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戦国立志伝・織田信長  作者: 意匠瑞
第八章『天下』 
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【 四 】 杉谷善住坊


「杉谷善住坊を捕らえました」


信長は使者の言上を聞くと、冷淡な表情のまま、静かに頷いた。



元亀元年(一五七〇年)五月、越前朝倉氏攻めの途中で浅井長政に挟撃され、一時京都に逃れていた信長は、混乱する事態収拾の為、一揆により封鎖されている中、岐阜への帰城を強行した。

この時、伊勢方面へ抜けるため近江国の千草越え(千種街道)を通過していた信長は、突如二発の銃撃を受ける。

六角義賢に雇われた杉谷善住坊は、信長の退路を予測し、十二、三間(二十数メートル)の距離から狙撃したのである。

しかし、強運に守られた信長は、かすり傷を負う程度で無事岐阜へ帰還したのであった。


暗殺に失敗した善住坊は、その後近江国の堀川村に潜伏していたが、降将・磯野員昌により発見され、捕らえられた。


激しい詰問をうけた善住坊は、腫れあがった顔面を鮮血に染め、後ろ手に縛られ信長の前に突き出される。受け身も取れず、激しく地面に叩きつけられた彼は、倒れたまま身動きもしない。

信長は彼の前に仁王立ちすると、激しい口調で罵った。

「さても忌々しき奴じゃ! 儂を仕物に掛けようなど笑止千万! 貴様如きに殺せるなどと思ったか!」 

信長の怒声に対しても、善住坊は身動きせず地面に突っ伏している。

「覚悟は出来ておる様だな! よかろう! お主は鋸引きにしてやろう!」

憤怒の表情でそう言い捨てると、奥へと引き下がって行った。


善住坊は両腕を兵士に抱えられ、項垂れながら連行されていった。


鋸引きとは、縛り付けた罪人の首に浅く傷をつけ、その血をつけた鋸を近くに置いて、被害者親族や通行人に挽かせ、ゆっくりと死なせる刑罰である。

あまりに残忍な手法により、江戸期には事実上行われる事は無くなったが、戦国期にはしばしば行われた極刑である。

「あの世で後悔するがよい!」

信長の憎悪は消え去る事無く、引見後も終始機嫌が悪かった。



戦国期では、処刑・拷問はさほど珍しい事では無かった。

国主は、ありとあらゆる方法で敵国から身を守らねばならない。

暗殺、裏切りなど死と隣り合わせの日常を過ごすうち、それらに対する抑止力として、その残忍さは極まっていったのである。

そのような凄惨な時代において、戦国大名の中には、処刑や拷問を楽しむ者もいたが、信長は理由なく嗜好的に残酷な刑を与える様な事はせず、善政を敷き、領内の民心への配慮を怠らなかった。

しかしその一方で、敵対者や裏切り者などへの仕置きは、苛烈さを増していく。

それは、怠惰や規律違反などを犯した配下の者への仕打ちも同様であった。

彼は、自身が確立しつつある政権の秩序や規律を乱す者は、裏切り者であると捉えるのである。


「人の心は弱きもの……。主がしっかりと統制せねば、すぐに崩壊してしまうのだ……」


織田軍は、全国有数の大軍団を有するに至るも、その規律の高さは、他国に類を見ない。

信長は「一銭斬り」と呼ばれる禁制を立て、兵士や民衆を統治した。

たとえ一銭(一文)でも盗んだものは死刑に処す、という厳罰主義である。

これにより、織田軍が京都中枢を支配すると、乱暴狼藉を働く兵士他、治安を乱す無頼漢や野盗は瞬く間に姿を消した。これは三好軍が支配していた時代から比べ、信じられない変化である。

京の町衆や公家衆は、規律のとれた織田軍に感心する。


「織田の殿様は誠出来た人物の様じゃ。織田軍が来てから治安はすこぶる良くなったものよ……」


当初、新興の田舎侍が占拠する事で、どんな災いを持ち込むかと恐怖していた民衆であったが、今では大半が信長政権を支持している。

一方で、追従する家臣団は、信長を絶対的な主君と崇めるものが増えつつも、浅井の様に、その剛腕について行けず脱落していく者もいる。


「儂は神にも、死神にもなってやろうぞ……」


激しく揺らぐ時代の潮流に動じることなく、泰然自若として政務を執り行う信長の胸中には、言葉では言い表せない、不気味な精神の歪が少しずつ現れ始めていた。


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