【 五 】 伊勢長島討伐
一五七三年(天正元年)一〇月二十五日
「伏兵じゃ! そこら中に隠れておるぞ!」
突如の敵襲に織田軍は色めき立った。
大雨でぬかるんだ泥道を縦列に歩んでいた軍兵の周囲から、突如大人数の喚声が響き渡り、容赦なく弓矢の雨が降り注がれた。
「どこから湧いて出てきおった! 隊列を組んで応戦せよ!」
物頭は叫ぶが、息をつく間もなく、木々の間から雨の様な弓矢が降り注ぎ、木陰から続々と現れる抜刀した敵兵が姿を現す。
立ち並ぶ大木に遮られた薄暗い小路は、人馬が揉み合い、瞬く間に白兵戦へと持ち込まれると、敵味方の見分けも付かない。
ヒュンヒュンという、空気を斬り割く無機質な音が耳元をかすめていき、近くの侍が次々に倒れていく。
「上様を守れ!」
側近達は信長の元へ駆け寄り、木盾で矢玉を防ぎ防戦するが、激しい豪雨により視界を遮られ、声をかき消され、伝令は伝わらず大混乱する。
「農民共が小癪な!」
侍たちは刀を取り、必死に斬りあうが、敵は尚木々の隙間から、蟻が巣から湧き出る様に留まることなく現れる。
敵の中には弓の達者も複数含まれている様で、味方の指揮官から順に射止められていく。
「ここでは分が悪い! 速やかに後退せよ!」
信長は大混乱の中、地に響き渡る怒声を上げ味方を叱咤すると、屈強な馬廻り衆が周囲を取り囲み、退却を始める。
「信長はあそこじゃ! 討ち取れ!」
信長を見つけた敵兵は、ここぞとばかりに群がり、立ちはだかる。
幾人とも知れぬ敵は、屈強な織田軍武将の白刃に自ら飛び込み、斬られても尚、しがみ付き、人を襲う餓鬼の如く複数人で押し倒し、槍を突きさし、殺害していく。
猛烈な敵の勢いに押し流された織田軍は、収拾不能な大混乱を来し、散り散りに討ち取られていった。
「小癪な! 一揆どもめが!」
信長は怒りの声を上げ、自ら槍を振りかざし、眼前に立ちはだかった敵をくし刺しにすると、無理やり退路を開き、少数の共と強行突破する。
「仏敵はあそこじゃ! 生きて帰すな!」
しかし敵は尚勢いを失わず、群がる蟻の如く追走する。
「ここは食い止めます! お早くお逃げを!」
近習達は信長を逃がす為、身を挺して立ち塞がり、忽ち敵の大軍に覆われていく。
瓦解した織田軍は、壊滅の危機に瀕していた。
―――
伊勢長島に盤踞する一向衆は、遡る元亀元年(一五七〇年)九月に決起した石山本願寺と呼応し、信長に敵対した。
長島(現三重県桑名市)はもともと「七島」と呼ばれ、尾張国と伊勢国の国境にある木曽川、揖斐川、長良川の河口付近の輪中地帯を指す。幾筋にも枝分かれした木曽川の流れによって陸地から隔絶された地域で、伊勢国桑名郡にあった。
信長の本拠地・尾張の国境に位置するが、この付近には願証寺をはじめ数十の寺院・道場が存在し、本願寺門徒が大きな勢力を持っていた。
伊勢尾張美濃の農民漁民一〇万人の信徒が勢力下で、勢力は一〇万石規模という強大な自治勢力であった。
自らの支配下にも、多くの門徒を抱えるこの勢力に対し、尾張・美濃・近江へと勢力を拡大した信長でも中々に手出しが出来なかったが、本願寺衆との対立が顕在化すると、彼らはいよいよ、信長に対し牙を剥いたのである。
瞬く間に数万人に膨れ上がった一向衆門徒達は、信長の弟信興の守る尾張小木江城を急襲した。
当時、志賀の陣により比叡山に籠城していた浅井朝倉軍によって釘付けにされていた信長は、これを救援できず、信興は奮戦するも寡兵及ばず討ち死にした。
実弟を見殺しにせざるを得なかった信長は、一五七一年(元亀二年)二月、志賀の陣が終結すると、恨み深いこの長島一向一揆勢を排除しようと討伐軍を編成した。
しかし、予想外の逆襲を受け、逆に氏家卜全など重臣が討たれる大敗を喫していた。
各所で敵を抱え、三年もの間、苦虫を嚙み潰す思いを耐えて来た信長は、ようやく畿内の支配も安定してきた中、鬱憤を晴らすのは今と、再び討伐を決意したのであった。
「ようやく憎き売僧共を討伐する時が来た!」
肉親を殺された信長の憤怒は殊の外激しい。
更に、民衆を誑かし、私腹を肥やす本性は、比叡の門徒と同様であると、憎悪を募らせている。
無論、尾張・伊勢の国境に楔を打ち込むような位置に盤踞する彼らを討伐する事は、今後の政権運用においても重要であり、全国各地に勢力を及ぼす本願寺衆の支配力を各個割くという意味もある。
天下統一事業へと舵を取った織田政権にとって、長島の一向衆討伐は、避けて通れぬ道であった。
九月二十四日
信長は尾張美濃伊勢の軍勢凡そ三〇,〇〇〇人を率い、行軍を開始した。
二十六日には一揆勢の篭る西別所城を佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆らが攻め立て、陥落させる。
更に別動隊の柴田勝家・滝川一益らは坂井城を攻略し、続けて近藤城を、金掘り衆を使って攻め、立ち退かせた。
一〇月八日
信長は本陣を東別所に移すと、萱生城・伊坂城の春日部氏、赤堀城の赤堀氏、桑部南城の大儀須氏、千種城の千種氏、長深城の富永氏などの敵勢力は続々と降服し、信長に人質を送って恭順の意を示す。
怒涛の快進撃を続ける織田軍であったが、信長の気分は優れない。
「大湊の船はどうなっておる!」
平伏する伊勢の国衆・北畠具房は怯える様子で答える。
「会合衆らが協力を渋っており、中々に上手く進んでおりませぬ……」
「なんだと! あやつらには再三依頼をしておろうが! 茶筅はどうなのじゃ!」
信長の次男信雄は北畠家に養子入りしており、具豊と名乗っていたが、低頭して申し立てる。
「父上、申し訳ございませぬ。傲慢な会合衆らは、いくら我らが申し付けようとも、のらりくらりと事をかわし、一向に船を用意する気配がございませぬ……」
「おのれ! まったく舐めた真似を! 覚えておれよ!」
信長は憤怒を堪えられぬ様子のまま、吐き捨てる様に言い放った。
前回の長島攻撃の際、伊勢湾の制海権を敵に譲ってしまった為、海路より雑賀衆の物資や兵の供給を許したという反省点があった。信長は、出陣の前に次男具豊に命じて伊勢大湊での船の調達も事前に命じていたのである。
しかし、現地の大湊会合衆の協力が思う様に得られず、船の調達に手間取ってしまう。
本願寺に心を寄せる会合衆たちは、織田軍のこれ以上の膨張を危惧している。
信長は、自身を軽視する傲慢な商人衆への憎悪を深めたが、無理な強攻を行って以前の様な敗退を喫する訳にはいかず、攻撃を諦めざるを得なかった。
「致し方なし、事を急いでは足元を掬われよう……」
信長は不満を抱えつつも、討伐を諦め、退却を決意する。
そして北伊勢の諸城の中で最後まで抵抗する中島将監の白山城を佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆らに攻めさせて落城させると、一〇月二十五日には矢田城に滝川一益を入れ、美濃へと帰陣を開始したのであった。
敵の反攻の気配すらないまま、半ば気を削がれた織田軍は、豪雨の中細い林道を縦列になって退却する途中、突如として大軍の伏兵に待ち伏せされ、奇襲を受けたのである。
―――
「敵は数知れぬ大軍にございます! お早くご退却を!」
退路を塞がれた信長は、自ら抜刀し敵に斬り込む勢いを見せていたが、馬廻り衆らが必死に押し留めていた。
「たわけ! ここで見苦しくも背中を斬られては武士の面目を失おうぞ!」
信長は顔を紅潮させ、刀を振り上げ大喝する。
「どうか冷静に! ここで敵を迎えては、たちまち囲まれてしまいます!」
近習達は必死に、主人が敵中に飛び込まない様諫め、身体を張って抑え込む。
すると前方から快活な叫び声が響いた。
「上様! ここは我らにお任せください!」
声の主は、気合と共に信長の前路を塞ぐ一揆衆数名を大槍でなぎ倒すと、信長の前面に躍り出た。
その雄姿を見た信長は、少し笑みをみせ、応答した。
「よかろう! ここはお主の武勇に任せよう!」
そう言うと、素早い身振りで踵を返し、再び全速力で馬を走らせ、退却を開始した。
「ありがたき幸せ!」
若武者は槍を扱き直し、味方を集めると敵の大軍の中へ突撃していく。そして縦横無尽に斬りまわった。
信長の身代わりとなって殿を引き受けたのは、林通政であった。
彼は、織田家の宿老林秀貞の息子であり、行政官僚であった父と違い、「槍林」の異名を取る武勇優れる若武者であった。
「父者とは違い、将来が楽しみな若将だわ」
若年ながら、姉川の合戦他、数々の戦で活躍してきた通政に、信長も日頃目をかけていた。
通政の凄まじい槍さばきは、続々と現れる一揆勢の気勢を挫く。
背に幾本の矢を受けてもモノともせず、縦横無尽に斬り周り、加勢に向かった毛屋猪之助らと共に敵を何度もはじき返した。
殿軍の捨て身の活躍により、織田軍は退路を見出し、信長は何とか窮地を脱する事が出来たのであった。
暫しの間敵を食い止めた通政は、味方に向かい叫ぶ。
「上様は無事お逃げか! 我らも後に続こう!」
無事殿の役目を果たした通政らは、数十騎に減った仲間を集め、退却を開始する。
「各々生きて帰ろうぞ!」
そう味方を鼓舞するも、蟻の如く次から次へと湧いて出てくる一揆勢の猛攻は休むことなく続く。
「小癪な奴らめ……!」
退路を見出そうと敵を振り払う通政であったが、揉み合う彼の胴を、鋭い穂先が貫いた。
「ぐっ!」
通政は怯まず槍を扱き敵と渡り合うが、林勢の周囲は既に多勢に取り込まれ、退路を塞がれていた。
「おのれ、雑兵が……!」
通政は突き刺さった敵の槍先を握りしめ、再び果敢に反撃するが、群がる敵に押さえつけられ、遂に首を取られた。
「織田の若将を討ち取ったぞ!」
大将を討たれた林軍は、勇戦空しく、壊滅した。
―――
着の身着のまま、夜半に大垣城へとたどり着いた信長の元に、注進の使者が現われ、報告する。
「殿を務めた林様は、凄まじい働きを見せ、討ち死にされたとの事にございます」
泥に顔を汚した信長は、無表情のまま、その言上をただ聞き流すのみであった。
一向衆との戦いは、泥沼化の様相を深めていくばかりであった。
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