間、杖の先端にある青い宝石が脈打ち、周囲の大気中の水分が急速に凝縮された。
ヒュンッ!
彼の周囲に、直径3メートルほどの透明な水の球体が出現する。
ユニークスキル【流体結界】。
超高密度に圧縮された水流が、高速で回転しながら術者を包み込む、攻防一体の絶対防御だ。
「見てみろ、この輝きを。アリスのような小娘が持っていた時とは、出力の桁が違う」
ヴァルドアが指を鳴らすと、水球の表面から鋭利な水圧の刃が射出され、バルコニーの手すりをバターのように切断した。
断面は鏡のように滑らかだ。
鉄も、岩も、魔法障壁さえも切り裂く神の力。
そして防御においても、この高速水流の壁は、物理的な矢弾はもちろん、火炎魔法さえも瞬時に蒸発させて無効化する。
「素晴らしい……。これぞ神の御業です」
「ふん。当然だ。私は選ばれたのだよ」
ヴァルドアは結界を解除し、陶酔した表情で自らの手を握りしめた。
「今日の処刑は『火あぶり』にする予定だったな?」
「はっ。薪には燃焼促進用の魔油を染み込ませてあります。点火すれば、一瞬で罪人を骨まで焼き尽くすでしょう」
「つまらん」
ヴァルドアは退屈そうに鼻を鳴らした。
「ただ焼くだけでは芸がない。……点火した後、私がこの水魔法で火を消し止めてやろう。そして、黒焦げになったアリスを、慈悲深く水葬にしてやるのだ。民衆も、私の慈愛と力に涙するだろう?」
「おお……! なんと素晴らしい演出! これなら殿下の支持率は盤石となりましょう!」
魔導師長が追従の言葉を並べる。
ヴァルドアは笑った。
彼にとって、アリスの命など、自分の王位継承を飾るためのアクセサリーに過ぎない。
不安要素など皆無。
この国で最強の魔力を持つ自分に、傷を負わせられる存在などいないのだから。
そう、彼は信じていた。
この世界のルールが「魔力」だけで決まるならば、彼は間違いなく最強だっただろう。
だが、彼は知らない。
この世界には、魔力よりも遥かに残酷で、抗えない法則が存在することを。
熱力学。
相転移。
そして――爆発。
***
同時刻。王都第8スラム地区。
表通りの喧騒から切り離された、廃工場の地下室。
そこには、王城の華やかさとは対極にある、冷たく静謐な時間が流れていた。
黴臭い空気の中に、鋭い薬品の刺激臭が混じっている。
薄暗い部屋を照らすのは、アルコールランプの青白い炎だけ。
作業台の上には、無数のフラスコやビーカー、そして得体の知れない金属粉末が散乱していた。
「……酸化鉄(III)。純度は98%。……アルミニウム粉末。メッシュサイズは200」
ネロは、銀縁眼鏡に拡大鏡を装着し、電子天秤の上で粉末を計量していた。
その手つきは、宮廷料理人のように繊細で、時計職人のように正確だ。
黒いゴム手袋をした指先が、赤茶色の粉末と、銀色の粉末を、慎重に乳鉢の中で混ぜ合わせていく。
シャリ、シャリ、シャリ。
静寂な地下室に、無機質な混合音だけが響く。
一見すると、何か怪しげな魔法薬を調合しているように見えるかもしれない。
だが、彼が扱っているのは魔力ではない。
原子と分子。
この宇宙を構成する、物質の基礎だ。
「魔法使いは、よく勘違いをする」
ネロは独りごちて、混合した粉末を陶器の容器に詰めた。
「彼らは『水』を、火を消し、命を潤す穏やかな物質だと思っている。……だが、熱力学の観点から見れば、水ほど凶暴な物質はない」
彼はランプの炎を見つめた。
水は、100度で沸騰し、水蒸気へと相転移する。
その際、体積は約1700倍に膨張する。
もし、密閉された空間で、一瞬にして数千度の熱を与えられたら?
水は逃げ場を失い、物理的な破壊エネルギーの塊となって暴発する。
それが水蒸気爆発だ。
そして、その「数千度の熱」を生み出すためのトリガーが、今彼が作っているこの混合粉末。
――テルミット反応剤。
酸化鉄とアルミニウムの粉末に着火すると、激しい還元反応が起きる。
その際発生する熱は、摂氏約3000度。
鉄さえもドロドロに溶かす超高熱だ。
魔法の炎など比ではない。
これを、ヴァルドアが得意げに展開する「水結界」の至近距離で起爆させればどうなるか。
「……王子の結界は、物理攻撃を弾くために高密度の水流で構成されている。つまり、自ら『密閉容器』の中に閉じこもっているようなものだ」
ネロは、完成した円筒形の装置を掌で転がした。
大きさは、ワインボトルほど。
だが、この中には、城一つを揺るがすほどの熱量が眠っている。
「容器の中で爆発すれば、中の人間は……圧力釜の豆のように破裂するしかない」
ネロは口元を歪めた。
復讐ではない。
これは「答え合わせ」だ。
魔力という不確定なオカルトに頼り切り、物理法則を軽視した傲慢な文明に対する、冷徹な採点。
彼は懐から、小さな試験管を取り出した。
中には、一滴の透明な液体が入っている。
昨日、牢獄で採取したアリスの涙だ。
ネロはそれを、起爆装置の信管部分に慎重に滴下した。
「あなたの涙は、塩分と魔力を含んでいる。……これが電気分解の触媒となり、着火のスイッチになる」
準備は整った。
ネロは黒いロングコートを羽織り、起爆装置を内ポケットに隠した。
眼鏡の位置を直し、愛用の革手袋をはめる。
鏡に映った自分の姿は、どこからどう見ても、ただの貧相な学者崩れだ。
誰も気づかないだろう。
この男が、国の歴史を終わらせる死神だとは。
「さて。行きましょうか、アリス。……あなたの涙が、どれほどの質量を持っているか。彼に教えてあげましょう」
ネロは地下室の扉を開けた。
まばゆい陽光が差し込む。
遠くから、処刑開始を告げる鐘の音が聞こえ始めていた。
***
正午10分前。
聖王広場は、立錐の余地もないほどの人だかりになっていた。
「罪人を連れてこい!」
処刑執行官の号令と共に、大歓声が沸き起こる。
広場の北門が開き、重い足かせを嵌められたアリスが、兵士に引きずられて現れた。
ボロボロの囚人服。
伸び放題の銀髪。
かつての聖女の面影はなく、ただの薄汚れた小娘にしか見えない。
群衆からは容赦ない罵声と、石礫が飛んでくる。
「死ね! 魔女!」
「俺たちの金を返せ!」
アリスは無抵抗のまま、石を浴びてよろめいた。
額から血が流れ、視界を赤く染める。
だが、彼女の瞳だけは死んでいなかった。
うつむき加減のその視線は、群衆の中の一点――黒いコートの男を探していた。
(……来てくれる。あの人は、必ず)
処刑台の階段を登らされる。
中央には太い杭が打たれ、周囲には大量の薪が積み上げられていた。
油の臭いが鼻をつく。
彼女は杭に縛り付けられた。
目の前、王城のバルコニーには、楽しげにワインを飲むヴァルドア王子の姿がある。
「やあ、アリス。最期に言い残すことはあるか?」
拡声魔法で増幅された王子の声が、広場全体に響き渡る。
アリスは顔を上げ、かつて愛した男を睨みつけた。
「……言い残すことなんて、ありません」
彼女の声は凛としていた。
それは諦めではない。
勝利を確信した者の、静かな宣言だった。
「ただ……祈ります。神ではなく、確かな『法則』に」
「はっ、往生際の悪い。まだ神頼みか」
ヴァルドアは嘲笑い、杖を掲げた。
それを合図に、広場の四隅から魔法部隊が炎の矢を構える。
処刑の時が迫る。
その群衆の最前列。
兵士たちの警備の隙間を縫うように、ネロは処刑台の真下付近まで接近していた。
周囲の熱狂に紛れ、彼は誰も見ていない一瞬の隙に、懐から円筒形の装置を取り出す。
そして、薪の山の下、処刑台の土台の隙間に、それを滑り込ませた。
(セット完了)
ネロは素知らぬ顔で後退し、群衆の中に紛れ込む。
彼は腕時計を確認した。
秒針が、正午の頂点に向かってカチ、カチと進んでいく。
それは、ただの時間の経過ではない。
愚かな魔法文明への、カウントダウンだ。
「さあ、始めようか! 聖女の穢れを炎で浄化するのだ!」
ヴァルドアが手を振り下ろす。
数本の炎の矢が放たれ、油を含んだ薪に突き刺さった。
ボッ!
爆発的な勢いで炎が燃え上がる。
紅蓮の火柱がアリスを包み込もうとした、その瞬間。
「……今だ」
ネロが、小さく呟いた。
彼が指を鳴らすのと、ヴァルドアが「消火」のために水魔法を発動させたのは、同時だった。
空から巨大な水塊が落下してくる。
そして下からは、テルミット反応による3000度の超高熱が発生する。
冷たい水と、灼熱の鉄。
出会ってはいけない二つが、処刑台の上で「握手」をした。
物理法則が、牙を剥く。
世界が、白く染まった。
それは、聖王広場に集まった数万の民衆、そしてバルコニーから見下ろすヴァルドア王子の網膜を焼き尽くす、純白の閃光だった。
直前までの光景はこうだ。
処刑台の薪に火が放たれ、アリス・レインを紅蓮の炎が包み込もうとした瞬間、ヴァルドア王子が流体結界|の応用による大量の水を投下した。
本来ならば、水は炎を消し止め、黒焦げになった聖女を無様に濡れそぼらせるはずだった。
だが、ネロが仕掛けた「罠」は、その常識の裏側に潜んでいた。
処刑台の土台、薪の下。
そこに設置された円筒形の装置の中で、酸化鉄とアルミニウムの粉末が、アリスの涙(電解液)をトリガーとして激しく反応を開始していた。
――|テルミット反応《Thermite reaction》|。
酸化還元の連鎖は、わずか数秒で摂氏3000度という、鉄をも蒸発させる超高熱を発生させる。
それは魔法の火ではない。
科学が生み出した、純粋で凶暴な熱エネルギーの塊だ。
そこへ、ヴァルドアの操る数トンの水塊が直撃した。
ジュッ、という生易しい音ではない。
超高熱の金属融解プールに、大量の水が密閉状態で接触したのだ。
物理学における「最悪の握手」が成立した。
接触界面において、水は一瞬で沸点を超え、臨界点をも突破する。
液体から気体への、爆発的な相転移|。
水蒸気となった水分子は、その体積を元の1700倍へと急激に拡張させようとする。
しかし、上からは王子の魔力で圧縮された「重い水」が蓋をしている。
下からは3000度の熱源が供給され続ける。
逃げ場を失った圧力は、幾何級数的に跳ね上がり――そして、限界(閾値)を超えた。
ズドォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
轟音。
いや、それは音という概念を超えた、大気の悲鳴だった。
処刑台そのものが、火山噴火のように吹き飛んだ。
「な、なんだッ!?」
バルコニーのヴァルドアが目を見開く。
彼の視界一杯に、真っ白な蒸気の柱が迫っていた。
薪も、石造りの土台も、鎖も、すべてが粉砕され、超高圧の衝撃波となって空へ逆流してくる。
「くっ、小癪な! 抵抗か!」
ヴァルドアは反射的に杖を振るった。
彼は「水の大精霊使い」だ。爆発など、最強の防御魔法の前では無意味だと信じている。
彼は自らの身体を包み込むように、球体状の流体結界|を最大出力で展開した。
「我が結界は絶対だ! 炎も衝撃も、全て水に流して……」
だが、彼は致命的な計算違いをしていた。
彼が防ごうとしたのは「物理的な衝撃」だ。
しかし、下から噴き上げてきたのは、3000度の熱源によって過熱された「超高温・高圧の水蒸気」である。
気体は、液体の壁をすり抜ける。
いや、それ以上に最悪な現象が起きた。
ヴァルドアが展開した「水の結界」そのものが、下からの莫大な熱エネルギーを受け取り、瞬時に沸騰したのだ。
彼が身を守るために纏った最強の鎧。
それが一瞬にして、彼自身を茹で上げる「圧力鍋」へと変貌した。
「あ……が……ッ!?」
ヴァルドアの絶叫は、誰にも届かなかった。
結界の内部。
密閉された水球の中は、逃げ場のない蒸気地獄と化していた。
気温、推定200度以上。湿度100%。
皮膚が焼け爛れるのではない。
全身の細胞中の水分が、外部からの熱伝導によって一斉に沸騰を始めたのだ。
「あつ、熱いッ! 熱い熱い熱い熱いッ!!」
ヴァルドアは杖を振り回し、結界を解こうとした。
だが、皮肉にも彼が誇った「物理攻撃無効の強度」が、内側からの圧力さえも逃がさない強固な檻として機能してしまった。
自らの魔力で維持された、絶対の処刑室。
眼球の水晶体が白濁し、沸騰した血液が血管を巡る。
肺の中の空気さえも灼熱に変わり、呼吸をするたびに気管が焼けていく。
(なぜだ!? 私は選ばれた王だぞ!? なぜ魔法が効かない!? なぜ水が私を襲う!?)
思考が白熱して溶けていく。
彼の脳裏に、牢獄でアリスに言い放った言葉が蘇る。
『水の大精霊の加護』。
『神は強者の味方だ』。
違う。
神などいない。
そこに在るのは、温度と圧力、そして体積変化という、冷徹な物理法則だけ。
そのルールを無視し、魔力という万能感に溺れた彼への、これは「教育」だ。
「ぎ、ぎゃあああああ――ッ!!」
限界が来た。
人体は、急激な気圧変化と内圧の上昇には耐えられない。
深海魚が海上に引き上げられた時のように。
あるいは、電子レンジに入れられた卵のように。
パンッ。
濡れた風船が割れるような、乾いた音がした。
ヴァルドアの身体が、内側から破裂した。
絶対防御の結界の中で、赤と白の混ざった肉片が飛び散り、スノードームのように舞い踊る。
それは残酷で、吐き気を催すほどグロテスクで、しかし物理学的にはあまりにも正しい結末だった。
やがて、魔力の供給を断たれた結界が霧散する。
空から降ってきたのは、熱湯と化した雨と、かつて王子だったモノの残骸だけだった。
***
静寂。
広場を埋め尽くす数万の群衆は、声を発することさえ忘れていた。
誰もが口を開け、空を見上げている。
理解不能。
聖女を焼くはずだった炎が、なぜか水柱となり、その蒸気が見上げればバルコニーにいた王子を飲み込み、破裂させた。
神罰か?
それとも、聖女の呪いか?
濛々と立ち込める白煙の中。
破壊された処刑台の跡地に、二つの人影があった。
一人は、黒いロングコートの男。ネロ。
彼は爆心地にいたにも関わらず、煤一つついていない。
爆発の指向性と衝撃波のベクトルを完全に計算し、わずか数センチの「安全地帯」に身を置いていたからだ。
彼は片手に懐中時計を持ち、もう片方の手で、瓦礫の中にうずくまる少女を抱きかかえていた。
「……計算通り(オン・タイム)ですね」
ネロは懐中時計の蓋を閉じた。
その腕の中、アリスは震えながら目を開けた。
彼女は無傷だった。
ネロが、爆風が広がる瞬間に彼女の拘束を解き、爆発の「目」となる空白地帯へ引き入れたのだ。
「あ……ネロ、さん……?」
「終わりましたよ、アリス。……空を見てごらんなさい」
アリスがおそるおそる見上げると、そこには何もなかった。
傲慢に笑っていた王子の姿も。
彼を飾っていたバルコニーも。
ただ、赤黒い肉片が混じった、温かい雨が降っているだけ。
「あれが、体積1700倍の結果です」
ネロは淡々と告げた。
アリスは、頬に落ちた赤い雫を指で拭った。
それは、かつて婚約者だった男の血だ。
不思議と、恐怖はなかった。
胸の奥に詰まっていた鉛のような重りが消え、代わりに空っぽの清々しさが広がっていく。
「……死んだのですね」
「ええ。熱力学的に、蘇生は不可能です」
アリスは立ち上がった。
足枷は爆発の衝撃で砕け散っている。
彼女は、呆然とする群衆を見渡した。
彼らは恐怖に震えている。
自分たちが石を投げた「偽聖女」が、王子を神罰で殺したのだと信じ込み、後退りしている。
「……行きましょう、ネロさん」
アリスは、もう群衆に何も期待していなかった。
愛も、憎しみも、今の彼女にはどうでもいいことだった。
彼女にあるのは、隣に立つ「死神」への信頼だけ。
「依頼は完了しました。……ですが、まだ報酬を頂いていませんね」
ネロは歩き出しながら言った。
広場を割って進む二人の前に、兵士たちさえも道を開ける。
誰も近づけない。
この男の周囲には、目に見えない死の数式が漂っている気がして。
「報酬なら、ここに」
アリスは、自分の瞳を指差した。
そこにはもう、涙はなかった。
あるのは、覚悟を決めた強い光。
「私の涙は枯れました。でも、命は残っています。……この命、あなたにあげます」
「命はいりませんよ。燃費が悪い」
ネロは素っ気なく答えたが、眼鏡の奥の瞳は微かに笑っていた。
「ですが、助手なら募集中です。……私の店には、整理すべきデータと、掃除すべき『ゴミ』が山ほどありますから」
「ふふっ。……はい、喜んで」
アリスは初めて笑った。
泥だらけの顔で、しかし聖女時代よりも遥かに美しい笑顔で。
二人は、赤い雨が降る広場を背に、王都の雑踏へと消えていく。
後には、破壊された処刑台と、物理法則の恐ろしさを骨の髄まで教え込まれた人々だけが残された。
これが、魔力ゼロの犯罪コンサルタントと、堕ちた聖女の最初の事件。
そして、やがて帝国全土を揺るがすことになる「科学革命」の序章であった。
(第1章・完)




