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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

敬愛なる王女様のために

作者: 秋野原梨衣
掲載日:2026/01/27

私が仕えている王女様は、やさしくて、きれいで、美しくて―――宝石みたいな人だった。


◈◈◈◈◈◈◈


「どうしたの? メイリス。」


いつも、王女様は私に笑いかけてくれる。

こんな血筋の私に。


太陽を背にして微笑む王女様は、きれいで、素敵で、神秘的で———

同性の私でさえ、息をのむほど美しかった。


「何でもありません。」


王女様は、本当は、私のような侍女が一人仕えていていい存在ではない。

王様と王妃様の血を引く、第一王女だ。

本来なら、私ではなく、貴族の令嬢や、敏腕な侍女や、護衛が何人も付き従っていなければならない人だ。


「そう。今日も、世界は平和ね。」


いつも、部屋の窓を開け、ベランダに出て、

何分も、何時間も、外の景色を眺めている。


その横顔には、穏やかさと、寂しさと、いとおしさが、静かに混じっていた。


「そうですね。」


———こんなにも素敵な王女様を、放置しているなんて。

王族は、目も、心も、濁っている。

きっと、泥水よりも、もっと汚いものを食べているのだろう。


「……そろそろお部屋に入りましょう。体が冷えてしまいます。」


日が、下がり始めている。


「……そうね。わかったわ。」


———部屋に入っても、暖かさなんて変わらない。

そう、王女様は言いたいのだろう。


部屋は、とても広い。

けれど、食べ物は来ない。布団は薄く、風呂のお湯も沸かない。

着替えも、暖かいものも、新しいものも、きれいなものも、ない。


どうして、こんなことになっているのだろう。

何もしていない王女様が。


「ご飯を取ってまいります。」


取りに行かなければ、ご飯は来ない。

けれど私では、血筋のせいで、豪華なものは持ってこられない。


「あら。また来たの? 毎度毎度、ご苦労様ね。

あなたと王女様には、食べ残ししかないわよ。」


「懲りないねえ。」


くすくすと笑う声。

豪華な使用人用の食事を背に。


———これの、どこが、「ない」なのだろう。

どうせ、全部食べ切れもしないくせに。


「ありがとうございます。」


渡されたのは、一人分になるかどうかも怪しい量だった。

だから私は、見た目だけはうまく整えて、王女様に差し出した。


「ありがとう、メイリス。」


王女様は、いつもお礼を言ってくれる。

前は、私が食べていないと思ったのか、「食べて」と言ってきたけれど、私はいつも、夜に忍び込んで食べ物をもらっている。


だから、毎日「おすそ分け」をしてあげた。

そうしたら、王女様は納得してくれて、毎回「ありがとう」と言ってくれるようになった。


「いえ。当然のことです。」


私しか、侍女がいないのだから。


「そう。」


王女様は、慈愛に満ちあふれているけれど、物語の主人公みたいに、必要以上に踏み込んだりはしない。

そこも、素敵なところだ。


カチャリ、と食器の触れ合う音が、部屋に響く。

私は話すこともあまりないので、食事の時間は、いつも静かだ。


やっぱり、私じゃない。

話が上手な、きちんとした侍女が、王女様には必要だ。


「ご馳走様。おいしかったわ。伝えておいて。」


王女様は、毎回、食べ終わるとそう言う。

伝えたところで、何の意味もないのに。


「分かりました。」


私も毎回、それだけ答えて、実際に伝えることはしない。

伝えれば、王女様が無理を言ったか、私が嘘をついたと思われるだけだ。


そして王女様は、いつも、少し寂しそうに笑う。


———ごめんなさい、と言いたくなる。

こんな私で。


でも、言えば、王女様はもっと悲しむ。

悲しませたいわけじゃない。だから、言わない。


食器を戻しに行くと、使用人たちが、アハハ、と笑いながら食事をしていた。

王女様よりも、ずっと豪華な食事を前に。


私は、そっと通り過ぎ、食器を洗い場に置き、何事もなかったかのようにその場を離れる。

毎回、通るたびに、悔しくなる。


王女様は、こんな環境でも、やさしいのに。


部屋に戻ると、王女様はもう眠っていた。

横には、水の入った桶と、布切れが置かれている。

簡単に体を拭いた後なのだろう。


本当なら、暖かいお風呂に入れるのに。


そう思いながら、桶を片付け、新しい布を用意して、そっと置いておく。


「おやすみなさい。」


眠っている王女様に、声をかける。

明日も、また同じような日が続く。


———せめて、挨拶だけは。


いつか、王女様の価値に気づいて、助けてくれる人が現れるといい。


そう思いながら、私は毎晩、眠りにつく。


◈◈◈◈◈◈◈


朝、窓から差し込む日の光で目を覚ます。

これが、いつもの私の一日の始まりだ。


自分の支度を数分で終え、すぐに王女様の部屋へ向かう。

簡単に部屋を掃除し、桶にお湯を汲む。


お湯がもらえるのは、朝だけ。

それ以外の時間には、与えられない。

しかも、桶に入る分だけだ。それより大きな器を用意すると、次からは、入れてもらえなくなる。


———本当に、この城の人たちは、王女様の価値を理解していない。


「おはようございます。」


王女様を起こす。

けれど、まだ眠っていそうだったので、先に朝食をもらいに行くことにした。


「あの人って……」

「そう。あの王女様の侍女よ。」

「ああ、あの悪女の侍女なら、卑しいのも納得ね。」

「何しに来たのかしら?」

「さあ。関係ないもの。」


くすくすとした笑い声と、ひそひそとした囁き。

いつも、そうだ。


「はい。もらうだけでもありがたいと思えよ。

……というか、王女様は豪華な食事をしてるのに、なんで残飯なんかを取りに来るんだ?」


「……」


今日は、いつもの使用人ではなく、調理人だった。


「ああ、かわいそうな王女様、って同情を引こうとしてるのか。くだらない。ほら、さっさと帰れ。」


前にも、こんなことがあった。

今の現状を伝えても、「卑しい血筋だから」という理由だけで、信じてもらえなかった。


だから、何も言わないのが正解だ。


私は、そのまま王女様の部屋へ戻る。


「あら、おはよう、メイリス。」


部屋に戻ると、王女様はもう起きていた。


「朝ごはんです。」


いつも通り。

本当に、王女様は素敵な人なのに。


———どうして、こんなことになっているのだろう。


◈◈◈◈◈◈◈


王女様は、天真爛漫で、純粋で、誰にでも優しい。

まるで、聖女のような人だった。


……というより、実際に、聖女としての資質を持っていた。

回復魔法や聖魔法への、高い適性を。


「王女殿下! 何をしているんですか!」


彼女の周りは、いつも笑顔にあふれていた。

叱る側ですら、どこか微笑んでいる。


私は、下働きとして、王女様の視界にも入らない距離から、ただ眺めていた。


「フローラ!」


「お兄様!」


家族仲も、よかった。


そして、数日後。

王女様は、私を見て、「血筋で人を決めるのはおかしい」と言った。

そのまま、私を専属の侍女にしてしまった。


だから、王女様は、

私が敬愛する、ただ一人の主人だ。


けれど、どこからか、違和感が生じ始めた。

本当に、最初は些細なものだった。

誰かに睨まれている、とか。


そのうち、何をしても意味がなくなった。

王女様の地位は、少しずつ、確実に下がっていった。


理由は、わからない。


◈◈◈◈◈◈◈


「ありがとう、メイリス。おいしかったわ。

今日は、何か用事がある?」


食べ終えた王女様が、そう尋ねてくる。


予定は、ない。

いつも通りだ。


誰かに呼ばれるときは、決まって、急なのだから。


「ありません。」


「……そう。」


王女様の部屋には、本当に何もない。

暇つぶしになるようなものも、一切ない。

だから王女様は、いつも窓辺に立ち、街の様子を眺めていた。


「そういえば、メイリス。

いい加減、“王女様”じゃなくて、“フローラ様”って呼んでくれない?」


「前にも、お断りしたはずですが……」


「いいから。フローラ、って呼んでちょうだい!」


なぜか、王女様はそれを強く望んでいる。

けれど、呼ぶとしたら、本来はフローレンシア様、だ。


「余計に、ハードルが上がっております!」


「いいじゃない。誰もいないんだし。

……それに、なんとなくだけど、今日が最後の気がするのよね」


「……い、今、なんと……」


きっと、聞き間違いだ。

いや、絶対にそうだ。

そんなこと、あるわけがない。王女様は、まだ評価されるべき人なのだから。


「なんだかね、今日が“最後”な感じがするの。

一生のお願いよ。フローラ、って呼んで?」


そんな顔をされたら、断れるはずがない。


「……フローレンシア様……」


「フローラ!」


「……フローラ様……」


「フ・ロー・ラ。様はいらない!」


「……わかりました。一回だけですよ? フローラ」


“一生のお願い”なんて言われたら、叶えてしまう。


「ありがとう。」


やっぱり、王女様は素敵だ。

本当に、素敵だ。


ほっとしたようで、嬉しそうで、

それでいて、どこか悲しみを含んだ笑顔を向けられる。


———でも、それが、最後のような気がしてならなかった。


わかりたくなかった。

けれど、なんとなく、理解してしまった。


「……王女様。あなたは、明日も生きていますよ。」


慰めにしかならない。

本当だとも言えない。

ただ、そう言わなければ、私が納得できなかった。


目から、涙がこぼれそうになる。


「……そうね。」


王女様は、寂しそうに、そうつぶやいた。

本当に、このまますぐに消えてしまいそうな表情だった。


だから私は、お昼まで、王女様のそばを離れなかった。

けれど、お昼の時間だけは、どうしても離れなければならない。


「お昼ご飯を、取ってきてくれるかしら?」


「……わかりました。」


しぶしぶ、部屋のドアへ向かう。


「ありがとう。あなたと会えたことは、一生の幸せよ。メイリス。」


ドアが閉まりかけた、その時。

王女様は、そう言った。


振り向くと、満面の笑みで、

———もう、やり切ったような顔で、私を見つめていた。


胸の奥が、ひどくざわつく。


嫌な予感がして、慌ててドアを開け、部屋に戻ろうとした。

けれど、手元が狂って、うまく開かない。


嫌な汗が、背中を伝う。


「王女様……! フローラ様!」


たった一枚のドアを開けるのに、

どうしようもなく、時間がかかってしまった。


———開けた瞬間。


王女様は、さっきの笑みのまま、床に倒れていた。

その近くには、ナイフ。

そして、男の人が一人、立っていた。


黒いフードを、深くかぶっている。


「フローラ様!」


王女様は、さらに笑みを深めて、

こてり、と、力を失った。


「フローラ様!」


体を揺すっても、動かない。

視界が滲み、涙があふれる。


———世界は、現実は、あまりにも残酷だった。


「……なんで、こんな悪女に執着するんだ?」


男は、不思議そうに首を傾げる。


———やっぱり、この人は何も知らない。


「……この部屋を見て、そんなことが言えますか?

王女様の幼少期の噂を聞いても、そんなことが言えますか?

王女様の素敵なところを、すべて並べても、そんなことが言えますか?

王女様の扱われ方を、調べても、そんなことが言えますか?」


言葉が、止まらない。


「……言えるはずがありません。

フローラ様は、この世で、この世界で、一番素敵な人です。

こんな、くそみたいな世界の中で。」


何も、わかっていない。

少しでも調べれば、わかることなのに。

少しでも、フローラ様を知っていれば、わかることなのに。


男は、何も言わない。

ただ、じっと、私を見つめているだけだった。


「……この世界なんて、滅びればいい。」


心から、そう思った。


フローラ様のいない世界は、きれいじゃない。

こんな、真っ黒で、汚い世界は———

フローラ様が、いたからこそ、どうにか持ちこたえていたのに。


「……俺は、依頼を実行しただけだ。俺を恨むなよ。」


男は、それだけ言うと、去っていった。


それが、悔しかった。

何もできない自分が、悔しかった。


私は、そのまま、何時間もフローラ様の部屋にいた。

この世界に、心の底から絶望した。


だから、誓った。

———復讐をすると。


「敬愛なる王女様のために。」


そして私は、フローラ様の髪を一房もらい、城を去った。


◈◈◈◈◈◈◈


その後、私は裏社会に身を置いた。

盗み、情報収集、殺し……復讐のためなら、何でもやった。


十分な知識と技能を身につけた頃、

私は、フローラ様の身に起きた出来事を記した日記を手に、城へ向かった。


———これが、最後だろう。


その日は、国の重鎮たちが集まる、大きなパーティが開かれていた。

決行日としては、ちょうどいい。


この国を。

この世界を。

———正すために。


◈◈◈◈◈◈◈


僕は、この国の第三王子だ。


ちょうど、国のパーティの日に、悲劇は起こった。

何者かによって、パーティに出席していた人間が、すべて殺されたのだ。


一人残らず。


……けれど、なぜか、その人物は、俺を見て言った。


「……この子に、罪はないから……」


そうつぶやき、日記を差し出してきた。

血のついた手で渡されたせいで、日記は血まみれだったが、俺は、恐る恐る受け取った。


「いい?

この国を、ちゃんと良くするんだよ。

今みたいな、悪い方向にしちゃダメ。……したら、わかってるよね?」


最後に、そう言って脅すと、

その人は、闇の中へ消えていった。


暗くて、顔はよく見えなかった。

けれど、女の人だった。


フードの奥から覗く、

すべてを諦めたような———暗い赤い目だけが、

今も、はっきりと脳裏に焼き付いている。


日記を、恐る恐る開く。

すると、きれいで、おとなしく、整った文字が目に飛び込んできた。


———さっきの人からは、想像もできない雰囲気だ。


そのまま読み進めていくうちに、

これは、僕の姉上———フローレンシアお姉さまのことについて書かれているのだと、分かった。


内容は、ひどいものだった。


お姉さまは、悪女なんかじゃなかった。

むしろ、ひどかったのは……僕の両親のほうだった。


『フローラ様。

私は、フローラ様のために、復讐をします。

―――敬愛なる王女様のために。』


「……」


最後の一文だけ、怒りに任せて書き殴ったような字だった。


僕から見ても、お姉さまは素敵な人だった。

だから、悪女と呼ばれていたことが、ずっと不思議だった。


———あの人の前で、そう言ったら。

きっと、言い訳だと思われるだろう。


あの人は、もう何かを決めてしまった顔をしていた。

僕の言葉は、彼女の心には、届かない。


◈◈◈◈◈◈◈


このパーティに呼ばれた人間は、

だいたい、全員、始末し終えたと思う。


けれど、どうしても———

あの男の子だけは、殺せなかった。


「……この子に、罪はないから……」


その子だけは、腐りきったこの国の中で、

きらきらとした、まっすぐな目をしていた。


———きっと、この国を、良い方向へ導く。


「いい?

この国を、ちゃんと良くするんだよ。

今みたいな、悪い方向にしちゃダメ。……したら、わかってるよね?」


こう言っておけば、きっと、問題はない。


日記は、最初のお給料で買ったものだ。

フローラ様のことを、書き残したくて。


これを渡せば、あの子は、人や、国について、深く考えるようになるだろう。


———これでいい。


たとえ、これが、フローラ様の望んでいたことではなかったとしても。


———これでいい。


たとえ、このせいで、国が立ち行かなくなったとしても。


———これでいい。


たとえ、私が地獄に落ちても。

フローラ様に、二度と会えなくなったとしても。


れでも―――これでいい。


これで、私が消えれば、すべてが完成する。

フローラ様の望んだ未来ではなかったかもしれない。

それでも、私の生きる理由は、もうすべて果たした。

やり切った。

もう、この世界に、未練はない。


足は、自然と早まっていた。

視界に映るのは、ただ、塔だけ。


これで、終わる。


階段を上りきると、ちょうど朝日が昇るところだった。

暁に染まる空と、昇りゆく太陽が、あまりにも美しい。


一歩ずつ、確かめるように、塔の端へ近づく。

ここから落ちれば、助かることはないだろう。


―――ああ、やっと。

この、くだらない世界から、解放される。


「待って!!!」


声が、届いた。


―――こんな私に、「待って」なんて。

ありがとう。


「ありがとう。」


けれど、もう立ち止まらない。

終わらせると、決めたから。

最後に、こんな優しい言葉をくれて、ありがとう。


私は、男の子に向かって、精一杯の笑みを向けた。


彼は、驚き、悔しさをこらえるような顔をしていた。


◈◈◈◈◈◈◈


―――ああ。

あの人は、何をしても、もう届かない。


彼女が落ちていく姿が、ひどくゆっくりに見えた。

未練のない、穏やかな笑みを浮かべたまま。


―――どうして、もっと早く、気づけなかったんだろう。


あの目を、僕は一度だけ見たことがある。

そして、その人は――戻ってこなかった。


可能性に気づいた瞬間、体が勝手に動いた。

けれど、間に合わなかった。


あの人に、この世界の、ほんの少しでもいいところを見せてあげたかった。


「ごめんなさい。」


それしか、言えなかった。

もう、届かないと分かっていても。


だから、僕は決めた。

フローラお姉さまが願った国を、必ず作る。

そして、胸を張って伝えるんだ。

―――成し遂げたよ、と。


それが、僕にできる、唯一の答えだった。


◈◈◈◈◈◈◈


後に、第三王子ヴォルンティアスは王大使となり、やがて国王となった。

国を豊かにし、人々を導き、

物事は表だけでなく裏を見て、自ら考え、判断せよと、子どもや臣下に教え続けた。


国は、やがて笑いの絶えない場所となった。


ヴォルンティアスは生涯、

フローレンシアと、メイリスに、謝罪を捧げ続けたという。


―――それが、彼なりの、二人への償いだった。


~完~

ここまで読んでくれて、ありがとうございます。

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