【四】密告
弘治三年(一五五七年)十一月
「信勝様に怪しき動きが……」
信長の元を訪れた森可成は、静かに告げる。
「分かっておる……」
信長は憮然として一言応えるのみであった。
弟を破り、弾正忠家内の信頼を勝ち得た信長であったが、その後も家中の不穏な空気は消え去る事は無かった。
信勝は降伏後も、美濃の斎藤家や尾張上四郡を支配する織田伊勢守家の織田信安と通じている等の情報が届いている。そして可成の報告によると、信長の断りなく、竜泉寺城の築城を始めているという。
信長は悩んでいた。
信勝が再び謀反を起こす様であれば、極力兵士を消耗したくない。両軍とも弾正忠家の家臣である。そして、血を分けた兄弟と再び争いたくはないという気持ちもある。
「いかがいたしたものか……」
憂鬱とした想いに耽る信長の元に小姓が現れ告げた。
「柴田勝家様が参られてございます」
信長は悟ったような顔つきとなり、一言応じた。
「通せ」
胡坐を組み、だらしなく上座に座る信長の元に、体躯優れた勝家は、背中をまるめ恐々と現れた。
「急な訪問、お許しください」
勝家程の猛将でも、信長の威圧感の前では、目を伏せ冷や汗をかかずにはいられない。
「この度は一刻も早くお伝えしたい事があり参りました」
信長は黙って勝家の言葉を聞いている。
「信勝様は再びご謀反を企ててございます。最近は若衆の津々木蔵人を重宝し、私の諌めし言葉に聞く耳はお持ち頂けません」
信長は無表情のまま答えた。
「……であるか」
「信勝様には、信長様に対抗する器量はございません。弾正忠家の更なる混乱は私も望まぬことです……」
勝家は言葉を続けようとするが、信長は遮る。
「事は理解した。その方が如き年寄が密告に来るほどの事態となれば、真偽の疑いようはない。対処を考えよう」
勝家は畳に強く額を擦り付け、叩頭した。
勝家が去ると、信長は厳しい表情を浮かべ、傍に控えていた可成と目を合わせる。
可成は神妙な面持ちで頷いた。
「致し方なしかと……」
数日後、信長は病と称して城内に籠り、一切の外出を取りやめた。
日頃から、鷹狩りや野戦演習、河での水練など領国内を散策していた信長が、突如として姿を現さなくなると、領民たちは直ぐに不安を口にし出す。
「信長様の病状はかなり悪いようだ」
人々の不安を他所に、信長の病状は一向に回復せず、当主の気配すら感じられなくなった清州城下は、陰鬱とし、そのままひと月程も経過した。
すると、こんな噂も囁かれ始める。
「信長様は既に危篤で、政務を執り行える状態にないようじゃ。最近では弾正忠家の為、信勝様に家督を譲ろうと口にしているらしい……」
そしてこの噂は、すぐに信勝の耳にも入った。
「それは誠であろうか……! 真実なれば、思いもよらぬ幸運じゃ……」
当初は怪訝に聞いていたこの噂も、ひと月経っても変わらず流れてくることに、信勝は揺れ動いた。
そして時期良く、信長からの使者が訪れる。
「噂は御存じでしょう。信長様はもはや長くありませぬ。お家の為、信勝様に弾正忠家をお譲りしたいと申しております上は、是非とも清州へお越し願いたく存じております」
信勝はさすがに躊躇する。
(強かな兄上の事じゃ。のこのこと行けば謀殺されるのではないか……)
使者の言上を聞き逡巡していると、側近の津々木蔵人は声高に言う。
「これは思いもよらぬ幸運ではございませぬか! もうかれこれひと月以上も信長の姿を見たものはいませぬ。無益な戦をせず弾正忠家が手に入るのであれば、ここは臆せず清州へ向かうべきかと!」
林美作守討ち死に後、家中で権力を得た津々木は、自身の栄転の道が出来たと息巻いた。
「たしかにそうじゃな。ここで臆して時機を失う事こそ愚かな事か……」
信勝は内心焦っていた。
先の戦に大敗した後も、愚かな兄打倒を画策し続け、周辺勢力と誼を通じる信勝に対し、これまで何かと煽り立てて来た柴田勝家、林秀貞ら重臣は明らかに態度を変え、諫言する様になった。
「大局を見なければなりません。一度失墜した勢威は一朝一夕では回復いたしませぬぞ。ここは戦上手の兄上と連携してこそ道が開けるかと……」
信勝は重臣の手の平返しに内心憤る。
(たわけた事を! あやつらが簡単に敗れたせいで、この状況に陥ったのではないか!)
自尊心の強い信勝は、林らの諫言が全く耳に入らない。
「あやつらは最早、信長に寝返りました。されば信勝様の失脚を臨んでいるのです」
ここで主人に取り入ろうと、林らへの讒言を言い並べてきた津々木蔵人は、早くも信勝第一の寵臣と成り上がっていたのである。
数日後、信勝は清州へ登城した。
信長家臣衆からは好意を以て迎えられると思っていた信勝であったが、城内の物々しい雰囲気に息を飲む。
(戦でもないのに、なんとも殺気立っておるではないか)
同行した津々木ら一行は不安を拭えず、言われるがまま城内の屋敷へと入る。
「直ぐに信長様へ取り次ぎますので、ここでお待ち下され」
小姓がそう言い残し部屋を後にするも、いくら待っても信長は現れない。
(これは謀られたか……)
額に大粒の汗を浮かべ、津々木と顔を見合わせた信勝は、ごくりと生唾を飲み込んだ。
ドンッ!
突然、大きな音を立て襖が開けれた。
そしてその奥から抜刀した甲冑武者が室内に乱入する。
「一体何事じゃ!」
咄嗟に立ち上がった津々木は、瞬時に肩口から腰へと大きく斬り割かれ、大量の血糊を噴出し仰向けに倒れ込む。周囲の側近達も忽ち斬り捨てられた。
動転した信勝は唇を震わせ、必死に喚く。
「おのれ! 図りおったな! 卑怯者め!」
絶叫しながら振り返り、逃げ去ろうと走り出した。
「御免……!」
甲冑武者は無機質に呼応すると、すばやく信勝の背中に白刃を振り下ろした。
この世の終わりの様な、絶叫と断末魔が響き渡った屋敷内であったが、事が終わると、何事もなかったかのような不気味な静けさが漂う。
暫しの後、姿を現した信長は、弟の屍を目にすると、憐れんだ表情で呟く。
「信勝も佞臣に唆され、大局を見誤ったか。優勝劣敗は世の常なるは赦してくれ……」
信長は、信勝の色を失った瞳を一瞥した後、黙祷した。
その後、謀反人の血縁者は誅殺されるのが戦国の世の常であったが、信勝の子坊丸(後の津田信澄)は助命され柴田勝家に預けられる。元服後も信長は終生この甥御を可愛がった。
信勝の死により、ついに弾正忠家の統一を果たし、家中の信頼を取り戻した信長は、永禄元年(一五五八年)同族の犬山城主・織田信清と協力し、織田伊勢守家(岩倉織田家)の当主・織田信賢を浮野の戦いにおいて撃破。そして、翌年一五五九年には、信賢の本拠地・岩倉城を陥落させた。
信秀の死後七年、信長は親族兄弟との内紛と近隣の敵対勢力を制し、尾張国の支配者としての立場を築いたのであった。
若干十八歳で父を失った若者にとって、親族・兄弟との血で血を洗う争い、直臣の裏切りや信頼する老臣・舅の死など、その苦難は想像を絶するものである。
二十六歳になり戦国武将としての風格と威厳もすっかり備わった信長であったが、その瞳の奥はどこか憂鬱な暗い影を宿しており、人を寄せつけない異様な威圧感はより一層深まった。
「人の命は儚いものだ……」
身重の吉乃の元で、ひと時の安息を得ていた信長は呟いた。
吉乃との間には一五五七年に嫡子奇妙丸が、一五五八年に次男茶筅が生れており、長女(後の徳姫)の出産も間近である。
吉乃は慈しみの表情で信長を見つめ、顔を摩った。
今日は生駒屋敷で一日過ごそうと、奇妙丸を抱き庭園に出た信長の元に、息を切らせた間者が現れ告げた。
「駿河の今川義元が二〇,〇〇〇とも三〇,〇〇〇とも知れぬ大軍を編成し、尾張に侵攻する気配にございます!」
---第二章 家中分裂 終---
---第三章 『桶狭間』に続く