【二】政秀寺
信勝が叛意を明らかにした頃、信長は猛暑の中、小牧山の南方・春日井郡小木村にある政秀寺にいた。
平手政秀の自害後、信長が供養の為建立したものである。
「じい、ついに信勝と争う事となったぞ……」
政秀の墓石の前に立ち、ぽつりと呟いた。
政秀の死を聞いた時、信長は周囲の者が驚くほど取り乱した。
「俺はじいを追い詰めるつもりでは無かったのだ……」
当時、信長は政秀の苦悩も理解していた。
しかし、体裁を気にするばかりで本質を見抜こうとしない年寄への蟠りは募る一方であり、信長は政秀を常に突き放した。
幼少期から粗暴者で母に疎まれ、筆頭家老の林秀貞までも早々に愛想を尽かす始末であった信長にとって、信用に値する人物は数えるばかりである。
それだけに律儀者の政秀だけは信長の味方であり、例え弟信勝と争う事になっても自分を支持してくれるという、親子の様な深い繋がりを感じていたのである。
信長にとり政秀の死は、大きな精神的支柱の喪失であっただけでなく、家中の武将達にも大変な衝撃を与えた。
「当家を支えてきた平手様にすら見限られたのか。やはり信長様には織田家を切盛りする器はないのではないか……」
失意の中にいる信長であったが、周囲の情勢は逐一と変化していく。
政秀死の翌年、天文二十三年(一五五四年)一月
今川義元は動揺を続ける織田家の隙を突き尾張織田領近くの村木(現知多郡東浦町)に砦を築いた。
これに対し信長は美濃の舅・斎藤道三の援軍を那古野の後ろ詰めに迎え、叔父の信光と共に村木砦へ攻撃を仕掛ける。
信長は既に多数の鉄砲を擁しており、砦にあった三つの狭間に対し絶え間なく鉄砲を猛射させ、その間に手勢に堀を登らせる。
まだ主力兵器として使われる事の少なかった鉄砲の爆音とその威力は砦側を大いに動揺させ、多数の死傷者を出すと、ついには降伏した。
同年七月、ここで尾張国にとっての大事件が起きる。
尾張守護の斯波義統が、清須方の武将・坂井大膳らに殺害されたのである。
義統の息子岩龍丸は信長を頼った為、信長は清須の守護代家を謀反人として糾弾する大義名分を手に入れる。
「大義は我らにあるぞ! この機に清州勢を併呑してやろう!」
即座に反応した信長は、清州城攻略の為挙兵する。
そして清州側もこれに応戦した。
「うつけの軍勢がこれほど手強いとは…・・・」
両軍は清州城近郊で衝突するも、統制された信長の長槍隊の前に、短い槍の清州方は為すすべも無く敗退し、河尻左馬丞や織田三位ら主力武将を討たれる大敗を喫した。
うつけに敗れた清州織田勢は、その後瞬く間に衰弱し、信長とその叔父・織田信光の策略によって清須城を奪われ、守護代・織田信友は首を取られた。
ここに尾張守護代織田大和家は滅亡することとなる。
信秀死後、求心力を失った弾正忠家であったが、徐々にその勢威も回復しつつあった。
そしてさらに情勢は流動を続ける。
弘治元年11月26日(1556年1月7日)
清州城を居城と定めた信長の元に、息を切らせた急使が到着した。
「信光さまが家臣の坂井孫七郎に討たれました!」
「なんだと……!」
突然の報告に、周囲の諸将は色めき立ち、言葉を失う。
しかし、信長は冷静であった。
「左様か……。孫七郎はその後どうしておる」
「……信光様の家臣らに捕らえられ、牢獄に監禁されているとの事にございますが……」
聞くと信長は、配下の佐々孫介を呼び出した。
「うつけと評判の俺に兵を預け、度々協力してくれた叔父上の敵、決して許す事は出来ぬ。名護屋へ向かい、手討ちとして参れ」
「畏まりました……」
孫介は鋭い眼差しで応じた。
周囲の家臣達は不審に思った。
親族衆筆頭の勢力を持ち、信長の最も大きな後ろ盾となっていた叔父信光の領土は一〇万石にも及ぶ。彼を失った事は信長にとって大きな痛手である筈である。
しかしその横死を耳にしても、信長は動じることなく淡々と実行犯の誅殺を命じるのみである。
命を受けた孫介は、那古屋城内の土牢に捕らえられている孫七郎の前へ現れた。
捕らえられる際、激しく殴打されたのであろう、孫七郎の顔は晴れ上がり、辛うじて目を開けられる様子であった。
しかし、孫介の訪問を受けると、何故か安堵した声色で問いかける。
「ようやく参ったか。早く出してくれ。信長様は何とおっしゃっておられるか……」
孫介は暗い表情を崩さず、無言で牢の中へ入ると、淡々と告げた。
「お主の狼藉は許されるものではない。この場にて成敗いたす」
そう言いながら光り輝く白刃を抜き放った。
「なんと! 話が違うではないか! 騙しおっ……」
喚きだしたのも束の間、短い絶叫と共に、土牢は血に染まり、孫七郎は仰向けに倒れ込んだ。
「無事役目を果たし申しました」
那古屋から帰還した孫介の報告を聞いた信長は、細い目で彼を労う。
「ご苦労であった……」
その後、信光の息子信成が家督を継ぎ、父と同様、信長に追従の意を示した。
「父上の事は誠惜しいが、我ら力を合わせ弾正忠家を盛り立てて行こうではないか」
従妹にあたる信成は二〇代の若将であるが、武勇優れた父に比べ凡庸な人物である。
「父の意思に従い、信長様のお役に立ちましょう……」
信長は叔父信光の死に寄り、彼の勢力を事実上、手中に入れる事に成功したのである。
大和織田家を滅ぼした後、信光の勢威は信長を上回る程高まっていた。
相変わらず信長を支持する勢力は限られているが、信光の威信に靡き味方している勢力も多く存在する。
信光もいつからか弾正忠家を背負って立つのは自分であるとの野心が高まりつつあったのである。
人の心情の機微に敏感な信長は、叔父の動静を逐一探り、危機感を持っていた。
「このまま何事もなく、協力はしてくれぬであろう……」
信光は戦国乱世に生まれ、兄信秀に従い戦に明け暮れてきた。常に寝首を掛かれる危険に身を置き、生き抜いてきた豪傑である。
甥への愛情が湧かない訳では無いが、たとえ血縁者であっても決して気を許さないのが戦国の世の常である。
甥が弾正忠家の後継者として不適切であると判断すれば、容赦なく排除できる冷淡さを持っていた。
「協力してくれている叔父上であるが、人望は日増しに強まっており、見過ごすことはできぬ……」
信長は武勇優れ、家中の信望高い将来の宿敵を、謀略によりいち早く葬ったのである。
信長は目まぐるしく変わる情勢の中、不屈の闘志と謀略で周囲の敵を牽制し、制圧し、次々と襲ってくる困難に立ち向かうのであった。
しかし、弘治二年(一五五六年)四月 またもや大きな衝撃を与える事件が起こる。
舅である斎藤道三が、実子の斎藤義龍に討たれたのである。
正室帰蝶の実父である道三は信長にとって、もう一人の良き理解者であり精神的支柱であった。
去る天文二十二年(一五五三年)四月
政秀の死から僅かばかりの頃、信長は正徳寺で道三と会見した。
道三は「うつけ」と言われる婿の実像を査定しようと臨んだ会見であったが、新兵器である鉄砲を備え、三間半という規格外の長槍を携えた信長の軍兵は非常に統制が取れていた。
道三は信長の器量を見抜き、以後信長を支援してきたのである。
斎藤道三は主君を殺害し国主に成り上がった油断ならない人物である。
利害が一致している内とは思いつつも、認められることの少なかった信長にとって、この謀略長ける舅の存在は非常に心強く、ある種の親しみも感じていたのである。
しかし、隠居後、息子義龍との政争が顕在化し長良川の戦いが勃発。
信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三敗死の知らせにより退却した。
義龍の追撃により自ら殿を受け持つほど緊迫した撤退戦であったが、信長は退却しながら遠い眼差しで呟く。
「蝮まむしの親父殿も時勢の流れに乗れなかったか……」
『蝮の道三』という異名をとる下剋上の申し子であった道三だが、後年はその権威も失墜し、愚鈍と称したわが息子の前に脆くも崩れ去ったのであった。
美濃の大大名、斎藤道三の後ろ盾を失った信長はいよいよ窮地に追い込まれる。
尾張上四郡を支配する守護代・岩倉織田氏(織田伊勢守家)がその後美濃の支配者となった斎藤義龍と手を結び敵対すると、状況を見た弾正忠家家老・林兄弟は遂に主君へ牙をむく決断へと踏み切った訳である。
墓石の前で政秀の面影を空に浮かべながら、信長は父の死後からの動静をぼんやりと振り返っていた。
折からの炎天は寺所の瓦を熱く滾らせる。
「なに、裏切り者など直ぐに片づけてやるわ」
政秀に語り掛けるように信長は呟き、物憂げな眼差しとは裏腹に、悠然とした足取りで寺院を跡にした。