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座標  作者: Metanfetamin
3/6

裏側の世界

ヨルは、視界の端で港の灯りがひとつ、またひとつと闇に飲まれていくのを、ただ黙って見つめていた。

風は既に港の外から吹き込むのではなく、どこか海の奥底、あの球体の存在する場所から吸い上げられてきているようだった。

潮よりも冷たく、皮膚の内側まで染み込む湿気。

肺の奥で、それは「空気」というより「水」の気配を残してゆく。


セイジの震える手は、刃を握るたび微かな音を立てた。

「………あれ、近づいてきてる」

呟きは波音よりも低い。

その言葉にブリムの背が一瞬、硬直した。

彼は船へ向かう歩みをそのまま速めたが、視界に入れぬよう努めていても、背後の暗い水面は確かに脈動していたーー

“笑み”の口が、わずかに形を変える。

今度はーーーゆっくりと何かを発音した。


ヨルの耳には音として届かず、しかし頭蓋の内側で反響するような、水圧の低いところで聞く自分の心音のような響きがあった。

一つの短い言葉。意味は解らない。だが、それが名前であることだけはわかってしまう。


自分の名前なのか、それとも、まだ知らぬ誰かの名なのか。


桟橋の下、係船柱に縛られた舟の影が、形を変えて揺れた。

固定されたはずの縄が、内側から引き寄せられたようにきしむ。

セイジが短剣を構えた瞬間、港の水面に幾筋もの波紋が立った。だかそれは風によるものではない。


波紋はやがて、港全域の水を一つの大きな環へと変え、その中心がゆっくりと沈み込みはじめた。

ーーーまるで”彼ら”を、再び下へ呼び戻そうとしているように。


ブリムは全身で風を押し切るように船へ飛び移り、甲板から荒々しく叫んだ。

「走れ! 堤防まで行け!、港ごと呑まれるぞ!」


だが、ヨルの足は動かなかった。

あの青白い球体の”瞳”と、今、水面から覗く”笑う顔”とが、彼の頭のなかで重なってしまっていた。

その時、セイジの片目が淡く青光りし、港全体の灯が一瞬にして消えた。


音が、完全に失われた。


足音さえも、自らの心臓の鼓動さえも、呑み込まれた。

一面の闇の中で、唯一形を持っているように見えたのは、港を取り囲む暗く光る水の曲面だけだ。

その水が、ゆったりと、そして確実に、回転している。

中心の沈み込みはさらに深く、鈍い吸引の圧が足元から脛を突き上げてくる。


セイジは短剣を握りしめたまま、その片目を閉じようとしない。青白い光は、闇の中にまるで一つの星のように浮かび、……….いや、それは星などではない。

光に惹かれるようにして、真下の渦から”何か”が伸びあがってきていた。


形容できぬ程滑らかで、骨も節も無い肢。

それが触れる先々から水面が凍るように静まり、影さえも形を失っていく。

「…….ヨル」

セイジの声が、水底から響く音と同じ質を持っていた。

ヨルは返事をしようとした、だが声は、喉の奥から抜け落ち、ただ吐息となって消えた。


渦はすでに堤防の石壁にまで触れ、その足元から石に亀裂が走る音が無音で伝わってくる。

ブリムが甲板から鎖を放ち、何かを引き上げようとした、鎖は水に触れた瞬間、ふっと消えた。

切れたのでは無い、鎖そのものの存在が失われたように。


次の瞬間


渦の中心から、先ほど水中で見た”顔”が海面を突き破って現れた。


目も口も、そこにあるのに、形は崩れて別の誰かになる。

笑っているはずなのに、その笑みが皮膚ごと回転し、裂け、収束し続けている。

セイジの青い瞳が、僅かに揺れた。


「駄目だ…….見たらーーー」

ブリムの叫びより早く、ヨルは気づく。

動いてるのは渦ではない。

港全体が、球体の中に”反転”し始めている。


水も、波も、空も、桟橋も、そして、彼ら自身の影も。


セイジが一歩踏み出し、その刃を渦の中心へ投げ込んだ瞬間、全ての光景が裏返るように、色を持たない平面と化す。


冷たい”裏側”の表面が、触れた指先から身体全体に回り込む。


息が、なくなった。


落下している、そう思ったのは最初の一瞬だけだった。

次に感じたのは、自分の両足が何か硬い面を踏みしめている感覚。

だが、それは石でも木でもない。

透明の膜のような、それでいて柔らかさを拒む奇妙な地面だった。


空は……ない。

頭上には白く曖昧にうねる布のような天蓋が広がっている。

布と呼ぶには厚すぎ、雲と呼ぶには重すぎる。

まるで空間そのものが、内側へ向かって撓んでいるようだった。


周囲を見渡すと、街があった。

だがその街は色を持たない。家々は輪郭線だけで形作られ、影までもが薄紙のように貼り付いてる。

建物の窓から、複数の視線がじっとこちらを見ていた。

それは明らかに”人”の形だが、輪郭線が時折ほどけ、輪のような模様になってまた戻る。


「……ここは…….?」

ヨルが呟く声は、やけに近く、自分の耳の奥で直接響くように聞こえた。

空気が振動していない。息を吐いても、その白い曇りは出ない。


セイジは短剣の代わりに、手の中に青い光を握っている。

その光が、街の輪郭を微かに震わせた。

すると、視線を送ってきていた”人の形”のいくつかが、音もなく近づいてきた。


彼らの歩みは一定の速さで、足元は地面から浮いている。

顔はあるが目鼻口は全て同じ線で繋がっており、まるで一筆書きで構成された顔が、重なり合って存在しているようだった。


ブリムが低く唸る

「ヨル気を抜くな。ここは…..生きて動く紙の裏だ」


一体がヨルの目の前で止まり、その輪郭線がふっと広がった。

次の瞬間、街全体の地面が波打ち、遠くまで並ぶ輪郭線の建物たちが一斉にこちらを向いた。


街が、歓迎しているのか、それとも侵入者を飲み込もうとしているのか。


セイジは声を低くして囁いた。

「この中枢に辿り着かないと、私たちは二度と元の側に戻れない。」


その瞬間、輪郭の”人間”たちが街路を塞ぐように整列した。

道は一本だけ、奥へと沈んでいく階段のような坂道。

そして、坂の最奥には、巨大な円環がゆっくりと回転しているのが見えた。


そこから微かに、港で聞いたあの”渦”の音が漏れている。



坂道を降りるほど、空気が薄くなっていく。

いや、”空気”と言う言葉は正確じゃない。

ここでは呼吸そのものが、目に見えない糸を引くような感触だった。

一歩ごとに、その糸が背中と胸の奥を絡め取る。


坂の両脇に並ぶ輪郭の人々は動かない。

だが、近づけば近づくほど、その黒い線には細かな”揺らぎ”が走っているのがわかる。

まるで呼吸の代わりに、存在そのものが微振動して形を保っているかのようだ。

ブリムが呟いた。

「こいつら…….生きてるんじゃない。街の意志の断片だ」


坂の終点、円環の門はほとんど建造物とは呼べない。

直径20メートルはある鉄骨のような円形構造物が宙に浮き、無数の透明な断片、ガラスの破片のようなものが内側をゆっくりと反時計回りに漂っている。


近付くと、音が耳に刺さった。

水音でも風音でもない。

もっと深い…..耳の奥に届くような低い振動。

それは港で聞いた”渦”の音と同じ、しかしこちらの方がはるかに明確だった。


セイジが青い光を強めると、円環の破片の間から”外の景色”が垣間見えた。

だがそれは現実ではない、同じ街の、別の裏側。

立体ではなく、二重写しの平面が折り畳まれるように重なっている。

「これが裏側の構造よ。層の数は無限。私たちが歩いてきた場所は、その中のたった一枚」

セイジの声は震えていた。

「中央の渦に近づけば、層を移動できる。でも、代償が必要。」


ヨルが問う。

「代償って…..何を捧げればいい?」

「存在そのものの”厚み”よ。」

セイジは青い光を掲げた。

「円環を通れば、私たちは現実での”密度フィジー)”を失う。形を保つ部分を削ぎ落とされる代わりに、別の層へ移れるの」


ブリムは無言で円環を見上げた。

その表情には恐怖よりも、何かを覚悟したような影が差していた。


円環の破片が、次第に回転を早めていく。

その中心は完全な虚無、一切の色も、形も、線さえもない穴。

だがそこから確かに、向こう側への”呼び声”が響いていた。


選択の余地はない。

このままここに留まれば、裏側の街はやがて彼らを輪郭の一部として飲み込むだろう。


セイジが振り返り、短く告げた。

「入るわよ。誰の”厚み”(フィジー)から削るかは、私が決める。」





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