【 三 】 虎動く
九月二十九日
「遂に動いたか……」
琵琶湖を囲むように連なる山々が真紅に染まる中、横山城に在城していた信長は、徳川からの使者を迎え、大きく嘆息した。
「武田は北条家の援軍を加え、凡そ三〇,〇〇〇の兵を三つに分け、美濃、遠江、三河方面から怒涛の勢いで押し寄せております。我らの力のみではとても抑えきれぬ事態となれば、何卒援軍をお頼み申します……」
信長の御前で平伏する使者は、緊張と焦燥の表情を浮かべながら、東海の危急を伝えた。
信長は薄く整えられた口髭を摩りながら、暫し思案した後、ゆっくりと口を開く。
「……あい分かった。直ぐに援軍をよこす故、家康殿にはくれぐれも伝えてくれ」
「誠かたじけなきお言葉! 直ぐに主人に伝えて参ります!」
役目を果たした使者は、屋敷を飛び出す様に走り去って行った。
信長は再び大きく嘆息する。
「……いかがするか……」
織田政権は、幾度目かの窮地に陥っていた。
「まずは徳川領を蹂躙し、旗下に組み込むと致そう」
九月、信玄は軍を三つに分け、山県昌景率いる五,〇〇〇の兵を三河国へ、秋山虎繁(信友)率いる伊那衆を美濃へと先行させる。そして一〇月一〇日には、自ら率いる本隊三〇,〇〇〇を信濃国の青崩峠から徳川氏領の遠江へと侵攻させたのであった。
遠江・三河の国人衆は大きく動揺した。
北遠江の国人だった天野景貫は即座に武田方に寝返り、居城・犬居城を明け渡して侵攻の先導役を務める。
北三河には、山家三方衆とも呼ばれる田峯城主・菅沼定忠、作手城主・奥平貞勝、長篠城主・菅沼正貞らの有力国人大名がいたが、武田の侵攻を知ると、彼等も直ちにこれに降りた。
「武田に対抗するには徳川単独では荷が重かろう。 しかし頼みの織田は近江・畿内の対策で手一杯じゃ。これに味方すれば、我らは捨て駒にされるばかりじゃ……」
徳川・武田の二大勢力の狭間に盤踞する彼らは、強者に従い、離合集散する事で家名を存続せざるを得ない。道義などは二の次であった。
三河に侵攻した山県昌景の別動隊は、彼らを道案内役に立て、浜松方面へ進軍し、長篠城の南東に位置する鈴木重時の柿本城を瞬く間に攻略。破竹の勢いでさらに遠江へと侵入する。そして信玄本軍は、家康側の将・中根正照の守る二俣城攻略を目論んだ。
二俣城は家康の居城浜松城と掛川・高天神城のちょうど中間地点に位置し、遠江の諸城の中でも特に重要な拠点である。
ここを落す事で、武田軍は補給路を確保でき、徳川軍の連絡網を遮断できるのである。
「二俣は守りの要、このまま指を咥えてばかりもいられぬぞ!」
味方が続々と投稿する中、家康は二俣城攻撃を牽制しようと、威力偵察の敢行を決した。
近習の静止も聞かず、自ら三,〇〇〇程の兵を率いると、浜松から天竜川を渡り二俣城を目指す。
しかし、ここで予想外の事態に遭遇した。
「何だと! もうこんなところまで来ておったのか!」
家康は、敵が遠江へ侵入する前に牽制しようと進み出たが、予想に反し、既に二俣城の目前にまで迫って来ていたのである。
「徳川の軍勢がおるぞ!」
家康の動向を察した武田軍は、迷うことなく、猛烈な勢いで攻めかかって来た。
「これはまずい! 速やかに退却じゃ!」
寡兵で迎えた家康は、万を超える敵軍に発見されると、直ぐに退却を指示する。しかし、見計らったかのように勢いよく押し寄せる武田軍に補足され、一言坂(静岡県磐田市一言)で合戦に持ち込まれてしまう。
「ここは迎え討ってはいけませぬ! 儂が食い止めるとなれば、お早くお逃げください!」
徳川の勇将・本多忠勝は、家康を何とか逃げ延びさせる為、僅かの兵で殿を務める事を申し出た。
「あい分かった! 頼んだぞ!」
家康は冷や汗を流しながら、後背を本多に任せ、必死の退却を試みる。
「臆病者が逃げるぞ! 小勢など速やかに打ち崩し追うべし!」
武田先鋒の馬場信春は、ここぞとばかりに采配を縦に振ると、忠勝隊の正面から突撃した。
本多隊は百人ほどの兵を三段に分け、馬場隊の猛攻を迎え撃つ。
「扶桑最強と名高き武田の兵よ! 徳川家が本多の力をとくと見よ!」
忠勝は、蜻蛉切と呼ばれる穂一尺四寸(四三センチメートル)、茎一尺八寸(五五センチメートル)の大槍を振り回し、数倍の敵相手に暴れまわった。
「これは手強いぞ! 囲い込んで複数で討ち取れ!」
予想外の強い反撃に、俄かに勢いを削がれた信春は、追撃戦を諦め乱戦に切り替えた。
本多隊を取り囲むように兵を展開させると、瞬く間に白兵戦に持ち込む。
そうなると寡兵の本多隊に勝ち目はなかった。三段の備えも忽ち二段まで打ち破られ、兵は散り散りになって討ち取られていく。
「これ以上は持つまい! 家康様は逃げ延びた故、我らも速やかに退却じゃ!」
殿の務めを果たした忠勝は、気合の籠った怒声で兵をまとめると、速やかに後方へ退却を開始した。退路はゆるやかな下り坂になっており、雪崩を打つように馬を走らせる。
「やはり来たぞ! ここで逃がすな!」
しかし、機を見た信玄近習の小杉左近は、その退路を塞ぐように前方の坂下へと回り込み、待ち構えたように鉄砲を撃ち放ってきた。
忠勝はぎりりと、歯を食いしばる。
「退路を塞がれしか! 致し方なし! 各々武名を示せ!」
前後を挟まれた忠勝は心を決めたように大喝すると、兵を一点にまとめ『大滝流れの陣』と言われる捨て身の陣形を作った。
「もはや生きては帰れぬ! 一人でも道ずれに玉砕せよ!」
凄まじい雄叫びを上げた忠勝は、自ら先頭に立つと、一気に坂を駆け下り、小杉隊に突撃していった。
オォォォーーー、という凄まじい喚声をあげ突撃してくる本多隊を見た左近は、俄かに攻撃を中止する。
「これは手強いぞ! 死兵を相手に無理攻めするな!」
意を決した突撃に対し、小杉隊は損害を危惧し、道を開けたのであった。
左近は眼前を走り去る忠勝に、思わず称賛の声を掛けた。
「まさに鬼気迫る武勇! 敵ながら天晴であった!」
「これはもったいなきお言葉! 名をお聞かせ願おう!」
「儂は信玄公側近の小杉左近じゃ!」
「小杉殿! 感謝申し上げる! また戦場で相まみえましょう!」
忠勝は隊列を整え、悠然と浜松へと退却していった。
そして忠勝の活躍のおかげで、家康は命からがら居城へと退却する事が出来たのであった。
「本多とは、なんと勇ましき奴じゃ……」
小杉は寡兵で勇戦する忠勝の武勇に感嘆し、「ここであの者を討つには惜しくあろう」と言い、退路を開けたのであった。
忠勝の活躍は小杉ほかの諸将にも賞賛され、彼の武功を称える狂歌が登場している。
―家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八—
信玄は徳川の偵察隊を蹴散らすと、山県昌景の別動隊と合流し、悠々として二俣城攻撃を開始した。
二俣城には、中根正照を守将とした僅か一,二〇〇程の人数が立て籠もっていたが、二七,〇〇〇もの大軍で攻め寄せた信玄の降伏勧告を無視し、撤退抗戦の構えを見せる。
「浜松への最重要拠点をそう易々とは渡せぬぞ!」
天竜川と二俣川の交差する丘陸に位置する天然の要害は、ここから武田の猛攻をひと月程も凌ぐ奮戦をみせた。
しかし、戦意旺盛だった城兵も、援軍が訪れる様子が無いまま十二月を迎えると、次第に疲弊していく。
「一体いつになれば味方が参るのだ!」
中根正照は苛立った。
中根家は、松平家の譜代の臣として代々仕えて来た。重要拠点を任されるのは家康の信頼によるものであるが、援軍なしで持ちこたえられる訳でもない。
正照は信長の援軍が無くては、家康も救援に来られないと理解している。家康の動員兵力は八,〇〇〇ばかりである。
「しかし、ここ二俣が落ちれば、只では済まされないのは殿も分かっておるはず……」
正照は内心の苛立ちを隠し、城兵達を叱咤しているが、いつまで続くかも分からず不安は拭えなかった。
すると城内に凄まじい轟音が響き渡った。
「一体何事じゃ!」
正照は驚き叫ぶ。
「上流より大木が次々に流れて来ております!」
配下の武将が叫んだ。
「何じゃと! 狙いは水の手か!」
正照は咄嗟に敵の狙いを理解した。
二俣城には井戸が無く、天竜川沿いの断崖に井楼を設けて、釣瓶で水を汲み上げていた。信玄は、大木を大量に川に流し、井楼の柱に激突させて破壊するという策略を行ったのである。
ドーンドーンという大木の衝突音が城内に響き渡り、遂に井楼の柱はへし折れ、崩れ落ちてしまった。
「何という事じゃ……。 水の手が絶たれては持たぬぞ……」
その後数日間も耐え凌いだ中根軍であったが、水が無くては戦を続ける事は不可能である。
「これ以上抵抗を続けては全滅を待つばかりでございましょう。 城を明け渡せば、城兵は皆助け申す。 然らば速やかに退去されたい」
再び降伏勧告を行ってきた信玄に対し、正照は城兵の助命という条件を得ると、遂に降伏開城して、浜松に落ち延びて行った。
徳川家にとって生命線とも言える拠点が、僅か二か月余りで落ちてしまったのである。
「家康も臆したか。 二俣をみすみす落とされるとは情けなき次第よ」
二俣の落城は、周辺の地侍を落胆させた。
それまで日和見を決め込んでいた飯尾氏・神尾氏・奥山氏・天野氏・貫名氏などの地侍のほとんどが信玄に従うことを表明するのである。
「何たる事じゃ……。 誰も足止めすら出来ぬか……」
扶桑最強と謳われる武田軍に、抗う術も無く徳川領は蹂躙されていくのであった。
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