【 四 】 十七条の意見書
武田軍の進撃の報が続々と届く中、岐阜城に戻った信長は、最重臣である佐久間信盛を呼び出していた。
「徳川への援軍をお主に任せるが、北近江の浅井朝倉も無視する事は出来ぬ。向かわせる軍勢は三,〇〇〇あまりだが、浜松に籠れば、いかに武田といえ長らく凌げよう」
信盛は神妙に返答する。
「ごもっともにございます。その点は家康殿もご理解しているかと……」
幼少期から付き添う重臣は、信長の焦燥を感じ取っている。
徳川が万が一蹴散らされれば、尾張で武田軍を迎えうたねばならない。
しかし、隙を見せれば浅井朝倉が南下してくるのは目に見えており、畿内の松永・三好も黙っている訳が無い。将軍義昭は、兄の仇として敵対している三好・松永へも御内書を送り、手を組もうと目論んでいるという。
更に、武田軍は織田家牽制の為、家老の秋山虎繁を美濃国岩村城攻撃へと向かわせ、城主代理であった女城主おつやの方は、脆くも降伏開城している。
おつやの方は信長の叔母にあたる人物である。
彼女は、東美濃遠山荘の地頭・遠山景任に嫁いでいたが、元亀三年(一五七二年)八月に夫・景任が後継ぎの無いまま病死すると、甥・織田信長から五男の御坊丸が養嗣子として岩村城に送り込まれた。しかし御坊丸は未だ幼少であり、おつやの方が当主の座を引き継ぎ岩村城の女城主となっていたのである。
女城主といえ、我が息子を任せた身内が、さほどの抵抗なく開城した事を、信長は苦々しく思っている。御坊丸は人質として甲斐に送られていた。
「よいか、決して野戦に応じるな。時間を稼げば、将軍や朝廷を動かして和談を進める事も出来よう」
信盛は鋭い眼差しで頷いた。
武田信玄は、戦を重ねた老獪な謀将である。
三〇歳という血気盛んな若武者である家康を何とか野戦に引きずり出そうと、計略を尽くしてくるであろう。
野戦に応じれば徳川軍に勝ち目はない。
「万が一、野戦となれば、分かっておるな……」
信長は言葉少なく信盛に告げた。
「畏まってございます……」
信盛は小さく頷いた。
信長が自ら大兵団を挙って出陣出来ない以上、無謀な野戦で織田軍を消耗させる訳にもいかない。
信長は佐久間ら尾張美濃の軍勢の多くを尾張に残し、援軍は最小限に留める事とした。
三,〇〇〇といえ、徳川軍と合わせれば一一,〇〇〇の人数である。
通常城攻めには城兵の一〇倍の兵力が必要と言われる。
浜松城に籠っていれば、たとえ三〇,〇〇〇の兵で攻撃されても、易々と落とされる事はない人数である。
長陣になれば交渉事も様々行えるし、相手の兵量も尽きる。武田と敵対している上杉も黙っている筈はない。
武田が攻城を続けられなくなれば、頃合いを見て和議を求めてくるであろう。
そうなれば徳川領の内、遠江の分割などで手を打てば織田領に損害は無い。
信長は同盟当初からの思惑通り、徳川が盾の役割を果たす事で、織田軍の被害を最小限に留めようと画策したのであった。
信盛が去った後、信長は思い立った様に自ら筆を取ると、素早い動作で書状を書き上げる。
「将軍の暴走は、これ以上見過ごす事は出来ぬぞ」
武田信玄西上の背景には、将軍足利義昭の策動が関与している事は明白であった。
信玄の包囲網加担により、義昭は兄の敵であり・長年抗争を続けて来た三好・松永との和議を結ぼうというのである。
四面楚歌の状況となった信長は義昭へ対し、再度強硬な姿勢取る事とし、以下の弾劾状を将軍に突きつける事に決める。
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『十七条の意見書』【*注
一、足利義輝様は宮中への参内を怠りがちでした。それゆえ、神の加護も無しにあのような不幸な最期を遂げられました。信長は日頃から義昭様に参内を怠りなく勤められるようにと申し上げておりましたのに、義昭様は近年怠りがちのようで信長は遺憾に思っております。
一、諸国の大名に催促して、馬を献上させていることは聞こえが良くないので、再考なさったほうが良いでしょう。必要がある時には、信長に申し付けてくださればそのために奔走すると約束なさったではありませんか。このように信長に対して内密に事を進めるのは宜しくないと思います。
一、義昭様は幕府の忠臣に対しては恩賞を与えず、身分の低い新参者に恩賞を与えておられます。このようなことでは忠誠心など不要となってしまいます。人聞こえも悪いでしょう。
一、最近、信長と義昭様の関係が悪化したと噂になっております。将軍家の家宝類をよそへお移しになった事は京の内外に知れ渡っております。これでは信長が苦労して建造して差し上げた邸宅も無駄になってしまいます。とても残念なことです。
一、賀茂神社の社領を没収して岩成友通にお与えになり、岩成に賀茂神社に対し経費の負担をするよう表向きは厳命なさり、裏では「それほど気にかけなくても良い」とお伝えになったそうですね。そもそも寺社領を召し上げるという行為は良いことではないと思っております。岩成がもし所領に困っているのであれば、私が都合のいいように取り計らったでしょうに。このように内密に行動されるのは良くないですね。
一、信長に対して友好的な者にはどんなに下位の身分のものであっても不当な扱いをなさるそうで、彼らは迷惑しているそうです。そのような扱いをするのには、どういった理由があるのですか。
一、何の落ち度も無いのに、全く恩賞を受けられない者達が信長に泣き言を言ってきます。私は以前にも彼らに対して恩賞をお与えになるように申し上げましたが、その内の一人にもお与えになっていないようですね。私の彼らに対する面目がありません。「彼ら」とは、観世国広・古田可兵衛・上野豪為のことです。
一、若狭国・安賀庄の代官の不行跡について、粟屋孫八郎が告訴しましたが、私も賛同して義昭様に進言いたしましたのに、音沙汰の無いまま今日に至っております。
一、小泉が妻の家に預けてあった刀や、質に入れてあった脇差までも没収なされたようですね。彼が謀反を企てたりしたのなら別ですが、彼は喧嘩で死んだだけです。この措置は法規的に処理されておらず、人々は義昭様を欲深い将軍だと考えるでしょう。
一、「元亀」の元号は不吉なので改元したほうがいいと、民意を参考に義昭様に意見を申し上げました。宮中からも催促があったようですが、改元のためのほんの少しの費用も義昭様が出費なされないものですから今も滞ったままです。
一、烏丸光康を懲戒された件ですが、その息子・光宣に対する処置は妥当と感じるものの、信長は、光康は赦免なさったほうが良いと申し上げたはずです。どなたか存じ上げませんが、密使を光康へ遣わして金銀を受け取って再び出仕を許されたそうです。嘆かわしいことです。今や公家は彼らのような者が普通なのですから、このような処置はよろしくないと思います。
一、諸国から金銀を集めているにも関わらず宮中や幕府のためにお役立てにならないのは何故でしょうか。
一、明智光秀が徴収した金銀をその地の代官に預けておいたところ、その土地は延暦寺領だと言って差し押さえになったようですね。そのような行いは不当です。
一、昨年の夏、兵糧庫の米を売って金銀に変えられたと聞きました。将軍が商売をなさるなど前代未聞、聞いた事がありません。兵糧庫に兵糧がある状態こそ、世間の聞こえも良いのです。義昭様のやり方には驚いてしまいました。
一、幕府に仕えている武将たちは戦など眼中に無く、もっぱら金銀を蓄えているようで、これは浪人になった場合への対策と思われます。義昭様もいざとなれば御所から逃げ出してしまうものと見受けられます。そのために金銀を蓄えていらっしゃるのでしょう。「上に立つものは自らの行動を慎む」という教えを守ることは義昭様にとっても簡単なことでしょう。
一、世間一般の人々は「将軍は欲深いから人がなんと言おうとも気にしない」と口々に言っております。ですから、しがない農民でさえ義昭様を「悪御所」と呼んでいるそうです。かつて足利義教様がそう呼ばれたように。何故下々の者達がこのように陰口を叩くのか、今こそよくお考えになったほうが良いと思います。
【*注『現代語訳 信長公記』- 太田牛一 著
中川太古 訳 - 新人物文庫 - 189 – 194ページより一部改変して引用
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将軍に対し、痛烈な弾劾状である。
信長はこれまで、形式的には将軍補佐官に徹してきた。
自身の状況を省みず傲慢な義昭に対し、意見書などで多少諫めた事はあるが、ここまで辛辣な訴えは控えてきた。
しかし、浅井離反後から繰り返される窮地にとうとう我慢ならず、この書状を叩きつけたのである。
これを受け取った義昭は激怒した。
「なんたる暴言の数々! もはや堪忍袋の緒が切れようぞ!」
武田信玄の西上を知った義昭は、俄然強気となっていた。
「もはや、あやつは袋の鼠! 将軍を蔑ろにするとどうなるか、今に見ておれよ!」
将軍との決別がどの様な局面を迎えるか、信長にとっては賭けであった。
周囲を敵に囲まれ、思う様に進まない事態への苛立ちから暴発的に行った弾劾状であったが、強敵信玄との決戦を前に、表裏の知れぬ者とこれ以上協調していく事は困難であるとの判断であった。
「盾突くのならやってみるがよい! 中身の無い傀儡将軍など握りつぶしてくれよう!」
追い詰められた信長は、吐き捨てる様に独り空へと呟いた。
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