港の底を見る夜
波止場の老舗ダイバー屋の裏、小さな桟橋にヨルとセイジ、そして船長のブリムが立っている。
海面は黒い鏡だ、夜の港灯が微かな揺れを作るたび、海中の深い暗がりが上下に伸び縮みする。
ブリムは手にした小型ランタンに火を入れ、灯芯のあかりをギリギリ弱く調整した。
光が強すぎると、あれが寄ってくるーーーそう、古くから港では言われている。
「潜るのは俺とヨルだ。セイジ、お前は上で見張りだ、」
ブリムの声は海風(今夜は微かだった)の背後でかすれる。
セイジは頷き、腰の革袋を撫でる。その袋には折れた短剣が入っている。
海賊襲撃の夜に折れた刃だ。彼女は両目で覚えていた夜の光景を、今は片目だけで確かめる習慣がある。
ヨルは潜水具を肩から引き寄せた。
旧式潜水マスクのガラス板はひび割れており、右上に不自然な曇り跡がこべりついている。
それは3ヶ月前、港沈没区画で目にした”あの顔”が触れた痕だ。
「行くぞ」
ブリムは迷いなく海に膝まで入り、水音を殺して潜った。ヨルも続く、海水は夜にも関わらず微かに温かいーーー赤潮の前触れだ。
潜水開始から15秒、港の底がゆっくりと浮かび上がる。半壊したアーチ型の商館、割れた窓から漂い出る紙片の群れ。紙にはまだインクの匂いが残っているような気がした。
動くはずのないものが、まるで海底で時間を止められた瞬間のまま保存されている。
ブリムが指差した先に、それはあった。
半分砂に埋もれた銅製の柱ーーー表面には奇妙な文字列が地図のように刻まれている。
羅針盤の針は柱の方角で微振動を繰り返す。
ヨルはその文字に触れた瞬間、指先に微かな脈動を感じた。冷たく、しかしどこか人肌のような温もりを伴う脈だった。同時に、海底の暗闇から”形のない視線”が近づいて来た気配がした。
心臓の鼓動と水の脈動が同じリズムになるーーー嫌な符合だ。
ブリムが合図を送る。上がるぞ、と。
しかしヨルはなぜか、その場から体を動かせなかった。闇の中、わずかに光が歪む。形を取ろうとして取れない何かが、あちら側からこちらを覗き込んでいる。
水面からセイジが微かに響く声を落とす。
「ヨル……….上、見ろ」
何のことか分からず振り返ると、港の空に”ふたつ目の月”があった。青白く滲む光球、それは夜空ではなくーーー港の水中に映っていた。つまり、本物は海の底にある。
水面を割って上がると、港の空気は海底よりも重かった。セイジが慎重に2人を引き上げる間も、遠くの波止場では誰かが木箱を落としたような音が短く響く。
音の後ーーーすぐに完全な静寂が戻った。
港町ヴァインドは音を吸い込む街になりつつある。
ブリムは濡れた手で髭を撫でながら言った。
「見ただろう、あの下にある”月”を」
ヨルは頷く。頷くしか無かった。
青白く滲む球体ーーふたつ目の月ーーは確かに海底に存在していた。
だが、あれ自体が”光っていた”のか、それとも何かに照らされていただけなのか、判断がつかない。
水中で見た輪郭は不完全で、中心だけがこちらに向かって揺れていた。まるで”瞳”のように。
セイジは無言で桟橋に腰を下ろすと、革袋から折れた短剣を取り出した。
潮に濡れて鈍く光る刃先に、ふとーーーさっきの青白い光が反射する。
「これ....呼んでる」
その言葉は呟きと言うより、夜気に溶ける吐息だった。
ヨルが振り向くと、セイジの片目は暗がりの中でわずかに光っているように見えた。
海から吹き込む風が急に逆向きになった。
港の灯りが一つ、また一つと消えていく。
ブリムは舌打ちし、船へ向かおうとしたが、その時ーー背後の波間で”顔”が上を見ていた。
輪郭は曖昧だが、間違いなく”顔”だった。
髪も目も鼻も、揺れる水の歪みの中で不安定に形を成す。ただ一つ、口だけはっきりと見えた。
それは笑っていた。
笑みは海水ではなくーーー直接、頭蓋の内側へ染み込んできた。ヨルは吐き気を覚え、膝をついた。
セイジは短剣を強く握りしめたが、その手は震えてるのに気がつく。
ブリムは振り返らなかった、振り返れば、港から出られなくなることを知っているからだ。
遠くで響くはずの鐘の音が一拍だけ鳴り、すぐ途絶えた。海の底と港の上が、ほぼ同じ沈黙に包まれる。そしてーーーあの”顔”だけが、変わらず笑っていた。