十字架
——目覚めてから2日が経過した。傷の治りは良好。というよりも、ほぼ全快したと言っても過言ではない。意識が戻ってからというもの、ここまでの1ヶ月間が嘘のように傷の治りが早いのだ。
自由に動けるようになってからは、失った1ヶ月を取り戻すべく奮闘した。欠けた記憶を補うための知識と、2人で生活を送るための物資の補給。それから、魔物と戦うための戦闘技術の構築。
3つ目に関しては、記憶を失う前の僕は剣士だったのだろう。剣を握ると、頭で考えるよりも先に身体が動いた。記憶は無いのに、戦えるという自信だけは湧いて出てきた。
「……で、勇者様が仲間を率いて魔王を倒しに行ったの」
今は、リリーによる座学の最中だ。この世界の歴史を知れば、自分の記憶を取り戻すきっかけになるかもしれない。そう思っていた。
けど——思っていたよりも、頭痛が酷い。魔物や魔王の話が始まってからは、特に。そこに何らかの因縁があるのかもしれないが、真実は分からない。
「結果は……聞かなくても分かるか」
「うん。多分、レオンの考えてる通りだよ」
目覚めてから、リリーは僕のことをレオンと呼ぶようになった。『名前が無いのは不便だから』、という理由で。名前の由来を聞けば、昔飼っていた犬の名前だそうだ。
「魔王を倒しに向かった勇者様が帰ってこない。そして、ある時から魔物の数が増え始めた。だから、勇者様はもう……」
リリーは暗い顔をしながら言う。
彼女の話では、魔王を滅ぼすことのできる唯一の存在……勇者が魔王討伐に乗り出したものの、行方が知れなくなってしまったらしい。
彼女は敢えて口にはしなかったが、恐らく、勇者はもう……死んでいる。勇者の失踪と魔物の増加が、ほぼ同じ時期に起こっているからだ。
勇者が敗れ、世界は魔王の手に落ちた。そう考えるのが自然だろう。
「魔物は、今もまだ近くに?」
「ご飯をとりに行く時に見かけるくらいだよ。前より多くなってる気はするけど、この辺りは致命的なほどじゃないと思う」
リリーは続けて、こう言った。
「ほら、魔物って人を襲うから。分かるでしょ?」
——この数日間、身を潜めながら村を探索して分かったことがある。
この村は、既に滅んでいる。リリー以外に人はおらず、建物も倒壊して、畑も荒らされていた。まるで、強大な力を持つ何かに襲われたかのように。
魔物は人を襲う。食事としてなのか、単に殺戮を楽しんでいるだけなのかは分からないが、奴らの行動目的が『人間』であることは確からしい。
故に、リリー以外の人間がいないこの村には、魔物が少ない。……当然の理屈だ。
「……この村は、どうして——」
どうして滅んだのか。そう紡ごうとした言葉は、突如響き渡った大きな羽音に掻き消された。
即座に口を押さえ、息の音も最小限に抑える。リリーは同じように、口元に指を当て、静かにするように促していた。
羽音が徐々に遠のき始めるのと共に、僕たちは家の壁にある覗き穴から外の様子を窺った。
羽音が向かった方向に、巨大な虫のようなものがいた。羽根の生えた、空を飛ぶムカデのような……しかし、四足歩行の獣のような足も生えている。それも、何本も。
「……大きいやつだ。この辺りじゃ滅多に見かけないのに」
——魔物。人を喰らう、異形の化け物。記憶が無いはずなのに、何故か見覚えがある。アレを見た瞬間に、アレが魔物であると認識できた。
「……今日は、外に出ない方が良さそうだね。なんだか嫌な予感がする」
リリーと目を見合わせ、2人して頷く。その日は極力音を立てないよう、静かに過ごした。
それから更に数日後。森に物資を補給する帰り道に、村の探索をした。探索といっても、滅んだ村でできることなど知れている。村の中にあった物資は既に、リリーが取り尽くしているからだ。
だが、一ヶ所……気になっている建物があった。前々から視界の端には映っていたが、敢えて立ち寄らなかった場所。
「ここは……」
そこは、小さな教会だった。元々の造りが頑丈だったのか、比較的建物の倒壊は少ない方だ。
静かに足を踏み入れると、中には大きな十字架が立っていた。元からここにあったものではないだろう。丸太を手作業で削り出して作ったような十字架が、教会の真ん中に元から立っていたとは思えない。
足を進め、十字架に触れる。遠目では分からなかったけれど、よく見ると表面に何か文字が彫られている。
ユリス、パウロ、ローズ……人の名前、だろうか。それに、これは……。
「お墓だよ、皆の」
——その時、背後から声を掛けられる。リリーだ。
彼女はゆっくりと歩み寄ると、僕の隣に立つ。そして、穏やかな目で十字架を見つめた。
「まあ、お墓とは言っても、この下に皆が眠ってるわけじゃないんだけどね」
「リリー、この村は、やっぱり……」
「うん。魔物に襲われたの。3年前にね。私以外、皆死んじゃった」
予想はしていた。この村の荒れ方は、確実に何かに襲われた時の荒れ方だ。盗賊か、あるいは魔物か。悪い方の予想が当たっていたらしい。
「じゃあ、このお墓はリリーが?」
「なんとかね。魔物に見つからないように、毎日コソコソと」
彼女はまだ若い。見たところ、まだ15にもなっていないだろう。だというのに、魔物に襲われて滅んでしまった村で、ただ1人、この十字架を作り続けたのだ。
どれほど辛かっただろう。どれほど寂しかっただろう。たった1人生き残った子供が、亡骸の中で生き続けるのは。
途端に、頭と、胸が痛くなった。何かを思い出せそうなのに……思い出せない。
「私、この村が好きだから。だから、今はまだ離れたくないの。せめて……もう少しだけ」
リリーが寂しそうに微笑みながら、そう言った。口元は笑っていても、今にも泣き出しそうな目をしていた。
「幸い、魔物はここを滅ぼしたと思ってるから、案外暮らしやすいんだよ。警戒されてないからね」
「リリー……」
強がっているようにも見えた。だけど、そんな彼女にかける言葉が見つからず、僕はただ俯くことしかできなかった。
やがて、リリーはいつもの明るさを取り戻すと、ニコリと、先ほどとはまた違った笑みを見せる。
「ほら。あんまり遅くなると暗くなるよ。魔物に襲われるかもしれないし……帰ろう?」
「うん……分かった」
リリーに手を取られ、教会を後にする。気付けば、空は赤く染まっていた。
ユリス、パウロ、ローズ。恐らくは人の名前だろう。この村で暮らしていた誰かの名前だ。そして、十字架にはこんな名前も刻まれていた。
——レオン。僕の考えすぎでないとするのなら、その名前は、多分。