【 十一 】 終焉
「各々、柵を乗り越え追撃せよ!」
信長は床几から立ち上がり、声高に叫んだ。
遂に退却を開始した武田軍に向け、織田徳川連合軍の怒涛の追撃が始まった。
それまで柵内での防戦を厳命されていた諸将は、檻から放たれた野獣の様に、凄まじい雄叫びを上げながら、柵を乗り越え前面に飛び出していく。
「ここまで手出しできずは不本意にあれど、功名を上げるは今ぞ!」
前田利家、佐々成政ら信長子飼いの母衣衆は、鉄砲から槍に持ち変えると、歯をむき出し、先陣を争い、敵を追う。
信長は、馬廻の内でも武勇絶倫の者を二〇名程選定し、黒母衣衆と赤母衣衆という各一〇名の使番組織を作っていた。彼らは名誉の軍装として、黒と赤に染め分けた母衣を背負わせる事を許され、戦場では常に無類の活躍を示す勇者たちであり、黒母衣衆筆頭が佐々成政、そして赤母衣衆の筆頭が前田利家である。
母衣衆を先陣に、数万人に及ぶ大軍団の猛攻は、大波がうねる様な勢いで武田陣営を飲み込んでいく。
精強を誇る武田軍であっても、退却に至っては脆かった。
「い、命だけは助けてくれ!」
足軽たちは土下座して許しを請うが、織田・徳川の兵は、その頭へ向けて容赦なく槍を突き刺していく。
硝煙の匂い濃く立ち込める平原には、凄まじい銃撃により無残に倒れた兵馬で埋まっているが、敗兵たちはその上に覆い被さるように、続々と屍の山を築いていった。
「背を向ければ串刺しになるのみじゃ! 皆まとまって食い止めよ!」
馬場信春は、馬上から設楽原全域に響き渡る大声を発し、兵を叱咤する。
「そうじゃ! このまま無残に殺されてたまるか!」
信春の気合に励まされた武田の軍兵らは、彼の元に集まり、反撃の気配を示す。
「この数相手に抗うか! 包み込んでしまえ!」
織田軍は武田家中でも高名な馬場を討とうと、密集した。
「寄せ集めの弱卒などに後れを取るな!」
扶桑最強の武田軍の真髄がここで発揮する。
鬼美濃・信春は、数百に減った兵を手足の様に操り、狭い窪地に敵を誘い込むと、先頭の味方が交互に入れ替わる、繰り引きの戦法で、猛追する織田軍をはじき返す。
「やはり手強いぞ! 死兵に無謀に当たるな!」
俄かに追撃の勢いの鈍った織田軍をしり目に、信春の部隊は、敗兵をまとめながら徐々に後退していく。
南方徳川軍の追撃を受ける内藤昌秀の部隊も、多勢に無勢であるにも関わらず、善戦し敵を寄せ付けない。
馬場・内藤の両将軍は、合わせて一,〇〇〇名程の手数で、数万で押し寄せる織田徳川連合軍の追撃を暫し食い止めたのである。
「おのれ! おのれ!」
逃げる勝頼は、拳を腿に打ち付け、やり場のない怒りをぶつけながら退却する。
僅か数百の軍兵に守られた彼は、家臣である三河国武節城主・菅沼定忠の助けを借り、命からがら戦場から逃げ延びたのであった。
「ここでお役御免であろう!」
信春、昌秀ら信玄子飼いの勇将たちは、このまま逃げ去るつもりはない。長坂ら佞臣の讒言により、臆病者と罵られた彼らは、戦地へ向かう時から死を決していた。
「はや、山県殿も先に冥途へ参られた! 我らも続こうではないか!」
信春と昌秀は、各々槍を扱き直し、続々と湧き出る様に襲い掛かって来る織田徳川軍に向かい、最後の雄叫びを上げると、残った主勢と共に敵中へ突入し、玉砕して果てた。
扶桑最強と謳われた武田軍は、四刻(約八時間)程の死闘の末、壊滅に近い惨敗を喫しのであった。
勝頼はこの戦で数千という死傷者を出し、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など重臣や、指揮官の多くを失う事となった。このまま織田軍の追及は甲斐・信濃の本国にまで及ぶと危惧した勝頼は、武節城から信濃の高遠城へと後退し、対上杉の為に残した、魚津城の重臣・高坂昌景と合流し、迎撃態勢を取ろうと画策した。
しかし、信長は慎重であった。
勝頼の退却を知ると、追撃もそこそこに切り上げ、兵の帰還を命じる。
「ここで功を急ぐ必要もあるまい」
信長は、未だに本国に一万以上の兵力を温存する武田軍を、ここで追い詰める危険をせずとも、この敗戦により権威の失墜した勝頼は、徐々に手足が捥がれていくであろうと判断する。
さらに、織田徳川軍の損害も只ならないモノだった。将校クラスの損失は無かったものの、足軽や下級武士には、千にも及ぶ死傷者が出ている。
「さすがは天下に名高き武田よ……」
信長は、有利な戦地へ敵を誘導でき、更には自身の予想を超える鉄砲隊による戦果を得る事が出来たにも関わらず、自軍にも大きな損害を被ったことに驚きを隠せない。
「まずは畿内の安定が優先じゃ」
彼は、東国の脅威である武田軍がこれで暫く身動きが取れないであろうと思い、改めて本願寺への圧力を強める事とする。
「後事は徳川に任せよう」
これで東海の支配権を奪回できたといえる徳川軍に後を任せ、畿内の政権運用に本腰を入れる為踵を返すのであった。
この戦により、信長による天下構想は、一層の現実味を帯びてくるのである。
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