【 六 】 第一陣
ドン、ドン、ドン、という不気味な攻太鼓の音が、狭隘な谷地にこだました。
同時に旗指物を並べた一隊が、静かに動き出す。
整然と隊列を組む部隊は、侍大将の号令に合わせ、ザッ、ザッ、ザッ、という均一な足音を震わせ、規則正しく前方へと向きを合わせると、歩みを止めた。
鶴翼に広がった武田軍の左翼を担う、山県昌景の部隊の行軍である。
赤備えの精鋭を率いる小男は、ひと際大きな馬を操り、静かに軍配を前に振る。
「死地はここぞ! 臆するな! 小癪な徳川めへ、武田の恐ろしさを思い出させてやれ!」
昌景の合図を受けた凡そ二,〇〇〇の軍勢は、オォーというけたたましい喚声を上げ、正面の徳川軍に向かい、一斉に走り出した。
同時に大地を震わす大、大、大というほら貝の音が狭隘な窪地に響き渡る。
騎馬隊は武者一人につき、七~八人の供回りで構成される。
甲冑を着込んだ武者が馬にまたがり、その前後左右を口取、槍持ちなどの足軽従者が取り囲む。戦場往来を重ねた武田騎馬隊は、一糸乱れぬ阿吽の呼吸で、数多の騎馬連隊が一塊となって駆け込んで来るのである。奇襲戦などで行われる単騎掛けとは違い、速度は駆ける程度だが、各々が役割を受け持ち、一つ一つの隊が走攻守備えた、隙の無い強靭な連携小隊である。
「来たぞ! 功を焦らず、ギリギリまで引き付けろ!」
織田徳川連合軍の右翼に構えた徳川軍は、凡そ六,〇〇〇人。五〇〇挺ほどの鉄砲を並べ、馬防柵の中から、敵を待ち構えていた。高地に土嚢を高く積み上げ、堅固な防御網を張る左翼の信長軍に比べ、先陣を受け持った徳川隊の陣地は起伏の少ない低地であり、数も少ない。山県軍はここから敵の防御網を崩そうと、一点突破の突撃を行って来たのである。
ドドドドドと地響きを鳴らし迫る、悪鬼の様な騎馬軍団が正面から突撃してくると、合図を待つ鉄砲衆は、震える手足を必死に堪える。脳裏には、三方ヶ原での惨敗の様子が蘇っていた。
「放てーーー!」
緊張を解き放つ、怒声の様な物頭の雄たけびが響き渡ると、ドン、ドン、ドン、ドンという、大地を切り裂く凄まじい轟音が辺り一帯に響き渡った。同時に、数百と言う、燃え上がる様な激しい火の塊が前方に激しく噴射され、すぐさま眼前を覆う黒煙が視界を遮る。
数百挺もの鉄砲が一斉に放たれれば、その轟音は天地を切り裂く。
落雷に勝る、この世のモノと思えぬ程のけたたましい爆音が一瞬で止むと、戦場には奇妙な静寂が広がった。
「て、敵は、どうなった……」
鉄砲を放った足軽は、キーンという耳鳴りが頭の中を覆う中、もやもやと漂う黒煙に遮られた前方を、茫然と見つめる。
すると、槍を振り上げた一人の騎馬武者が、煙の中から浮き上がるように現われ、襲い掛かってきた。
「敵が来たぞ!」
足軽たちは色めき立つが、馬を操る武者の周りには、従者が一人もおらず、一騎のみで現れ、甲冑は肩や胴が弾け飛び、鮮血に染まっている。
武者はうなり声をあげ、勢いよく馬防柵に槍を叩きつけた。
「怯むな! 柵を使い、身を守れ!」
物頭の号令と共に、後方にいた無数の味方足軽隊が柵を飛び出し、四方から槍を付け、瞬く間にその武者を突き殺した。
視界を覆う黒煙は、霧が晴れる様に徐々に薄れ、戦場の様子が次第に分かって来た。
柵の前方、数町先には、数知れぬ敵と軍馬が、折り重なるように倒れている。
人馬もろとも、手が、足が吹き飛び、地面は血に染まっている。方々から微かにうめき声も聞こえてくる。
「ひるむな! 進め! 進め!」
屍を乗り越え、新手の集団が続々と前進してきた。
獰猛な武田軍は歩みを止めない。
「敵は浮足立っておるぞ! 休まず放て!」
徳川の物頭の号令が響き渡ると、再び激しい轟音と噴煙が周囲を覆う。
そして襲い掛かる前方の敵兵達は、またしても血しぶきを上げ、弾ける様に吹き飛んだ。
数百挺にも及ぶ鉄砲の咆哮は、敵の勢いを挫くには充分であった。
精強を誇る武田軍も、たまらず退避せざるを得ない。これほどの集中砲火を受ける事は初めてであった。凄まじい轟音は軍馬を激しく動転させ、振り落とされる者も後を絶たない。そして躊躇していると、すぐさま二発目、三発目の掃射が始まる。
「死は恐れる者から迎えにくるぞ! 今こそ死働きをみせよ!」
予想外の猛射で散り散りとなった敵部隊だが、大将の号令を受けると、敵は俄かに動揺を鎮め、速やかに隊伍を整えた。
山県昌景は敵の凄まじい掃射に動揺するも、ここで怯みを見せれば殲滅されるのみであると思い、兵を叱咤しまとめ上げ、再び一点集中突破を試みる。
周囲の味方が一瞬で五体が吹き飛び死んでいく、地獄のような光景を目の当たりにし、恐怖する兵卒たちも、猛将山県昌景の一喝を受けると、途端に勇気が呼び戻される。
「小癪な信長よ! 槍で戦う勇気もないか!」
武田の諸将は、白兵戦もせず姑息な射撃で迎え撃つ織田軍に憤っていた。
「また来るぞ! 先ほどの様に慌てず、一人ずつ狙い撃て!」
徳川の鉄砲大将は叫ぶが、飛び散る味方の鮮血に染まった敵は、歯をむき出し、先ほどにも増して勢いよく目前に迫る。
「撃て撃てー!」
三度の号令を受けるも、先ほど程の咆哮は上がらない。
敵の逆襲に慌てた鉄砲衆の多くは、火薬の量を間違え、弾込めに手間取り、不発が連発した。
山県隊は後方に吹き飛ぶ味方を乗り越え、飛び越え、遂に柵に取りついた。
「一挙に引き抜け!」
激しい怒声が戦場に響き渡り、いくつかの柵は、瞬く間に引き抜かれ、破壊された。
「いいぞ! 柵を破壊したれば、そこからなだれ込むぞ!」
「焦るな! 退け! 退け!」
武田の猛攻を見た前線の徳川鉄砲部隊は、すかさず二重に張り巡らされた後方の柵の裏へと退避する。
「ここまでは予想通り! 慌てず対処せよ!」
家康の侍大将達は、敵の様子を見極め、冷静に陣頭で指揮を取った。
鉄砲隊が退避すると、柵の内側から新手の足軽隊が槍を持ち現われ、柵に取りつく敵を無数の槍で串刺しにしていく。そして敵の反撃を見るとすぐさま柵内に身を引き、狙い定めた鉄砲が火を噴くことを繰り返す。
「おのれ、これ以上留まっては全滅してしまうぞ!」
山県隊は悪鬼の如く働くが、一重の柵も僅かしか破れぬまま兵を減らし、次第に左方へと退避していった。
「いいぞ! 思いもよらぬ成果だわ!」
家康の本陣から戦況を伺っていた信長は、予想以上の戦果に喜ぶ。
数百挺の鉄砲を一斉に放てば、轟音と煙により指示系統が混乱する事は予測していたが、敵の勢いを削ぐには充分な成果であった。
一度に数百の人馬が機能を失う攻撃を受ければ、武田軍と言え、動揺しないはずがない。問題は二次射撃、三次射撃を冷静に行えるかである。
予想通り、訓練不足な配下衆の中には、不発なども起こったが、根来衆など傭兵達の撃ち損じは少ない。
「十分じゃ。たとえ乱戦になろうとも、数では勝っている」
信長が満足げに家康に語り掛けると、家康はゆっくりと相槌を打った。
するとドン、ドン、ドンと、前方から再び攻め太鼓が乱打された。
山県隊の退避を見るや、鶴翼の陣中央を担う、武田逍遥見信廉の部隊が動き出したのである。
「おのれ、まんまと術中に嵌まりおって……」
信玄の弟である信廉は、精鋭を誇る山県隊が、左程の成果も見せず敗退した事に驚きを隠せなかった。そして元々勝頼の後継に不満があった彼は、この向こう見ずな作戦に憤怒する。
しかし、戦闘放棄する訳にもいかず、半ば自暴自棄となっていた。
「四郎めに殺されるか! 皆、生き残るには敵中突破しかないぞ! 進め!」
大音声で叫び、采配を前に振った。
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