【 三 】 決着
小谷城下は方々から火の手が上がり、けたたましい銃声と喚声が響き渡っている。城下町の焼け焦げた匂いは、山頂に構える城内にも濃く漂ってくる。
小谷城に立て籠もる兵士は概ねが四散し、僅か一,〇〇〇人余りが、主人と運命を共にしようとその場に残っていた。
天然の要害を誇った小谷城であるが、支城を悉く落とされ、裸城となってしまえば、後は脆かった。
織田軍による総攻撃が始まると、城門は早々に突破され、小丸も次々に陥落する。
本丸を守る最後の要害である京極丸には、海北綱親ら重臣が決死の抵抗を続けたが、数日に及ぶ抵抗の末、羽柴軍の夜襲を受けるとついに陥落した。
精鋭を誇る浅井の兵士達も、織田の大軍勢の前には、もはや多勢に無勢であった。
「うつけ(信長)が信用ならぬ男など、初めから分かっておった!」
小丸に籠る久政は叫んだ。
京極丸は小丸と本丸を繋ぐ中継地点でもある。もはや長政との連絡も途絶えた訳である。
「この恨みは必ずや、あやつに災いを与えよう!」
観念した久政は恨み節を唱えながら、ついに腹を斬った。
「浅井久政、遂に腹を斬り、小丸は陥落致しました!」
伝令の侍が立膝で言上する。
「左様か……」
陣所から小谷を見上げる信長は、方々で上がる炎を遠い目で見つめ、呟く様に応えた。
(まさか道連れにはしまい……)
信長は続々と届く戦勝報告に対し、さほどの反応を示す事も無く、どこか上の空の様である。周囲の諸将も信長の内心を察し、不安な面持ちを浮かべていた。
信長の懸念は、浅井家に輿入れしている、妹お市とその娘たちの安否であった。
浅井家との同盟を強固にするため結んだ政略結婚であったが、同盟解消後も返還される事は無かった。
親族への情愛の強い信長は、愛する妹を何としても取り戻したかったが、浅井家にとっても切り札となるこの姫を手放す訳が無く、事はこの最終決戦に及んでいる。
「卑怯者の長政め! お市様を盾にするつもりか!」
小谷城陥落も目前に迫っているものの、織田家の諸将も我攻めに踏み切れず、憤りを強めていた。
―――
小谷城の長政は、父の死を知ると、共に本丸にいるお市と子供達の元へ向かっていた。
お市は覚悟を決めた顔つきで長政を迎える。
「共に冥途へ参りましょう」
しかし長政は大きく首を振った。
「何を申す。そなたが死んでは浅井の血脈が絶えてしまうではないか。お主は子供達と共に兄上の元へ帰るのだ」
「その様な事断じて出来ません! 嫁入りした時より運命を共にすると決めておりました!」
お市は涙を流しながら訴えた。
長政は優しい表情で答える。
「その気持ちだけで十分じゃ。兄上は冷酷なお人であるが、其方は実の妹。無下に殺したりはせぬ」
「私一人が生き残っても辛いばかりです。浅井の血脈は娘達に託します。 せめて私はお供させてください」
取り乱すお市の肩を抱き、長政は厳しい表情のまま、頬を伝う涙を袖で拭った。
「両親を失う子の気持ちも考えぬか……。 それに、いくら兄上が肉親に甘かろうと、お主の嘆願無くして、娘たちの命は助からぬであろう。この子等の為にお主も生きねばならぬのだ……」
お市は俯き泣くばかりである。
例え子供たちを連れ脱出したとしても、信長が助命するとは限らない。長年命の危険に晒されてきたのも、浅井家が裏切った事が原因である。
しかし、長政には確信があった。
「あやつはお市を殺す様な愚か者ではない……」
長政は信長の本質を理解している。
若い頃に目を掛けてくれていた父が早世し、母から疎まれ、家臣達からも影で「うつけ」と蔑まれてきた。兄弟、親族から命を狙われ続け、殺戮を繰り返してきた若年期を過ごしたが故に、今いる肉親への情は非常に深いのである。
そして信長は本来血を好まない性格である。
裏切り者や怠惰な者への制裁は過酷であるが、女子供を意味も無く殺戮することは決してしなかった。
血生臭い混沌とした時代である。全国の大名の中には処刑や拷問を楽しむ者もいたが、信長の殺しには何らかの政治的意味があり、意味も無く殺生を楽しむような人間では無かった。
いくら憎き仇の子供であれ、愛する妹の嘆願を無視し、罪の無い姪を殺す人間ではない。
暫しの問答が続いたが、長政はお市の肩を掴み、訴えた。
「もはや裸城となった本丸に総攻撃を仕掛けて来ないのは、妹や姪を案じている証拠じゃ。……あとは頼んだぞ」
長政は取り付くお市の手を払い、三人の娘をそれぞれ抱きしめると、従者に命じ城下へ退去させた。
「罪なき妻女を殺す事は憚れよう! 妹君と子供たちは織田へお返し申す!」
長政から連絡を受けた織田軍は、お市を丁重に保護した。
「浅井に道連れにされるかと思いしが、御命が助かりなによりじゃ」
羽柴秀吉はじめ、織田軍の諸将は浅井の人質状態となっていたお市の帰還を皆喜んだ。
無事本陣にいる信長の元へと保護されたお市は、皆の予想に反し、安堵の素振りも見せず、兄の前で泣き崩れ嘆願する。
「何卒、長政様を助命してくれませんでしょうか……!」
信長は妹の生還を内心喜んでいるが、険しい表情を変えず、方々から火の手が上がる小谷城を見据えながらぼそりと呟いた。
「儂を裏切りし時より、この日が来ることを覚悟しておったはず……。 自らが招いた結果であろう……」
信長は、どこかもの悲しげな表情を浮かべた。
お市は兄の手を取り訴える。
「長政様は御父上に逆らえぬ小心者でございました。御父上亡き今は抵抗できる訳もございませぬ。どうか命だけはお助け下さい……。叶わぬのなら、私も殺してください……!」
彼女は信長の袖を掴み、引っ張った。
周囲の近習達は動揺の色を見せるが、制止する者はいない。
信長は暫し考え込んだ後、嘆息しながら首を振った。
「……誠に健気なものよ……。 ……よかろう、長政が城を明け渡し投降するのであれば、命だけは助けよう……」
「誠でございますか!」
お市は涙で濡れた顔を上げると、歓喜の声を上げる。
信長はお市の目は見ず、無言で頷くばかりであった。
夜を迎えた。
お市救出後も、織田軍は攻撃を開始しておらず、辺りは静まり返っている。
無事妻子を送り届けた長政は、城内で思いに耽っていた。
「……気掛かりは万福丸じゃ……」
長政にはお市と婚姻を結ぶ前、前妻との間に一〇歳になる万福丸という子がいた。
万福丸は浅井家の長男として、娘たちと共にお市に育てられていたが、城陥落に際し織田軍に引き渡す事はしなかった。
「無縁者には容赦なしであろう……」
長政は苦渋の表情を浮かべる。
信長は無抵抗な妻女に手を掛ける事はしないであろうが、男児は別である。浅井の跡目を生き長らえさせれば、後に禍根を残す。
信長に限らず、戦国大名であれば滅ぼす敵の跡目を絶つのは当然であった。甘さを見せれば忽ち寝首を掛かれる時代である。
長政は愛する息子を何とかして生き長らえさせたい。
「いかがいたすか……」
考え込む長政の元に、織田からの勧告が入る。
城門際まで現れた使者は、城内に対し大声で告げた。
「もはや大勢は決し申した! これ以上無駄な戦いは不要であろう! 我が主君は、義兄弟の契りを結んだ長政様へご慈愛を示しておる! 城を明け渡せば配下共々助命すると申しておる!」
使者の言上が終わると、長政は自ら櫓の上に姿を現した。
「それは誠か! 願っても無い申し出じゃ! 直ぐに用意するなれば、宵が明けるまで暫しお時間を頂けぬか!」
使者は喜び応える。
「それは誠恐悦にございます! 主君へその旨言上致す故、明朝また参りましょう!」
そう言って、使者は暗闇に姿を消した。
長政は急いで近習の村喜内之介を呼び出すと、神妙に告げる。
「信長が我らを生かす訳がない。お主に万福丸を託す故、敵が油断している内に何としても逃げ延びてくれ」
「畏まり申した。 ……命に代えてもお守り申しあげます……」
村喜は万福丸の手を引き、闇夜に紛れ城の抜け道を使って越前方面へと逃げ落ちて行った。
村喜を見送った長政は、いよいよ覚悟を決めた様子で大きく息を吐いた。
「これ以上あれこれ考えても栓無き事……。潔く戦い散ってみせよう……」
長政は信長の降伏勧告を到底信じていなかった。
お市の嘆願に心動かされた事は確かであったが、これまで自分を追い込んで来た仇敵を見逃す事はあり得ない。多くの犠牲を払った家臣団もそれを許さないであろう。
弱肉強食の時代を斬り従える君主は、時として厳正な姿勢を内外に示さなければ秩序が崩壊する。
長政にとっての選択肢は、投降した後無惨に処刑されるか、徹底抗戦の上戦死するかの他に無かった。
「信長は、儂が投降する訳など無いと分かっておるであろうよ」
他人事の様に呟いた長政は、向かいに座る弟・政元と目が合うと、頷き合った。
そして夜が明けた。
早速城門に現れた織田の使者は、神妙に告げる。
「昨夜のお約束通り、城の受け渡しに参り申した! 城門をお空け下さい!」
しかし、城内からは何の反応も無く、静寂に包まれている。
「誰かおらぬか!」
使者は再度大声で叫ぶと、櫓から再び長政本人が現れた。
「兄上のご厚意は誠にありがたき事と存ずる! しかし、残虐無慈悲なる兄上の甘言を易々と信じる訳にはいきませぬ! 儂も武士の端くれ。敵に騙され惨めに殺されるよりも、華々しく戦い、潔く散って見せましょう! 兄上にはそう申し伝えると良い!」
長政の声に呼応するように、城内から「おぉー」という喚声が上がった。
「なんと愚かな……!」
使者は身の危険を感じ、直ぐに本陣へ戻って行った。
報告を受けた信長は、動じることなく呟く。
「是非もなし……」
傍にいたお市は言葉を失い、只泣き崩れるばかりであった。
怒れる織田軍の猛々しい喚声が山々に鳴り響き、怒涛の攻撃が始まった。
長政は自ら刀をとり、五〇〇ばかりに減った軍兵をまとめ鼓舞する。
「皆この期に及び儂に忠義を示してくれ、感謝する! 今生では褒美を与えられぬが、冥途にて必ず恩を返そう!」
城門に取り付いた敵兵に対し、浅井軍は猛烈な射撃を浴びせ、大小の岩石が山の斜面を次々に転げ落ちる。
「木々に身を隠せー!」
山道に列を作り押し寄せる織田軍は、頭上から巨石が転がり落ちてくると慌てて逃げるが、前後を混乱した味方に阻まれ忽ち押しつぶされる。
最後の時を迎えた浅井軍の抵抗は殊の外激しく、織田軍を城際に寄せ付けない。
裸城など一挙に落とそうと気負い立った織田軍であったが、予想に反しあまりに激しい抵抗を受けると、大きな損害を恐れ、攻撃は頓挫せざるを得なかった。
「慌てる事は無い。無駄に兵を減らすな」
味方の苦戦を聞いても信長は本陣から動かず、無表情で指示を送るのみであった。
―――
さらに二日が経った。
日中の猛攻を悉く跳ね返し、二度目の夜を迎えていたが、軍兵達の疲労は隠せない。
長政は、城内の暗がりで胡坐を組み、弟政元へ酌を注いでいた。
「いよいよ最後の時が近づいて参った。覚悟は出来ておるな」
政元はこくりと頷く。
長政は残った酒を手酌し、それを一気に飲み干すと徐に立ち上がる。
そして城内に残った味方の兵士たちの前に現れると、大声で叫んだ。
「一当てもせずに冥途へ参れば、先に逝った者たちに笑われよう! 浅井の底力をみせてやろうぞ!」
「おおぉーーーーー!」
城内から喚声が上がった。
そして固く閉ざされていた本丸の城門が突如開け放たれ、長政を先頭に凡そ二〇〇騎の甲冑武者が勢いよくそこから飛び出した。
「弱卒共が物の数になろうか! 一人残らず討ち捨ててやろう!」
長政は自ら槍を掲げ、門前に取り付いていた敵兵をなぎ倒し、くし刺しにする。
「無謀にも敵が出て来たぞ! 怯まず迎え討て!」
織田軍は夜間も煌々と篝火を焚き、城門をこじ開けようと執拗に破城槌で猛攻を加えていたが、突如として奇襲を受けた為、激しく動揺した。
「何をしておる! 敵は小勢ぞ! 包み込んで討ち取れ!」
物頭の叱咤が飛ぶが、闇夜を縦横無尽に駆けまわる敵兵を捉えきれず、雑兵は我先に逃げ去る。
長政は馬上から渾身の力で槍を放ち、正面の敵甲冑武者の胸を強かに貫く。
城内からも援護の弓鉄砲の矢玉が降り注ぎ、城門に群がっていた織田軍は次々に射殺されていった。
「いいぞ! 一人でも多く道連れにしてやれ!」
浅井軍は姉川の戦いで見せた獰猛さを再び現し、大軍で包囲する織田軍に付け入る隙を与えなかった。
「力尽きるまで手は止めぬぞ!」
浅井の士卒達は力の限り刀剣を振り回し、敵を討ち捨てていくが、危急を聞きつけた敵勢は暗闇から絶えることなく現れ、次々に新手が襲い掛かってくる。
長政は悪鬼の様に暴れ回るも、味方は四方八方から槍を受け、徐々に討ち取られていった。
「散るな! まとまって当たれ!」
窮地に及んでも味方を叱咤する長政であったが、ヒュンと空気を割く音が顔を横切り、真横で戦う従者が額に弓を受け仰け反り倒れる。
長政は目を怒らせ大喝する。
「弓で儂は倒せぬぞ!」
長政の怒声に、たじろいだ寄せ手は、俄かに攻撃の切っ先が鈍る。
悪鬼の如き長政の猛攻は、半刻程も相手を圧倒した。
しかし、無限の様に現れる寄せ手の尚勢いは衰える事なく、新手が次々に押し寄せてくる。
もはや疲労困憊の長政は、くるりと城へ頭を向けた。
(一度城へ…)
しかし城内への退路は塞がれており、既に本丸にも敵勢が乱入していた。
共に飛び出した兵も数十人ばかりに減っている。
追い込まれた長政はにやりと口元を緩めた。
「是非もなし! 我が首挙げて功名とせよ!」
大声で叫び刀を振り上げた。
そのままの勢いで白刃の中へ飛び込もうとしたとき、横にいた政元が腕を掴み必死に引き留めた。
「短慮致すなかれ! 名もなき端武者に討たれては浅井に汚名が残りましょう! ここは赤尾の屋敷へ退いて腹をお切りください!」
長政はぐっと歯を食いしばる。
「……仕方なし……!」
内心迷った長政だったが、みすみす敵に首を奪われては先祖に申し訳が立たないと思い直し、直ぐに踵を返した。
「我らが食い止めます! お早く屋敷へお退きください!」
残った主従も長政の死に場所を確保する為、身代わりとなって敵を食い止め、一人残らず討たれていった。
長政主従は必死に後退し、袖曲輪にある赤尾清綱の屋敷へと逃げ込むと、硬く門を閉ざす。
長政自身による最期の捨て身の奇襲戦も、一刻と持たずして崩壊したのであった。
――――――
外は阿鼻叫喚の喚声が響き渡り、逃げ遅れた味方の断末魔が時折響いてくる。
屋敷へと辿り着いた長政は、兜を脱ぎ捨て座り込んでいた。
共に屋敷に逃げ込めたのは政元他数人の従者だけである。
「皆、見事な戦いぶりであった」
血と汗に汚れた長政は、乱れた息を落ち着かせると、神妙に告げる。
室内には屋敷の門を破ろうと、ドンドンという轟音が執拗に響いている。
「別れは惜しくございますが、お時間がありませぬ……」
政元は冷静な面持ちで告げた。
長政は小さく頷いた。
「人の一生は誠に儚きものよ。一つの過ちがすべてを狂わせる。 ……いや、過ちなど犯してはおらぬ。信ずる道を歩んだまでよ……」
徐に上半身の甲冑を脱ぎ捨てた。
「皆の恩義は決して忘れぬ……。 ……先に参るぞ……」
そういい、研ぎ澄まされた小太刀を腹に向かい垂直に立てた。
(……お市……)
一瞬の間を置き、「えいっ!」という気合が室内に響き渡る。
刃は腹筋深くに突き刺さり、そして十文字に斬り割かれた。
「兄上、見事なる十文字斬りでございました……」
喚声と鉄砲の轟音鳴り止まなかった小谷は、俄かに静寂に包まれた。
身動きせず、じっと城を見つめていた信長は、嘆息するように、ぼそりと呟く。
「愚か者め……」
小谷の空は、燃え盛る炎に美しく照らされていた。
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