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記憶喪失の男

「僕は——誰だ?」


 自分が何者か。名前も、どこで生まれたのかも、どこから来たのかも……そんな簡単なことが、何もかも分からない。


 ただ一つ言えるのは、腕一本動かせないほどの怪我を負っているということ。身体には毛布が掛けられているようで、今、自分がどのような状態なのかは不明だ。


「ここは……誰か、いないのか……?」


 激痛が走る身体に、さらに鞭を打つ。動かなければ。何かをしなければ。何も覚えていない、思い出せもしないのに、ただそんな衝動だけが、僕の心を突き動かしていた。



「……ぁっ」



 がしゃん、と、何かを落としたような音がした。見れば、暗い空間に赤い光が揺らいでいた。


 それは、小さな女の子だった。手に持っていたのであろう木の桶を取りこぼした音だったのだろう。少女は僕の姿を見るなり、肩を震わせながらその場に立ち尽くしていた。


「め……目が、覚めたの?」

「君は……誰?」


 少女は落とした桶を拾うと、『待ってて』とだけ言い残して、またどこかへ行ってしまった。



 少しして、再び少女がやってきた。彼女は枕元まで駆け寄ると、手に持っていた桶を近くにあった小さな丸机に置く。


「ごめんね、驚いちゃって。まさか、目が覚めてるとは思わなかったから」

「いや、うん……大丈夫」


 桶の中に入っていたのは、水と手拭いのようだった。少女はおもむろにこちらの布団を捲ると、水をよく絞った手拭いを持つ。


「包帯、替えてあげるね」


 それから先は、されるがままだった。血の滲んだ包帯を外し、水に濡れた手拭いで身体を拭くと、新しい包帯を巻き直してくれる。


 慣れた手つきだ。恐らく、もう何度か同じことを繰り返してくれていたのだろう。


「あの……君は? ここはどこ?」


 包帯を巻き直している最中の少女に、そう問いかけた。彼女はこちらに目も向けず、答えた。


「私はリリー。ここはペルロス村。小さな村だから、知らないと思うよ」


 少女改めリリーは、そこまで言ってからこちらに視線を寄越す。


「お兄さんは?」


 その問いに、どう答えるべきか。ほんの少しの躊躇いの後、ありのままを答えることにした。


「僕は……分からない」

「分からない?」


 きょとんとした表情をしながら、リリーは手を止める。


「記憶がないんだ……どうしてこんな怪我をしているのかも分からないし、自分の名前すらも分からない」

「そっか……頭も怪我してたし、そのせいかもしれないね」


 そう言って、リリーは僕の頭に巻いていた包帯を解いた。恐ろしいほどに、全身くまなく怪我をしているようだ。


 記憶はやはり、頭のどこを探しても見当たらない。せめて、自分の名前だとか、どうしてこんな怪我を負っているのかとか、それくらいは思い出せたら楽なのだろう。だけど、思い出そうとすればするほど、頭の内側が痛んでしまう。


「……僕はどうしてここに?」


 全ての包帯を巻き直してくれたリリーに、思い切ってそう問いかけてみた。彼女は、血が滲んだ包帯を桶の水に沈めながら答えた。


「海辺に倒れてたの。大怪我をしてね。多分、嵐に巻き込まれたんだと思う。それが1ヶ月前」

「嵐に……1ヶ月前?」

「うん。お兄さん、1ヶ月間寝たきりだったんだよ」


 思わず耳を疑った。自分が重傷を負っているという自覚はあったが、まさか、1ヶ月も気を失い続けるほどのものだとは想定もしていなかったからだ。


「その間、君が看病を?」

「そうだよ。こんな、今にも死にそうな人を放ってはおけないよ」


 道理で、慣れた手つきをしているわけだ。彼女はこの1ヶ月間、何度も僕の包帯を替えながら看病をしてくれていた。


 痛む身体を動かして、上半身を起こす。そうして、ぎこちない動作で頭を下げた。


「……ありがとう。今は何も、お返しはできないけど」

「お礼目当てで助けたわけじゃないからね。こんな世界になっちゃったから、お互い、助け合わなきゃ」


 リリーはそう言って、桶を手にして立ち上がった。


「今日はこれで終わり。まだ怪我も治りきってないし、安静にね」


 そうして、看病が終わって立ち去ろうとするリリーを……呼び止める。


「待って、リリー。杖か何か……支えになるものはない?」

「ええ……? お兄さん、まさか起き上がるつもり? やめといた方がいいよ。一応、死にかけてたんだから」

「お願いだ、リリー。どうしてか……起き上がらなくちゃいけない気がするんだよ」


 リリーは、躊躇しているようだった。それもそうだ。こちとら、腕を動かすだけでも激痛が走るほどの怪我人だ。そんな怪我人が起き上がりたいと言っても、普通は良しとしない。


 だからこそ、僕は懇願した。僕の中にある何かが、僕に向かって『立ち上がれ』と命令しているから。


 暫く迷う素振りを見せていたリリーだったけれど、折れそうにもない僕を見て折れてしまったのか、やがて大きなため息をこぼしながら部屋の隅を指差した。


「お兄さんが持ってた剣なら……そこにあるよ」




 鞘から抜けないように柄と鞘とを紐で縛り付け、剣を杖代わりにして立ち上がる。元いた部屋は地下室だったようで、リリーに支えられ、痛みを堪えながら階段を登ると、少しずつ空気の流れが変わっていくのが感じられた。


「そこ、段差気を付けてね」

「うん……あづッ……」

「ほら、言わんこっちゃない。大丈夫?」

「だ、大丈夫……」


 階段や段差を乗り越えるために痛みを伴ったりと、色々とありながらも玄関扉に手をかける。ゆっくりと扉を開くと、なんだか嫌な気持ちになる冷たい空気と、赤黒い空が視界に飛び込んできた。


 僕には大部分の記憶が無い。けれど、覚えていることもある。僕の知る空は、こんなに不気味な色ではなかったはずだ。どこまでも澄み渡る、青い空だったはずだ。


 それが今はどうだ。まるで、血を絵の具代わりにして塗りたくったような、そんな空の色だ。


「お兄さんが眠ってる1ヶ月の間に、この世界は変わっちゃったんだ。かなりね」

「そう……みたいだね」


 リリーはどこか、遠くを見つめているようだった。悲しげで、儚げな表情だ。彼女にも、何か込み入った事情があるのだろう。今はまだ、触れない方が良さそうだ。


「……リリー。もし可能なら、僕が倒れてた海辺まで連れて行ってくれないかな。何か、思い出すかもしれないんだ」


 僕はリリーに、そう提案した。しかし、彼女は苦い顔をすると、首を横に振る。


「うぅん……連れて行ってあげたいのは山々だけど、その体じゃ、ちょっと難しいかも」

「どうして?」

「この辺りはまだマシだけど、前と比べて魔物の数が増えてるから……あまり、外をうろつかない方がいいの。……あ、魔物のことは覚えてる?」

「……魔物……」


 魔物。その言葉を聞いた途端に、脳が激しく揺さぶられるような、そんな感覚に陥った。思わず杖代わりにしていた剣を手放し、地面に膝をついてしまう。


……何か、何かを思い出しそうだ。忘れてはいけない何かを、思い出しそうだ。だけど同時に、思い出したくないという気持ちも芽生えている。


 頭が痛い。またあの痛みだ。何かを思い出そうとするたびに、それを邪魔するかのような痛みが襲いかかってくる。


 地面に膝をつき、頭を押さえる僕。そんな正常ではない光景を目にして、リリーは急いでしゃがみ込んで、僕の頭を撫で始めた。少し、痛みが和らいでいくような気がする。



「ごめんね、無理に思い出すのは辛いよね。ほら、一旦下に戻ろう?」

「ああ……ごめんね、リリー……」


 再び剣を杖代わりにして立ち上がると、リリーに肩を借りながら地下室へ戻る。今はまだ、何も思い出せない。

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