【 五 】 三方ヶ原(一)
「何をしておる! もっと早く走らぬか!」
顔面を蒼白させた家康は、砂埃に顔を汚しながら、必死に馬を操っていた。
後方からは数知れぬ敵の喚声と、大地を震わせる人馬の足音が、身を覆いかぶさる様に押し寄せ、味方の断末魔が途絶えることなく聞こえてくる。
「浜松まであともう少しじゃ! 何としても振り切ってくれ!」
全身を震わせながら、彼は手綱を力いっぱいに握りしめた。
―――
元亀三年十二月二十二日
遠江北部を瞬く間に奪われた家康は、二俣城から落ち延びて来た中根正照の敗戦報告を受けると、直ちに浜松での迎撃態勢を整えた。
「大丈夫じゃ。ここに籠れば容易くは落ちまい。暫くすれば、信長殿が本軍を連れてやってくるに違いない……」
緊迫感が漂う浜松城内には、徳川譜代の家老衆に加え、織田家武将・佐久間信盛・平手汎秀・水野元信らが駆け付けていた。
三名とも織田家の重職であり、援軍の将として十分な勢力を持つ面々である。
(……家老共が揃って三,〇〇〇ばかりとは……)
しかし家康は、彼らが連れて来た兵力の少なさに不満を持っていた。
家康の心情を察してか、信盛は励ます様に語り掛ける。
「家康殿、御心配は無用。ここ天下の浜松城に我らと籠城すれば、信玄と言え手が出せませぬ。気をしっかりと保ち、籠城策に徹する事ですぞ……」
「……分かっております」
家康は静かに答えた。
彼も信長の置かれている状況は熟知している。
前後左右から敵に囲まれた信長は、同盟者救済にまで手が回らない。籠城に必要な最小限の兵力しか回さなかったのは、徳川が敗れた時には、自領の尾張・美濃で迎え撃つ為である。
各地に分散した兵力を、集約する為の時間稼ぎが、この浜松である事は明白であった。
(分かっておる。しかし、只の捨て駒となるのは御免じゃ……)
家康はこれまで信長の為に、配下共々身命投げ打って協力してきた。姉川の合戦では、苦戦する織田軍を尻目に、朝倉軍を押し返す等、多大な貢献をした。
信長も家康の健気な姿勢を評価し、同盟者として相応の信頼を置いているが、あくまで戦国の世の同盟関係である。
両者は利害関係が成立する為、協力しているに過ぎない。
「戦乱の世に、信頼など当てにならぬ……」
信長は、義弟の浅井長政に裏切られた事が、胸にしこりの様に残り離れない。
家康を助けてやりたいという恩情を感じているが、何よりも重要なのは、自領の保守であった。
合理的な家康も、信長の考えを理解しているし、批判もしない。
自身も信長の後ろ盾を利用し、今川家から独立出来たのである。
(今は信長に感謝しよう。当家が生き延びるには、他に選択肢はないのだ……)
軍議は籠城策に徹する事で概ね決していた。
そこへ物見の注進が入る。
「二俣を進発した武田軍は、遠州平野内を西進しております!」
「何だと!」
家康は思わず大声を上げた。
場内の諸将も、驚きを隠せない様子で、ざわざわと私語を交わし出す。
この動きは、浜名湖に突き出た庄内半島の北部に位置する堀江城を標的とするような進軍である。
即ち、武田軍は家康の待ち構える浜松城を素通りし、三河西部を蹂躙するつもりのようだ、というのである。
「ふざけおって! 武田は我らなど鼻にもかけぬ存在と申すのか!」
家康は立ち上がり憤怒の雄叫びを上げる。
浜松を素通りするという事は、敵に背後を晒しながら進軍するという事である。
背後から攻撃を受ければ、いかに大軍であろうと大損害は免れない。
信玄はそのような危険な行為を敢えて行っている様子である。
徳川家老・酒井忠次は言上する。
「落ち着き下され。信玄程の武将が、むざむざと背を向けるはずがありませぬ。何かしら策を講じて我らを誘い出しておるのでしょう」
座列の多くの者も、忠次の意見を支持する。
「信玄めは、浜松を落せぬと判断し、おびき寄せているに違いありませぬ!」
家康は立ったまま歯を食いしばり、憤怒の表情のままあれこれ思案している様子である。
忠次らの意見にはある程度同意している。信玄が、何の策も無く背を向けるはずがない。
しかし、彼にとっての気がかりは、それを恐れるばかりで城に籠った際の、周囲の反応である。
恐らく三河国内の国人衆の多くは彼を見限り、敵に味方するであろう。
「腰抜け徳川」の汚名を被れば、籠城でこの窮地を切り抜けても、失った三河の支配圏は元に戻らない。そうなれば結局のところ滅亡の憂き目を見るのである。
家康は言葉が続かず、わなわなと震えている。
そこに筆頭家老である石川数正の声が上がった。
「確かに信玄めの計略の可能性は高いと存じ申す。しかしながらここで動かずにいれば徳川は臆病者と全国に吹聴されてしまいます」
ざわついていた一同は静まり返った。
「ここは一つの好機やも知れません。信玄めは、我らを誘い出す事を考えておりましょうが、ここ三河の地の利には疎い事でしょう。奴らは三方ヶ原の平原を南下し堀江へと向かう様です。ここは急な下り坂。我らが密かに進軍し、高所から敵の後背をつけば、大きな戦果を得られるやも知れませぬ」
一時沈黙していた諸将は、方々から再び声を上げる。
「それは誠、最もである!」
「馬鹿な! 武田の罠に決まっておる!」
軍議は紛糾し、明確な答えが出ないまま罵声が飛び交っている。
忠次は反対する。
「信玄ほどの者が無策に背後を見せる訳がございませぬ! 何やら策を講じているに違いありませんぞ!」
家老衆の意見は面子を重んじる者と、慎重策を取る者で分裂し、収拾がつかない。
家康を中心に興奮冷めやらぬ諸将の中から、織田家の援将・佐久間信盛が冷静に申し立てる。
「皆、落ち着き下さい。忠次殿の言う通り、老獪な信玄めは家康様を挑発する為、方向転換し進軍しておるのでしょう。ここで乗ってしまえば、いかなる罠を仕掛けておるか分かりません。何より、我が主君はどの様な挑発を受けようと、浜松に籠城せよとの申し付けにございます。ここ浜松におれる事が肝要と存じ申しますぞ」
家康はグッと唇を噛みしめた。
(正論であるが、三河の国を想っての意見ではあるまい……)
家康は大きく深呼吸した後、徐に座り込むと、腕を組み思案し出した。
ざわめいていた諸将は家康に目をやると口を噤み、一同に主人の決定を待つ。
どのような境地であっても、家康の下に団結した三河武士衆は、主人の決定に従うのである。
暫し考え込んでいた家康であったが、意を決した様に顔を上げると、前面の諸将に声高に語り出した。
「皆の意見、どれをとっても最の事じゃ! しかし、信玄がどの様な計略を考えておろうと、我らを見くびっておる為の行動じゃ! 一当てもせず指を咥えて見ていては、ご先祖に言い訳が経たぬ! 代々受け継いだ三河の土地、再び他者の手に渡らせてなるものか!」
そう言い再び立ち上がると、大声を張り上げながら、拳を振り上げた。
「武田が恐ろしいか! いや、この戦が終われば、臆するのは奴らの方じゃ! 三河武士の力を見せてくれようぞ!」
家康の力強い鼓舞に、場内の武将は一斉に立ち上がり、喚声を上げた。
「殿の言う通りじゃ! こそこそと隠れてばかりでは我らも納得いかぬ!」
家康の鼓舞により、徳川の諸将は一同に団結を見せたのであった。
(……こうなってしまえば、致し方なし……)
熱気あふれる評定の中、一人佐久間信盛は、複雑な面持ちで座を立った。
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