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戦国立志伝・織田信長  作者: 意匠瑞
第九章 長篠の戦い
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【 四 】 挑発

「殿、お気持ちは分かりますが、今はあまりに状況が悪くございますぞ」

筆頭家老である山県昌景は、腹に響く野太い声で勝頼を窘めた。

勝頼は腕を組み、黙って昌景の言葉を聞いている。

昌景は信玄子飼いの猛将である。武田軍の主力部隊を担い、彼が率いる軍装を赤一色に統一した「赤備え」の部隊は、それを見るだけで、周辺の諸将は震え上がったと言われる。

僅か四尺ほど(約一三〇センチメートル)の小男であるが、巨人の如き威圧感を身に纏っている。


武田陣営には、織田からの決戦の申し立ての可否について、軍議が開かれていた。

譜代衆は挙って決戦を諦めるよう諌止する。

長篠城を落とせず、後背の憂いを残したまま、倍する敵と戦をすることは無謀であるというのである。

馬場信春や内藤昌秀など、信玄を支えた宿老衆も口を揃える。

「殿、今わざわざ敵の策中に嵌まる必要はございませんぞ。ここは一度退却して信長が撤退した後、改めて攻め入れば良いのです。長篠の様な小城など、いつでも落とせます故」

しかし、勝頼側近の長坂釣閑斎は、鋭い口調で反論した。

「何を腑抜けた事を! 奥平が移り身変わり身で変心を繰り返すのは、我らを甘く見ておるからですぞ! これを落とさずして撤退など以ての外! 織田徳川など物の数ではございませぬ。信玄公御在世の時には、我らを恐れ、しっぽを巻いて逃げるばかりでございましたでしょう。今は信玄公に勝るとも及ばぬ将器であられる勝頼様が、あやつ等如きにに背を向けるなどあり得ませんぞ!」

傍らで聞いていた侍大将小宮山友晴は、その言葉に反応すると、憤怒し立ち上がる。

「この戯け者め! お主ら佞臣が勝頼様を唆し、無謀な戦に巻き込む事など、言語道断でござるぞ!」

「何だと! 今のは聞き捨てならぬ!」

思わぬ物言いに、釣閑斎も立ち上がる。

家内は山県昌景他、信玄以来の古参派と、勝頼側近の新興派とで終始意見が対立していた。

勝頼の従妹、親族衆の武田信豊は、揉める諸将を他所に、ため息交じりに言う。

「儂も山県殿らに同意じゃ。敵は三〇,〇〇〇とも四〇,〇〇〇ともいわれる大軍であろう。我らは国元に兵を残し、更にはこの長篠城への抑えに兵を割かれれば、戦場に出られるのは一二,〇〇〇人ほどじゃ。今無理に戦う必要もないのではないか」

戦を重ねた武田家重臣たちは、概ね決戦を回避するように進言する。

すると、釣閑斎の横に座る家老、跡部勝資が口を開く。

「これは信豊殿までもが思いもよらぬ事を口に申しますな! 京を我が物顔で支配する織田信長自ら参っておるのは天の与えし好機でございましょう! ここで一挙に家康・信長と打ち負かせば、天下は大いに動揺し、我ら武田家の中枢への影響力は計り知れぬ物となりますぞ!」

釣閑斎は大きくうなずき、勝資は得意げに勝頼に言い寄る。

「殿、敵は我らを恐れ、姑息にも待ち伏せしておる状況でございます。あやつら頼みの鉄砲など、軍馬の機動力の前に無力である事は度重なる合戦が証明してございましょう。亡き信玄公をも上回る器量を見せる、千載一遇の好機でございますなれば、何卒出撃の御決断を!」

内藤昌秀・馬場信春・小宮山友晴らは、勝資の言葉を遮るように口を挟む。

「そのような妄想を殿に公言するとは笑止千万! 殿! 戦機も見極められぬ愚か者の大言妄想など聞くに及びませんぞ!」

「何と申す!」

場は激しく荒れるが、勝頼は腕を組み、眉間にしわを寄せながら、無言で彼らの言い分を聞いている。

「殿の御前で無礼であるぞ! 皆の者落ち着かぬか!」

つかみ合いにも発展しかねぬ状況の中、家老筆頭である山県昌景が一喝すると、両者は鼻息荒くも、仕方なくその場に座り込む。

昌景は戦場往来を重ねた武者らしい、腹に響く低い声で、諭すように勝頼に進言する。

「信豊様の言う通り、敵は我らに倍する人数で、設楽原にて、柵や土塁を設け待ち構えてございます。かの地は起伏激しく、騎馬隊の特攻に不向きな土地でございますなれば、何もかも、こちらに不利にございます」

昌景は、勝頼の瞳をじっと見つめ、ゆっくりと語り掛ける。

「功を逸る気持ちも分かり申しますが、みすみす敵の策に乗る必要はございますまい。織田は現在徳川の要請で参ったるなれば、深追いは致さぬでしょう。ここは一度退き、時機を見定める事が肝要ですぞ」

静粛した一同は、勝頼の反応を伺う。

勝頼はやはり無言のまま考え込んでいたが、皆を見回すと、話し出す。

「お主らの言い分はどれも最もである。儂の懸念はただ一つじゃ。今信長自ら三河にまで赴いたこの時を、みすみす逃して良いものかと。確かに不利な戦にはなろうが、敵を前にして逃亡すれば、織田徳川の奴らは、武田は臆病にも敵前逃亡したと吹聴するに決まっておろう。……さすれば、亡き信玄公にも顔向けが出来ぬというもの……」

勝頼の意見に、諸将は再びどよめく。


「殿、焦らずとも好機はまた巡ってきますぞ!」

「よくぞ申してくれました! 今こそ決戦の時です!」

「敵の策略に嵌まってはいけませぬ! 退き戦は逃亡ではございませぬぞ!」


方々から声が上がる中、釣閑斎はここぞとばかりにゴホンと咳ばらいを起こし、ゆっくりと立ち上がった。

「皆、儂が何の考えもなく、敵の策に嵌まるような、無謀な戦を始めようとけし掛けているのではないぞ!」

そういうと、懐から書状を取り出した。

山県らは、釣閑斎の突然の発言に驚きつつ、耳を傾ける。

「これは、織田の宿老佐久間信盛からの祈請状じゃ。あやつは信長を見限り、我らに味方すると申してきておる」

城内は大きくどよめいた。

佐久間といえば、織田家配下衆で最大の勢力を持つ家老であり、尾張の小国主時代から信長の台頭を支えた譜代の臣である。釣閑斎は周囲の反応を満足そうに眺めながら、その書状を高々と掲げる。

それに呼応するように、跡部勝資も声を上げた。

「内応の取り決めは佐久間だけではござらぬぞ! 織田家の宿老であり、徳川親族衆でもある、水野信元からも同様の約束を取り付けておる!」

諸将は皆同時に、勝資へと首を向ける。

水野元信は、尾張知多郡東部から三河碧海郡西部を領し、その石高は一〇万石を超える織田軍団の中枢を担う武将である。

信元の異母妹には、徳川家康の母である於大の方がおり、彼は家康の伯父にあたる人物であるが、一時今川の属国となっていた松平家とは一線を画し、長年織田側に付き、尾張三河の国境に睨みを利かせてきた。

水野家の勢力基盤は大きく、半ば独立勢力の体裁で、織田家に所属しているのである。

佐久間・水野という、織田家の主力武将が寝返るとなれば、信長は圧倒的不利な立場となろう。

長坂と跡部は、この書状をいち早く勝頼に提示し、軍議の場で披露するよう内々で許可を取り付けていた。

どよめく城内かであったが、山県、内藤、馬場ら諸将は、鼻で笑うかのように冷静に意見する。

「何とも浅はかな考えよ、長閑斎。信長は表裏比興の痴れ者と誰もが知っておる。あの手この手の計略は行ってこようが、まさか佐久間の裏切りなど信じようとは、笑止千万も良いところじゃ!」

「何を申す! これが偽りの書状と申すのか! なんぞ根拠があろうか!」

長閑斎は目を怒らせ、彼らに凄む。

「愚か者め、何故大局が見えぬのじゃ。信長は我らとまともに戦う事を恐れておるから、自らに都合よい戦地へ誘導してきておるのじゃ! 敵の流言に惑わされ、破滅の道へ連れ込まれるなど、正に愚の骨頂であろうぞ!」

「儂は、根拠はと聞いておるのじゃ! 虚偽だとどうして言い切れる! 祈請文を寄越せし者が、だまし討ちをしようと言うのか!」

両者に割って入る様に、血気盛んな侍大将小宮山友晴は、ひと際大きな声で食い下がる。

「祈請状など只の紙切れだと申しているじゃ! あ奴らが比叡山、長島願正寺に行った事を思い出してみよ! 神をも恐れぬ所業の数々が示しておろう!」

「……なにを!」

釣閑斎はぐっと歯を食いしばった。

信玄の出家と共に、敬虔な臨済宗徒となった釣閑斎は、祈請状の反故など恐れ多く、考えも及ばない。神仏への誓いを明言したこの文書の効力は、戦国期であっても絶大であった。

信長も義昭との交渉時など、度々祈請状を発行し、この力を利用している。

しかし信長は神仏を軽視している訳ではないが、書状などは利用価値のある「物」として見る、冷めた宗教観を胸に宿している。

彼は勝頼を設楽原へおびき寄せる為、配下衆へ内応の手紙を多数送らせていた。

武田信玄は三ツ者・透破すっぱと呼ばれる忍者集団を擁しており、勝頼もそれを踏襲して活用していたが、信長は余りある財力にモノを言わせ、彼らを懐柔していた。

「当家の者の多くが内応したいと申している様、武田へ報告せよ。褒美はいくらでも与えよう」

武田の透破達は、信長の指示通り、織田軍内部における軋轢や叛意の燻りを指摘し、謀反を匂わせる者を続々と仲介した。

特に佐久間信盛は、信長に長年付き添う最長老的存在であるが、何かと主君へ諫言し、屡々信長の勘気を被っている。水野信元もまた、信長の台頭を支えた国主であるが、巨大化した織田政権内部において、信長本拠地の膝元である尾張三河国境を領する彼の立場は微妙なモノとなっている。

織田家重鎮として、表面上は問題なく君臨する両者であるが、政権内部では彼らの去就を危ぶむ声も皆無ではない。


佐久間、水野の離反など、飛躍しすぎた流言であると通常は思えるが、武田の実情はそうでもなかった。

武田家中には、織田や徳川になど負ける訳がないという揺るぎない自負が根付いている。

三方ヶ原の大敗後、東海での徳川の権威は大きく揺らいでおり、国境付近で遭遇した武田の足軽五名ほどが、徳川の甲冑武者二名を討ち取るという珍事も起きている。

半農半兵の足軽が、日々武芸に勤しむ甲冑武者に出くわせば、例え倍する人数であっても慌てて四散するのが普通である。しかし、武田家内の士気は隆盛の極みであり、彼らは徳川の武者がどれほどのモノかと、逆襲し討ち取ったのである。

それほど両家には絶対的な力の差があり、宿老クラスの将官が裏切ったとしても左程の驚きもないという思念が定着しているのである。

また事実、徳川の内部にも武田に心を寄せる者が多くいた。

家康配下に大岡弥四郎という代官がおり、算術優れる彼は会計租税の役として家康や嫡男の信康からも重用されていた。しかし、両者からの庇護を受ける弥四郎は次第に増長し、その悪行が家康の元に届くと、忽ち改易されてしまう。

これを恨みに思った弥四郎は、知人の小谷甚左衛門・倉知平左衛門・山田八蔵らと共謀し、岡崎城を乗っ取って、武田勝頼を手引きする謀反を企てたのである。

この事件は、事前に山田八蔵が変心して家康・信康に訴え出たため、弥四郎は捕らわれ、岡崎で土に埋められ首を通行人に竹鋸引きされる極刑で殺害されていた。

当時徳川家内では、武田へ内通する者がいつ現れてもおかしくない状況だった訳である。

佐久間・水野の他、織田徳川家武将による内応の取次は、続々と勝頼の元に届いている。

大岡の件を手引きしたのは自分であると、家康の嫡男、信康からの寝返りの書状までもが届いていた。

「かような内応の数々、とても信用置けぬが、いかがであろうか……。 信長は猿猴がごとき身の軽さと評判である故……」

勝頼は、信頼する透破の頭領である、出浦盛清の報告を受けると、懸念を示す。

「左様、虚偽と思わしき書状も数多くございますが、佐久間、水野の内応は、我らが同心である、甲賀の者も多くから伝わってございますなれば、信ぴょう性も高いかと」

勝頼は眉間に皺を寄せ考え込む。

盛清は、信玄以来から甲州忍者の頭領であり、彼の率いる透破は、僧侶や商人など様々に扮装して諸国で情報収集を行い、他国の内情や家臣の動向、保有兵力などをはじめ、城主の能力や趣味嗜好、城や砦の造りまでをも把握している。現在では二〇〇人にも及ぶ巨大隠密集団の長である。

彼らの多くは伊賀・甲賀出身の忍者衆の他、下級武士などで構成されていたが、信長は配下にもいる甲賀衆を使い、実情では彼らを懐柔している。

「すべてと言わずとも、多くは我らに傾いていると……」

勝頼は当然すべてを信じている訳ではないが、急速に勢力を拡大した織田家の団結は思いの外脆く、単独では武田に敵う術もない徳川家から内応者が出てくることは、むしろ当然と思える。

山県らの言う事は当然理解しているが、すべてが流言で済まされるとも言い難い。

緒戦は日和見を決め、武田優勢と見れば忽ち裏切る腹積もりの者もいるであろう。

勝頼は、局地戦となれば、いくら倍の相手といえ、最強の武田軍が織田徳川軍程度に後れを取るとは微塵も思っていない。


頭の中を様々な思惑が思い出され、流れては消える事を繰り返す中、取次の小姓が現れ、膝をついて言上する。

「織田軍が、使者を寄越してございます……」

勝頼は改めて険しい表情を浮かべると、低い声で言う。

「通せ……」


小姓に引きつられ現れたのは、精悍な若武者であった。彼は丁寧に礼を述べる。

「お目通りをお許し頂き、誠に感謝を申し上げます。私は織田家家臣、堀秀政と申す者」

武者は武田諸将の前にして尚、堂々とした態度で言った。

「では堀殿、我ら敵兵を目前に、織田は何をお望みであろうか」

勝頼はその様子が気に入らぬ様子で、吐き捨てる様に言う。

「然らば、両軍御大将自ら大兵を率い参ったる上は、ここは正々堂々、西方は設楽原にて、両家全軍挙っての戦を所望したいと、我が主人からの希望にござります」

秀政は低頭しつつも、鋭いまなざしで迫った。

勝頼は目を怒らせ応える。

「言うではないか、お主共は我らを不利な土地に誘導し、何やら汚き罠を張り巡らせていると、物見から聞いておるぞ」

勝頼の物言いに秀政は動じる事無く、多少大げさに返す。

「何をおっしゃいます。我が主人は、長篠城を取り囲み、背を向ける相手に戦を仕掛けるなど、卑怯な振る舞いを避けるべきと、このご提案をしにまってございますぞ」

勝頼は大笑する。

「これは面白きことを言う! おぬし等は、昨夜から柵や土塁をせっせと作っているではないか! それで正々堂々というか!」

「陣所を築く事に何の問題がございましょう。それとも、天下に名高き武田軍は、たかだか木柵や土塁を超えられぬと申すのでございましょうか」

「なんと申した!」

勝頼は思わず大声を張り上げた。

横に控える跡部勝資も声を荒げる。

「お主が如き小者の分際で、殿に大言を申すとは、無礼極まりないぞ!」

陣所は一気に殺伐とした空気に包まれる。

しかし、秀政は不動で勝頼を見据えている。

秀政は続けた。

「これは我が主人よりのご提案にございます。受けるか否かは勝頼様次第となれば、是非ともご熟考いただけましたら幸いでございます」

そう言い、退去しようと立ち上がった。

武田の諸将は色めきだった。ここまでの挑発と無礼を受け、只で返すにはいかない。

「……殿」

勝資は勝頼に目をやるが、彼は無言で片手を差し出し、制する。

「……(通せ)」

秀政は諸将の動揺を他所に、慇懃無礼に去っていった。


山県、馬場、内藤らは、険しい表情で堀の背中を見送る。

(……誠、忌々しき奴らだ……)

勝資は、大声で勝頼に言い寄った。

「殿! あのような挑発をお見過ごしで!」

勝頼は目を怒らせ言う。

「分かっておるわ! あのような侮辱許されぬ! しかしあそこであ奴を斬り捨てては、武田は交渉事も出来ぬ、痴れ者だと吹聴され兼ねぬ。この屈辱は戦で返してやるわ!」

勝頼が吐き捨てると、慌てた馬場信春は、悲痛な表情で諌止する。

「殿、屈辱と感じるのは我らも同じ。しかしながら、信長は我らを挑発する為、敢えてあのような使者を寄越したのです。戦となれば仕方ありませぬ。しかし、このまま長篠を落とせず敵陣へ向かうのはあまりに無謀。まずは後方の憂いを断ち、設楽原になど依らず、鳶巣山の砦を拠点に、山地から敵を迎え撃ちましょう。さすれば敵方は手を出せず、自ずと兵を退くことは、火を見るよりも明らかでございましょう!」

信春は必死であった。

織田の使者は明らに勝頼を挑発し、戦場へ誘き出そうとしている。

こちらの内情も把握しているのであろう、長坂や跡部などの勝頼側近を掻き立てようと、敢えて彼らに内応の書状を届けている。

「殿! 何度も言いますが、焦る必要がございません! 奴らを打ち負かす好機は今後いかようにも訪れますぞ!」

しかし、跡部勝資はさらに声を荒げる。

「なんと申すのだ! 我らは、あのような小者に大言壮語を叩かれ、侮辱されたのですぞ! これを黙っていては、信玄公にも申し訳が立たぬと思いませぬか!」


やはり議論は両者引かず、平行線のまま動かない。

じっと考え込んでいた勝頼であったが、大きく息を吸うと声高に語りだした。

「両者の言い分は共に最もである。しかし、あのような侮辱を受けて尚、決戦に及ばねば、天下の武田軍の名が廃るわ! 亡き信玄公に顔向けできぬぞ! ここで信長が出てきたことは好機の他ない! あ奴が我らを挑発したこと、必ず後悔させてやろうぞ!」

勝頼は自身を叱咤する様に叫んだ。

「殿! 逸ってはいけませぬ! あくまで決戦を望むのであれば、長篠城を落としてからで遅くはありません! 落とせぬのであれば、この城を諦め、再挙すべきでございましょう!」

信春らは、それでも何とか翻意させようと説得を試みる。

しかし勝頼は、彼らの言上に対し、遂に怒りの表情を浮かべ、声を荒げ反論した。

「何をたわけたことを! あの挑発を受けて尚、逃げろと言うのか! もう良い! そんなに織田が恐ろしいのであれば、お主達だけで逃げるがよい!」

「ぐっ……!」

信春は激しく罵られると、厳しい表情で口を噤んだ。

横に控える昌景と目が合うが、互いに目を伏せる。

(もはやこれ以上は咎められぬ……。 忌まわしき狐狸共めが……)

宿老衆は皆俯き、拳を握りしめた。

臆病者と言われ反論は出来ない。


昌景らは、勝頼が思慮浅い猪武者であるとは思っていない。内心では、この戦の優劣をある程度把握しているであろう。しかし、功を焦る内心を刺激され、敵方の挑発と、真偽確からぬ内応の取り約束があり、更には媚びを売る側近衆の諫言に唆されたのだ。

勝頼の威を借る釣閑斎他の側近衆は、何かと信玄以来の老臣達への讒言を吹き込み、勝頼から遠ざけさせていた。


「明朝、設楽原へ進軍致す! 各々準備を怠ることのないよう」

勝頼は声高に指示を送ると、陣所を去っていった。

信豊や、武田信廉・穴山信君など一族親族衆は、そのやり取りを見て、呆れたと言わんばかりの表情を浮かべるが、意見はせず、各々が持ち場へ戻っていった。



闇夜に包まれる設楽原の台地には、数知れぬ軍馬の嘶きが、不気味にこだましていた。



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『勇将の誤算:~浅井長政~』

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