絶望と希望
「そこッ……!」
蜘蛛と蠍を掛け合わせたような魔物の、脚の関節部分を狙って、滑り込みながら刃を通す。
硬い。一撃一撃に全力を込めているというのに、大した傷になっていない。精々、奴の動きを一瞬だけ鈍らせる程度だろう。
(だけど……!)
続け様に駆け抜け、同じように関節部分を切り裂いていく。一撃当たりの傷は浅くとも、何度も繰り返せばそれは致命傷となり得る。
問題があるとするなら……2つ。
「くッ……!?」
1つは、蛇の頭が生えた尻尾だ。小刻みに動き続けながら攻撃を繰り返す僕に、巨体の奴は対応し切れていない。その代わり、甲殻に包まれていない尻尾が鞭のように動き、こちらを攻撃してくる。
しかも、この蛇の頭は妙な毒液を吐いてくる。着弾した地面が溶けていることから考えても、被弾することは避けたい。
そしてもう1つは……奴の硬すぎる甲殻だ。
可動部分である関節はその性質上、ある程度の柔軟性がなければ動けなくなる。故に、刃が通る。しかし、それ以外の甲殻は別だ。攻撃の瞬間に軸をずらされ、硬い甲殻に剣を振り下ろせば、弾かれてこちらの隙になり得る。
厄介な相手だ。長く戦えばその分、他の魔物が寄ってくる危険性だって増す。できれば短期決戦を望みたい。
「くそ、こんな時に魔法が使えたらなッ……!」
クレスやレッドのように、上手く魔法が使えたら。何か、状況は変わったかもしれない。だが……残念ながら、僕には魔法の才能がない。子供でさえ使えるような簡単な魔法さえ、発動することができない。
無いものねだりはよそう。このままでは消耗戦になる。どうせ体力を消耗するのならば、時間のかからない選択に賭けるしかない。
剣に、意識を集中させる。そして魔力を流し込むと、柄から小さな棘が出てきて、手のひらを刺す。
ちくりと、優しくはない痛みが手に広がる。傷口から流れ出た血は、そのまま柄に染み込み、次の瞬間、剣が赤黒い光を放ち始める。
「久しぶりだけど……動いてくれよ、聖剣!」
そのまま、魔物に向かって剣を振るう。振り下ろされた魔物の前脚を躱し、その下をくぐって後ろ脚を斬りつけた。
今までは小さな傷ばかりだった。だが、変色した聖剣は……いとも容易く、その脚を両断した。
……いける。さっきまで記憶を失っていて自信はなかったが、聖剣はまだちゃんと機能している。
勇者にしか扱えないとされるこの聖剣は、普段はなんてことのないただの直剣だ。だが、勇者が魔力を流し込めば、魔力と血を糧にして一時的に凄まじい切れ味を誇る剣へと変貌する。
問題は、少なくはない魔力を要求されることと、使用中は定期的に血を吸い込ませなければならない点だ。故に、長期戦には向かず、連続しての使用も難しい。
けど、このままここで戦っていても体力を消耗するだけだ。結果は変わらない。だから、すぐに終わらせる。
『——、——ッ、————ッッ!!』
「何言ってるかッ……分かんないよ!」
耳を塞ぎたくなるような気味の悪い叫び声をあげながら、魔物はもがき抵抗していた。そんな奴の叫び声には耳を貸さず、次々と脚を両断していく。
右半身と左半身、それぞれの脚を半分切断し、奴がその場から移動することもできなくなると、一度退いて距離を取る。徐々に頭の位置が下がってきている。これなら、剣が届く。
『————ッッ!』
接近戦は諦めたのか、奴が尻尾の蛇の口から毒液を連続して噴射する。驚異的な技だが、距離があれば避けることも容易い。
毒液を避けながら、魔物との距離を詰める。あと数歩、あと三歩、あと一歩。
(捉えたッ!)
姿勢を低くして、頭部の真下まで滑り込み、上体を起こしながら首を狙う。ただのなまくらなら、両断することは到底不可能であろう堅牢なその首を、聖剣は容易く斬り裂いた。
首がゆっくりとずれ、頭部がごとりと地面に落ちた。再び距離を取り、魔物の絶命を待つ。
まだ……油断はできない。魔物の中には、頭と体とを両断しても死なない者もいる。奴らが完全に塵と化すまで、油断はできたいのだ。
「……終わりか」
やがて、魔物の体が、端から黒い塵に変わっていく。塵は風に乗って空に舞うと、いつの間にか見えなくなった。
「何とか……倒せたな……」
一気に、体の力が抜ける。まだ周囲の安全も確認できていないが、ここまで派手に戦って出てこないのならば、周囲に魔物はいないのだろう。奴らには、そこまで高い知性はない。少なくとも、作戦や計画を練るほどの知性は。
ため息をこぼしながら聖剣の変化を中断すると、少し離れたところで、リリーが手を振っているのが見えた。
「レオン! お疲れ様!」
体力は少し、回復したようだ。笑顔でこちらに手を振るリリーに向けて、小さく手を振り返し、そちらに向けて歩みを進める。
ひとまずの脅威は去った。けれど、僕たちが過ごしてきた家は……あの魔物の侵攻で破壊されてしまった。もうあそこには戻れない。
他の、無事な家を探してそこで暮らすか。それとも、リリーが言っていた通り、村を離れて2人で移住するか。
「良かった、無事で……私、何もできなくて……」
「僕は大丈夫だよ。リリーこそ、無事で良かった」
……いや、細かい話は、落ち着いてからでいいだろう。今はただ、僕たち2人が生き延びたことを喜ぶべきだ。
安堵したような表情で、今にも泣き出しそうなリリー。そんな彼女に手を差し伸べようとした。もうすぐ、手が届く。
——その時だ。
「……ッ、地震……!?」
突如として、地面が揺れ始める。地上で何かが暴れているような揺れではなく、それこそ、地震のような揺れだ。
何だか、嫌な予感がする。さっき倒したあの魔物も、今までに見た覚えのない魔物だったし、僕があの時敗れたことで魔王に何か変化があったことは間違いないだろう。
「リリー、こっちへ。すぐにここを離れよう」
「う、うん!」
リリーが差し出した手を、取る。否。取ろうとした。
ずっと続いていた揺れが、さらに激しくなる。そして一度、地面から激しく突き上げられるような揺れが起きたかと思うと……目の前が、真っ暗になった。
真っ暗でいて——そして、真っ赤だ。
それが、魔物であると気付いたのは、かえって冷静になってしまってからのことだった。この揺れは、地面の下を巨大な魔物が這い回っていたからで、そして、その魔物が地面から飛び出してきたのだ。
——目の前にいた、リリーの足下から。
ミミズのように長い体を持った魔物が、リリーがいた場所から飛び出してきている。空に向かって。大口を開けて。目の前が真っ暗になったのは、その魔物に視界を覆われたからで、目の前が真っ赤になったのは……誰かが、その魔物に喰われたから。
——誰が? 誰が、喰われたんだろう。
「……ぁ?」
ぼとりと、空から何かが落ちてくる。大きく見開いた目で見ると、それは、小さな手だった。丁度、リリーの手、みたいな。
「ぁ……ぁぁぁああッッ!?」
そりゃあ、そうだ。リリーの足下から飛び出てきた魔物が、誰を喰ったかなんて、考えればすぐに分かる。
分かる? いや、分かりたくない。分かっては、いけない気がする。
魔物は空に向かって上昇を続け、全身が飛び出すと、そのままどこかへ飛び去っていった。僕に見向きもせずに。ただ、ここにいた少女だけを喰い散らかして。
その場にへたり込んで、落ちていた手を拾う。まだ温かい。気持ち悪いほど、温かい。
「……これ、は……夢、そう……悪い夢だ……」
きっと僕は、悪い夢を見ているだけなんだ。目を覚ませば、良い匂いがして、リリーが笑いながら言うんだ。『やっと起きたの?』だなんて。
「夢じゃない、なら……これは……なんなんだ……?」
……いいや、ダメだ。考えてはダメだ。現実を見てはダメだ。現実を見たら……現実を見たら、リリーが死んでしまう。現実を見なければ、リリーは死んでいないんだ。
「ぁ……あぁッ……ぁぁあッ……!」
見たくもない現実が、嫌でも目に飛び込んでくる。地面に空いた大穴と、その周りに撒いたような鮮血。生温かい手は、今も僕の胸の中にあった。