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第6話 精神における希望と消滅

 《《そのとき》》は朝のカーテンからあふれる陽光が、空間の細かい粒子で乱反射して流体力学の存在を目に示している最中さいちゅうにやってきた。久彦の目しか実際には動いていないにも関わらず、絶えず揺れ動く粒子の意志、法則。何かしらの把握しきれない、久彦にとっては理解しえない力がそこには極限的に存在しており、ただただ幻想的な朝日の存在が部屋を満たしていた。


 《《そのとき》》はすでに訪れている。その感覚だけが久彦に充満している。まるで自らの自由意志とは無関係に、ふとした瞬間にやってくる行動の兆し。血中になんらかの薬物でも入りこんでいるかのような夢心地。今までにない自らを自覚し、それでいて今までと変わらない自らとしての存在を自覚し続けていく。


 久彦にとって《《そのとき》》は、あまりにも多くの時間をかけて、内省的な行為を経て、永遠のように長い精神的時間をもってして、やっとのことで舞い降りてきたようだった。


「もう踏ん切りはついた。答えはすでにあのときから目の前にちらついていたけれど、それは答えのようなものであって答えではなかった。実際的な答えでないとそれは意味がなかったんだ。実際的な答え? それはどこまでも個人的な答えということだ、この場合は。そして個人的な答えとは、納得をどこまでも伴うものだ。伴うべきだ。大切なことはすべてゆっくり考えるに限る。なにごとも焦るべきではない。そのときが来るまで気長に待つんだ。そうだ、きっとそのはずだ。《《僕は僕の個人的な問題に打ち勝ったんだ》》」



 久彦はそのようなことを背筋を伸ばして言った。空間の粒子は久彦の伸びで新たな法則に従い流動を開始する。絶えず動くことを強制される。しかしそこには何の不満も怒りも悲しみも喜びも発生しえない、粒子にとってのただの流動があるだけだ。


 流動し続ける運命があるだけだ。


 ……


 ……


 ……


 久彦は久彦で、個人的な流動の最中さなかに存在し続けている。久彦はそのなかで特別な存在(生命)として、様々な流動における副産物としての感情を獲得し、何かしらの思想を受動的かつ能動的に発展させていく。または劣化させていく。


 そして《《その強制》》は無意識のうちに《《生きる喜び》》として変換され、大抵の場合は性欲や幸せなどという果てしなく拠り所がない代物による神経麻痺のような現象を経て、それを存在に固着させていく……。そのような不可思議な生命的強制がなければおそらく、そもそもそれは生命としての持続が難しいものになるのだろう。何の循環も反復も、ひょっとすると時間さえも存在しえなくなってしまうほどに、重要なことであるように思える。


 物質も生命もすべては根源的な強制がなければ成り立たない。しかしそう考えると、その強制はなんなのか、という疑問がどうしても生じてしまう。それはどこからやってきて、何で構成されている?



 強制は強いられるものなのか、それともその根源的な強制とは自然発生的なものなのか。そもそも強制とは何か? 一般的な主従における強制と、この根源的な強制の違いはどこにあるのか。そして仮にもし違いがないのだとしたら、この世の中は……


 一体何によって、なぜ、強制されているのだろうか。


 ……


 ……


 ……



「もう何も悩むことなんてない。一度こころから決めてしまったことは、もう個人的には絶対的に正しい選択だったのだと。そう割り切ることが大事だと信じることにした。くよくよしていては駄目だ。だから僕にとって大切なことは、その信じる個人的な尺度、物差しというものを、どこまでもより良く、あるべき姿に正していくことに他ならない。だからこそ、本がこの世に存在するのだと思うし、道徳という普遍的な物差しが語り続けられているのだと思う」



 本


 道徳


 普遍的な物差し



 それらは流動する運命のなかに内包されている概念に過ぎない。絶えずあり方が変化し、時代における、これまた強制力というものによって流動を強いられる。それが運命であるかのように。繰り返し、繰り返し。複雑性のなかで、何かしらの力学に従って流動し続ける。


 もちろん久彦はそのなかにおける一過性のものによって、個人的な納得をするわけであるし、個人的な幸せを追求していくことになる。それが仮初の拠り所であっても、本物の拠り所であったとしても、だ。もっとも、そのような真偽というふうな見極め自体、かなり拠り所の不確かなものでしかない。


 そのようなことは久彦にもわかっている。流動の最中を耐え抜いてきた、歴史の試練という摩擦に擦り切れることなく保持してきた、その思想を本を、読み続けてきたことによって理解してきているつもりだ。




強制に抗ってきた思想……


そのベクトルにおける思想の目指しているところ……



……


……


……



 つまり久彦にとって大切なことは、時間を耐え抜くことだった。そして頼り切ることだった。気長に気楽に考える、ということだった。そして嫌になったら、考えるのをやめて気長に待つということだった。それしか、もはや、何事も前には進めてくれないような気がしているのだ。


 怒りがあってもいい。悲しみがあってもいい。苦しみがあってもいい。


 しかし、決してそれだけではいけないのだ。それだけに取り込まれてしまってはいけないのだ。だから戦略的に撤退する。戦略的に逃げるのだ。悲しみから、苦しみから、切なさから、絶望から……


 これは現実逃避と一般的には呼ばれている。しかし、それはなにも否定的なものではない。そうあってはならない、本来は大切な言葉なのだ。概念なのだ。


 ……


 ……


 ……



 現実逃避をしてもなにも変わらないかもしれない。実際的な状況は何も。何も改善されていないかもしれない。それは少しも幸せには直結しない……。


 しかし本来、幸せとは極めて個人的なものだ。幸せは状況ではない。状況から得られるものは、せめて感情的な浮き沈みだけだろう。幸せになるには、結局のところ、その置かれている状況のなかでいかに振る舞い、そしていかに理解をし、納得をするか。その一連の思考や行動が洗練されているかどうか。それに限るように思う。だからこそ、生命としての人間はよくあるべきなのだと思う。


 よく在るべきなのだと思う。


 それが唯一の幸せになるための思想的成果であり、それはどこまでも個人的な体験に根差すものである、と。


 だからこそ、考えなければならない。だからこそ、逃げなくてはならない。だからこそ、いつかは戻ってこなくてはならない。


 この世はどこまでも、個人的な世界であるのだから。


 その意味での、個人的な世界なのだから。



 ……


 ……


 ……


 久彦は朝の支度をした。そして学校へ行き、しかるべきタイミングで二人と話し合うと決めた。すでに、そのときは訪れており、久彦は物事を整理するためにも、今は決して逃げるべきではないことを理解していた。納得していた。


 玄関を出ると朝日が朝鳥の鳴き声に含まれて、顔を優しくもあり厳しくもある刺激でさした。久しぶりに生きている心地が得られた。



「規則正しい生活をこれからは送っていこう。しばらくは、それが僕には必要なことだ。もう僕は十分逃げた。今は進むしかない。しばらくは、進み続けるしかない。そのときがくるまでは」



 久彦は何も改善していない状況のなかで、いくらかの希望を持ち得ていた。それはとても満ち足りた充足感を久彦にもたらしてくれる。


 全ては《《個人的な問題》》であった。


 そしてそれは久彦のなかではすでに解決しつつある、問題であった。


 ……


 ……


 ……


 久彦はふたたび、幸せになるために現実に引き返してきたのだった。




☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 久彦が教室に入ると、そこは騒然とした雰囲気に満たされていた。


 なにか事件が起きたとでもいうかのような、慌ただしさだった。


 そしてそこへ久彦の存在に気が付いた緑が駆け寄ってきた。とてつもない形相だった。そこには悲しみと怒りと困惑と、あらゆる心配に関係する感情が詰め込まれているふうだった。




「久彦!!!!紫が!!!紫が!!!!!!!!」




 緑はそんなことを、半ば泣き叫びながら訴えてくる。もう恥を捨てたのも同然の有様だった。




「紫がああああああああ!!!!!!!!いなくなっちゃたの!!!!!紫が!!!!!!!!!!!ああああああああああああああああああああああ!!!!」




 緑はクラスメイトを一切気にすることなく、泣き叫び始めた。


 そこには正真正銘の魂の叫びのようなものが含まれていた。



「……どういう、ことだ。緑、いったいこれは、どういう状況なんだ?」

「紫が昨日の夜からいなくなっちゃって!!!捜索願も出したみたいなんだけど、警察はもう少し様子を見ましょうとか言って、全然すぐには動いてくれなくて……。ああああ、ああああ!!!!!!」

「…………は?」



 久彦の呆然とした顔。状況が呑み込めないといった風な、間抜けな声。


 対して、緑は久彦の胸に飛び込み、泣き叫んでいる。


 泣きわめいている。


 ……


 ……


 ……


 事実。


 紫が失踪した。


 事態はさらに混迷を極めはじめた。


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