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座標  作者: Metanfetamin
2/6

港の底を見る夜

波止場の老舗ダイバー屋の裏、小さな桟橋にヨルとセイジ、そして船長のブリムが立っている。

海面は黒い鏡だ、夜の港灯が微かな揺れを作るたび、海中の深い暗がりが上下に伸び縮みする。

ブリムは手にした小型ランタンに火を入れ、灯芯のあかりをギリギリ弱く調整した。

光が強すぎると、あれが寄ってくるーーーそう、古くから港では言われている。


「潜るのは俺とヨルだ。セイジ、お前は上で見張りだ、」

ブリムの声は海風(今夜は微かだった)の背後でかすれる。

セイジは頷き、腰の革袋を撫でる。その袋には折れた短剣が入っている。

海賊襲撃の夜に折れた刃だ。彼女は両目で覚えていた夜の光景を、今は片目だけで確かめる習慣がある。


ヨルは潜水具を肩から引き寄せた。

旧式潜水マスクのガラス板はひび割れており、右上に不自然な曇り跡がこべりついている。

それは3ヶ月前、港沈没区画で目にした”あの顔”が触れた痕だ。

「行くぞ」

ブリムは迷いなく海に膝まで入り、水音を殺して潜った。ヨルも続く、海水は夜にも関わらず微かに温かいーーー赤潮の前触れだ。


潜水開始から15秒、港の底がゆっくりと浮かび上がる。半壊したアーチ型の商館、割れた窓から漂い出る紙片の群れ。紙にはまだインクの匂いが残っているような気がした。

動くはずのないものが、まるで海底で時間を止められた瞬間のまま保存されている。


ブリムが指差した先に、それはあった。

半分砂に埋もれた銅製の柱ーーー表面には奇妙な文字列が地図のように刻まれている。

羅針盤の針は柱の方角で微振動を繰り返す。


ヨルはその文字に触れた瞬間、指先に微かな脈動を感じた。冷たく、しかしどこか人肌のような温もりを伴う脈だった。同時に、海底の暗闇から”形のない視線”が近づいて来た気配がした。

心臓の鼓動と水の脈動が同じリズムになるーーー嫌な符合だ。


ブリムが合図を送る。上がるぞ、と。

しかしヨルはなぜか、その場から体を動かせなかった。闇の中、わずかに光が歪む。形を取ろうとして取れない何かが、あちら側からこちらを覗き込んでいる。


水面からセイジが微かに響く声を落とす。

「ヨル……….上、見ろ」

何のことか分からず振り返ると、港の空に”ふたつ目の月”があった。青白く滲む光球、それは夜空ではなくーーー港の水中に映っていた。つまり、本物は海の底にある。


水面を割って上がると、港の空気は海底よりも重かった。セイジが慎重に2人を引き上げる間も、遠くの波止場では誰かが木箱を落としたような音が短く響く。

音の後ーーーすぐに完全な静寂が戻った。

港町ヴァインドは音を吸い込む街になりつつある。

ブリムは濡れた手で髭を撫でながら言った。

「見ただろう、あの下にある”月”を」

ヨルは頷く。頷くしか無かった。

青白く滲む球体ーーふたつ目の月ーーは確かに海底に存在していた。

だが、あれ自体が”光っていた”のか、それとも何かに照らされていただけなのか、判断がつかない。

水中で見た輪郭は不完全で、中心だけがこちらに向かって揺れていた。まるで”瞳”のように。


セイジは無言で桟橋に腰を下ろすと、革袋から折れた短剣を取り出した。

潮に濡れて鈍く光る刃先に、ふとーーーさっきの青白い光が反射する。

「これ....呼んでる」

その言葉は呟きと言うより、夜気に溶ける吐息だった。

ヨルが振り向くと、セイジの片目は暗がりの中でわずかに光っているように見えた。


海から吹き込む風が急に逆向きになった。

港の灯りが一つ、また一つと消えていく。

ブリムは舌打ちし、船へ向かおうとしたが、その時ーー背後の波間で”顔”が上を見ていた。

輪郭は曖昧だが、間違いなく”顔”だった。

髪も目も鼻も、揺れる水の歪みの中で不安定に形を成す。ただ一つ、口だけはっきりと見えた。

それは笑っていた。


笑みは海水ではなくーーー直接、頭蓋の内側へ染み込んできた。ヨルは吐き気を覚え、膝をついた。

セイジは短剣を強く握りしめたが、その手は震えてるのに気がつく。

ブリムは振り返らなかった、振り返れば、港から出られなくなることを知っているからだ。


遠くで響くはずの鐘の音が一拍だけ鳴り、すぐ途絶えた。海の底と港の上が、ほぼ同じ沈黙に包まれる。そしてーーーあの”顔”だけが、変わらず笑っていた。





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