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戦国立志伝・織田信長  作者: 意匠瑞
第二章 『家中分裂』
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【三】激突

弘治二年(一五五六年)八月二十四日 


長らく続いた猛暑を忘れたかのように、強い秋風が草原を駆け巡る。広がる田圃の稲穂はあっという間に黄金色へと姿を変え、大地を彩っている。


丘に吹き上がる風を真正面から受け、馬上で先陣に立つ信長は、眼下に布陣する敵の柴田勝家軍・林美作守軍を見据えていた。


「避けては通れぬ道であったのか……」

信長は寂し気な表情を浮かべ呟く。


兄打倒へと挙兵した信勝は、配下の柴田・林美作守へ信長側についた佐久間盛重の立て籠もる名塚砦攻撃を命じた。

これに対し、信長は即座に砦救援に動くと、遂に両軍は庄内川の畔で対峙したのである。


信長は弟との決戦は極力避けたかったが、この期に及んで後戻りも出来ない。

「四方を敵に囲まれておるのに、内乱している場合ではなかろう。何故分からぬのだ」

そう言い、拳を握りしめる。


信長は、この挙兵の裏には林らの佞臣の他、母の存在もあると理解している。

母土田御前は、素行悪い信長を嫌い、信勝と共に末森上で暮らしていた。

信秀死後は、露骨にこう嘯くのである。

「父上の器を引き継いだのは信勝じゃ。 信長では尾張を統治できぬ」

幼少からそう刷り込まれてきた信勝は、林らに担がれいよいよ決心したのである。

「人望無い兄上では弾正忠家は隣国に飲み込まれよう。 私が君主となり父の意思を引き継ごうではないか!」



突風が吹き荒れ、旗指物がバサバサと音を立てる。

信長は自らに味方した兵士を見渡した。

佐久間盛重・森可成・佐久間信盛・前田利家・丹羽長秀・織田信房ら、およそ七〇〇人が後方に従っているが、前方を見れば、柴田勝家隊一,〇〇〇人、林美作守隊七〇〇人が騒然と待ち構えている。

弾正忠家の半数以上が、折からの奇行に加え、道三という強力な後ろ盾を失った信長を見限った訳である。


信長の横に控える家老佐久間盛重は、信長の心境を察し冷静に告げた。

「殿、裏切り者に対し味方の士気は旺盛、良き旗色でございます。敵は数を頼りに気を緩めております。攻めかかるが先か、敵の動きを待ち迎え撃つかよくよく見極め下され」


「……分かっておる」

信長は敵軍を見据えながら、淡々と応えた。


佐久間盛重は信勝付きの家老であったが、相続から一貫して信長を支持した数少ない重臣である。

弾正忠家の家老衆は現在、信長後見人である林貞秀が信勝を支持し、信勝後見人の盛重が信長を支持すると言う、奇妙な構図が出来上がっていた。


信長は黙って敵陣を見つめ時機を待った。

信長の部隊は少数だが、信長自らが日々陣頭に立ち演習を重ねた精鋭部隊である。

否が応にも士気は高く、血気に逸る若武者たちは武者震いが止まらず、目を見開き、息を上げ今にも飛び出さんばかりで合戦開始の合図を待っている。

信長は、味方の士気の高さに励まされ、倍する敵を前にしても負ける気がしない。

「信勝には、今家中で争っている場合ではないと分からせねばならぬ!」



日も高く上り迎えた正午頃、信長はおもむろに自軍の前に馬を乗りだし、左右に駆け巡りながら叫びだした。

「皆の者! 眼下に控える奴等は恩を忘れし裏切り者どもだ! 容赦はいらぬ! 目にもの見せてやれ!」

信長は叫びながら腰の刀を抜くと高々と掲げ、勢いよく真っ直ぐにを前に振り下ろした。


「死を恐れるは後世の恥だ! 皆死地を見出せ!」


叫びながら軍勢を先導するように一直線に敵軍へと突進した。

同時に 大、大、大 と法螺貝が鳴り響き、後に続く軍勢も信長に遅れまいと黒い塊となって一斉に駆け出す。

「一番槍は儂じゃー!」

信長と共に先陣を切る騎馬衆は、佐々孫一・前田犬千代・丹羽五郎左など信長子飼いの若武者衆である。彼らは日ごろから信長に付き添い、鍛錬を重ねた直臣達であった。


迎え撃つ柴田勝家も呼応して叫んだ。

「やはり評判通りのうつけ殿か! この人数差で正面から突撃して来たぞ! 皆の者、包み込んで一挙に討ち取ってやれ!」

柴田の槍隊は全面に槍先を揃え迎え撃った。


槍を恐れず、凄まじい勢いで正面衝突した信長軍は、波が岩礁に激しくぶつかる様に交錯し、瞬く間に彼我入り混じる白兵戦へと展開された。

「怯むな! 複数で囲って一人ずつ討ち捨てよ!」

信長勢の鬼気迫る突撃に怯み、にわかに混乱しかけた柴田軍であったが、戦上手の勝家は冷静に兵をまとめ、体勢を整える。


「真正面から来るとは! 愚か者へ横やりを入れよ!」

左右に陣取っていた美作守隊も、信長の突入を見るや、腹背から攻めかかる。


先ほどまで静けさを保っていた平原は瞬く間に阿鼻叫喚の戦場と化した。


腕や手指が吹き飛び、血潮舞い散る混乱の中、猛将柴田勝家は長大な馬上槍を振り回し、容赦なく敵武者の胸へ、腹へと穂先を突き入れる。返り血を浴び暴れまわるこの荒武者に、信長勢は近寄れない。


具足を着込んだ侍を日本刀で切り裂くこと難しい。鎧の継ぎ目、股や脇を目掛け、刀を突きささなければ敵を仕留める事は出来ない。戦場で活躍する者の多くは、重量のある槍やこん棒で敵を叩き潰す事が出来る大力の者であった。

信長の小姓・犬千代は元服し前田又左衛門利家と名乗り、六尺(約一八二センチメートル)という当時では並々ならぬ大柄なその体躯を駆使し荒れ狂う。

「あの大男を射抜け!」

自慢の槍を振り回し雑兵を蹴散らす利家に対し、敵方の武将宮井勘兵衛は狙いを定め、矢を放った。

ヒュンという空気を斬り割く音と共に、利家は突然顔面に強打を受けたような衝撃を受け、よろめき膝を付く。

「おのれ……、何事か……!」

利家は立膝を突き、倒れまいと踏ん張りながら顔を手で探ると、右眼下の頬に矢が突き刺さっていた。

「又左! 一度引き、手当なされよ!」

傍にいた丹羽五郎左が、駆け付け、よろめく利家の肩を抱く。

しかし利家は五郎左の腕を振り払い大喝する。

「五郎左殿! 俺はまだ一つも首級を挙げてないぞ!」

そう言うと勢いよく立ち上がり、顔に矢が刺さったまま敵中へ突進して行った。


「逸りは死を招くぞ!」


五郎左は必死に制止する。

しかし利家は矢を放った宮井を見つけると、全速力で駆け寄り、槍を力いっぱいに投げつけた。

油断していた所を不意に逆襲された宮井は対抗する間も与えられず、渾身の大槍が甲冑ごと胸を貫き、一撃で即死した。

「どうだ見たか!」

利家はすかさず宮井の首を刈り取り、頭上高く掲げる。


後方で利家の雄姿を見た信長は大音声で味方に告げた。

「犬千代はまだかような小倅ながら大功を立ておったぞ!」

織田勢は若武者の大手柄に奮い立ち、倍する敵と互角に渡り合う奮闘を見せた。


しかし数刻程の乱戦が続くと、人数で劣る信長軍は次第に押され徐々に討ち取られていく。

気が付けば隊は散り散りになり、信長の近辺を守る側近衆は僅かになっていた。

「散るな! 孤立すればたちまち取り囲まれようぞ!」

信長は歯を食いしばり、兵が離散しない様懸命に防戦する。


すると一人の大男が声高に叫んだ。

「これはうつけ殿! 深入りし過ぎであろう! お覚悟召されよ!」

見計らったかの様に、一人の敵武者が槍を振り上げ信長目掛け凄まじい勢いで突進してくる。

大男は、弾正忠家でも武辺者として高名な大原という侍であった。

「小癪な」

信長は咄嗟に迎え撃とうと槍を持ち直す。

しかし、左右を守る直臣の森可成・織田信房が前に立ち憚った。

「殿! お下がりください!」


大原は構う事無く、突進しながら大槍を振り回し左右に薙ぎ払う。

すると野太い槍の柄が信房の脇腹を強かに打ち付けた。

鎧越しとはいえ丸太をぶつけられた様な強烈な一撃を胴に受けた信房は悶絶し、後方へ吹き飛ぶように倒れ込む。大原は追い打ちをかけ、信房の頭上高く槍を振り上げた。

横に構える可成は、信房を助けようと咄嗟に後方から大原の胴体へめがけ猛烈な体当たりを仕掛ける。小柄だが膂力優れる可成に突進された大原は、たまらず突き倒され、馬乗りに組み敷かれた。大原は馬乗りにされながらも、腰にある脇差を引き抜き応戦しようと抵抗する。しかし胴を抑え込まれ身動きが取れない。もがく大原の首を腕で押さえつけた可成は、鎧通しで脇腹を深く突き刺さした。

大原は「ぐふっ」と口から血糊を吐き出す。

しかしなお可成の顔を手で掴みとろうと必死の抵抗を試みるが、可成の怪力に押さえつけられ身動き取れず、遂に首を取られた。


「大原を討ち取ったぞ!」


可成は首を高く掲げ叫んだ。


家中でも剛の者として名の通った大原の討ち死にを聞き、敵が一瞬静まる。

信長は敵の一瞬の動揺を見逃さなかった。

瞬時にすぅっと大きく息を吸い込み、刀を振り上げ戦場全体に響き渡るほどの大音声で叫ぶ。


「この戦場にいるどの者も顔を覚えておるぞ! この恩知らずの愚か者共が! 俺に盾突いたことをあの世で後悔するといい!」


鍛え上げられた信長の怒声は、周辺の木々を揺らし、台地を震わせた。


信長の怒声に、軍勢は敵味方分けず時が止まったかのように固まる。一瞬辺りは真空の如き静寂に包まれた。


敵兵の中には、信長から顔を背ける者が多くいた。


信長は日頃から領内をぶらつきまわり、領民とも親しく接しており、足軽たちの中にはその時直接信長に接し、ものを恵んでもらったりするなど世話になったものも多かったのである。

鬼神の様な信長の迫力に圧倒され、先方の雑兵は後ろめたさと恐怖から、後ずさり、周囲は引きずられる様に後退を始めた。

一人が走り出すと、隣の者も釣られるように走り出し、敵勢は何かの合図を受けたかの様に一斉に散らばり始めた。


「逃げるか! 卑怯者へは容赦はせぬぞ!」


信長は好機とばかりに槍を握り絞めると、逃げる敵の背中めがけ槍を投げつけ、くし刺しにする。

散り散りになっていた味方の士卒も信長の周囲に集結し、形勢逆転した信長勢は雪崩を打って逃げ出す敵勢の後背を追い回しはじめた。


「はやく逃げよ! 信長様は儂を見てお怒りじゃ! 只では済まされぬわ!」


雑兵は口々に喚く。

柴田軍は逃げ出そうとする先鋒と、押しとどめようとする後続とで揉み合いとなり、大混乱する。


「ええい! 混乱したまま留まるな! 一度引いて体制を整えよ!」


前方の混乱を見た柴田勝家は即座に全軍の後退を命じた。

どんな勇将も一度背を向けると臆病者のように怯え、その恐怖は伝染し一挙に軍全体の士気を奪うものである。


「臆病風に吹かれ出したぞ! 皆殺しじゃ!」


ここぞとばかりに意気込み、逃げる敵を追い込み、斬りつけていく信長軍。戦況は一気に逆転した。

逃げ惑い命乞いする者へも容赦なく槍を突き刺し、馬で踏みつけていく。瞬く間に柴田軍の先鋒は壊滅状態に陥った。

「逃げるな卑怯者! 戦う意思のある者はおらぬのか!」

信長側の侍大将・佐々孫介は荒れ狂い敵の首を撥ね上げていく。


歯を食いしばり、数町程も敵を猛追する信長であったが、人末の不安が過った。

(妙だな。柴田にしては退却の命令があまりに早すぎる……)


信長は周囲を見まわすと、冷静に戦況を確認した。

そして右方の林軍が動揺するのを見ると、孫助に告げる。

「孫介! 追撃は任せる! そのまま追ってよいが、深追いはするな! 俺は混乱する林隊を同時に切崩す!」

「かしこまって候!」

 信長は追撃を佐々孫介の分隊に命じ、自らは主力部隊を横方の林隊へ突撃させることとした。

「動揺する林を崩せば我らの勝利だ!」

信長は、腹心の馬廻り衆を手足の様に動かし、機敏に転回させる。


「柴田が逃げるぞ! 我らはどうする!」

後退する柴田を見て林軍は動揺し浮足立っていた。


そこへ信長軍は突如方向転換して突撃してきたのである。

「怯むな! 兵力ではこちらが有利! 逃げずに迎え撃て!」

必死に叫ぶ美作守であったが、林隊は隊伍を乱し、逃げる兵と押し留める兵とで同士討ちが始まる大混乱に陥ってしまった。


「どけ! 邪魔じゃ! 逃げれぬではないか!」

「邪魔なのはお主らじゃ! 逃げるな! 振り返って応戦せよ!」 


しかし元々士気の低かった雑兵はわれ先に逃げ去り、侍衆を置き去りに方々へと散ってしまった。


林美作守は必死に呼び止めるが、気付けば少数の側近と共に敵中に孤立している。

「おのれ、うつけ如きにこのような苦戦をするとは」

美作守は必死に円陣を組み防戦する。


そこへ後方から聞き覚えのある声がした。

「これは小憎き美作守め! この場で打ち捨ててやろう!」

馬に乗った信長本人が鬼の形相で駆け寄り斬り付けてきた。


美作守の周りを守る兵は信長を見ると逃げ出し、驚いた馬は立ち上がり美作守を振り落した。

馬から投げ出され、腰をしたたかに打ち付けた美作守は、転げながら手元に落ちた太刀を拾おうとすると、脳天から痛烈な槍の一撃を受ける。

兜越しに信長の怒りの一撃を受けた美作守は、勢いよく地面に額を打ち倒れこむ。

しかし戦場往来を重ねた武将である。すぐに歯を食いしばり、顔を起こすと「こしゃくな……」と言いながら、ふらつく足を必死に抑え立ち上がった。そして震える手を腰元の脇差しに掛ける。

信長は馬上から美作守の無様な様子を冷たい視線で見据えていた。


「潔く地獄に落ちるがよい」


冷淡に呟いた信長は、無防備な首筋めがけ太刀を払った。

ヒュンという空を切る音が耳元から通り過ぎる。

同時に美作守は立ったまま大きな血しぶきをあげ絶命した。


「佞臣めが!」

信長は吐き捨て、馬の踵を返した。

大将を失った林軍は、そのまま壊滅した。



一方、柴田軍を追撃した勇将佐々孫介の一隊は、逃げる敵の背後から槍を振り回し追いまわっていた。

「このまま勝家殿の首も頂戴いたそう!」

そう叫んだと同時に、横方から叫び声が上がった。

「伏兵じゃ!」

孫介は驚き右方へ振り返る。待ち構えていた敵の新手が腹背から突撃してきていた。

「謀られしか!」

茂み隠れていた柴田の伏兵は、孫介隊が深入りするのを待ち構えていたのである。前方を逃げていた敵兵も一斉にくるりと振り返り、正面から突きかかった。

孫介は勝家の計略によりいつの間にか四方を敵に囲まれていた。

「怯むな! まとまり円陣を組め!」

孫介は動揺する味方の士卒を鼓舞しつつ、なお槍を振り回し決死の応戦をする。


その時、不意にわき腹に激痛が走った。

「ぐっ!」

孫介は驚き腹に手をあてる。見れば背中から腹にかけ寄せ手の槍が胴を貫いていた。

「こしゃくな!」

孫介は腹から飛び出す槍の刃先を握り、敵兵目掛け刀を振り下ろす。

しかし刃はむなしく空を割き、周囲に集まった新手の槍を四方から受けると、抵抗の間もなく首を取られた。


「佐々孫介を討ち取ったぞ!」


柴田軍は歓声を上げる。

勝家は後方からそれを確認していたが、その表情は浮かなかった。


「まんまと乗せられたな……」


伏兵で取り囲み、一挙に信長の首を挙げるつもりであったが、彼は誘いに乗らないばかりか、動揺する林隊を瞬く間に壊滅させてしまった。勝家は自らの計略により、主力部隊を小隊殲滅に消費する羽目になったのである。


「信長様を見くびっていた様だ。これほど勢いに乗る相手に再度正面からぶつかる事はできぬ……」


勝家は信長の機を見る敏な才能と見事な采配ぶりに感服し、これ以上の抗戦は無用と判断し、末森城に退却した。


数刻に及ぶ激戦は幕を落され、勢いに乗った信長は、そのまま末森城を包囲した。

敵方は主力部隊を失い戦意は喪失しており、抵抗する気配もない。


周囲は暗闇に包まれ、冷たい空気が周囲を覆っている。

松明に照らされた陣中で、信長は険しい表情を浮かべ今後の方針について思い悩んでいた。


「このまま信勝様を生かしては、遺恨を残すばかりかと……」


側近たちは殲滅仕方なしと口々に言う。


信長は表情を崩さず静かに聞いていた。

信勝という求心力を奪えば、弾上忠家の兵士はすべて手中に入る。更に弟とは言え、謀反人を厳格に罰する事で家臣団の規律を引き締める事も出来よう。

しかし信長は肉親に手を掛ける事に躊躇があった。


(信勝は佞臣共にそそのかされただけではないか……)


思い悩み続けていると、陣中に使番が現れ告げた。

「城より使者がおいでです」

厳しい顔のまま使者を迎えた信長であったが、使者の顔を見ると驚きの表情へと一変した。

「母者……」

目の前に現れたのは信長の生母・土田御前であった。


幼少期から信長を嫌う彼女は信秀の死以降、一層露骨に信長を避け続けていた。

彼らが顔を合わせるの実に数年ぶりである。


言葉に詰まる信長を前に、土田御前は地面に顔をつき伏せ、泣き崩れた。

「許しておくれ! 信勝は何も悪くないのじゃ! 美作守があの子をそそのかしたばかりなのじゃ! 命だけは助けてくれぬか……」


信長は泣き崩れる母を憐れんだ瞳で見下ろす。

母は信勝に家督を継がせようと画策していた張本人であると知っている。

しかし哀れなその姿を見ると、何とも言えない辛い気持ちが腹から込み上げてくる。表情には出さないが、母からの情愛を受けたいという幼少期の気持ちが蘇ってくるようであった。


「母上、顔を上げて下さい。信勝は私の弟。殺す気など毛頭ございませぬ。信勝が翻意してくれるのならば、他意はございません」

「それは誠か!」

土田御前は咄嗟に涙で濡れた顔を上げる。

「では、我らを許してくれるのじゃな!」

歓喜し、念を押す母に対し信長は黙って頷いた。


陣中の士卒は静まり、厳しい表情で親子のやり取りを見守っている。


「では直ぐに城を開け渡す様伝えて参るぞ!」

土田御前は徐に立ち上がると、踵を返した。

そしてゆっくりと歩きだしたが、何か考える様に立ち止まると、顔だけ信長の方へ向けた。

「今まで誠に悪かったのう……」

目を伏せながらそう呟いた。


信長は表情を変えず、無言のまま母の背中を見送った。



土田御前が去った後、近習達は信長に話しかけられなかった。

表情こそ普段通りだが、内心の動揺は隠せなかった。

自分を殺そうとした母に対しても、その慕情が消せない自身の感情に混乱している様であった。


「身内どうして兵力を消耗しあっても仕方がなかろう!」


信長は逸る様に床几から立ち上がると、大きな独り言を言い、戦後処理の指示を始めた。



土田御前の帰還後間もなく、信勝は兵を解散させ末森城を明け渡した。

そして謝罪の為、信勝他、林通勝・柴田勝家が信長の元を訪れる。

「この度は誠言い訳も出来ませぬ。ご助命の上は、命を懸け信長様に忠誠をお誓い申し致します……」

柴田は頭を丸め、林は目を泳がせながら挙動不審な身振りで両者深々と叩頭した。


信勝は二人の様子を意に介せず、じっと信長の目を見つめながら話し出す。

「兄上の武勇を見くびっておりました。この上は身命投げ打ってお支え致します……」

そういうと深々と頭を下げた。

信長は慈しみの表情を浮かべ応じる。

「信勝よ。尾張国内の情勢も儘ならない今、これからは兄弟力を合わせ、弾正忠家を盛り立てよう」


信勝は無言で頭を下げ続けた。


彼は内心で受け入れがたい屈辱を感じている。

兄とは違い礼儀作法を重んじ、武将としての心得を身に付け、家臣の信頼を一身に受けた『エリート』という自負が脆くも崩れ去ったのである。

幼いころから兄と比較され、優越感を持っていた。母も自分こそが弾正忠家の後継者に相応しいと嘯く。兄のような粗忽者には何もかも劣らないという自信が崩壊したのである。

過保護に生きた信勝にとって、到底受け入れられない現実であった。



信長に声を掛けられ、畳に額を押し付ける信勝の目の奥には、憎しみの炎が揺らいでいた。



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