【 十三 】 救援
元亀二年二月
「佐和山の磯野が投降してございます」
秀吉の使者からの報告を聞いた信長は、不敵に笑った。
「遂に員昌も折れおったか……!」
浅井家の重臣で、姉川の合戦では浅井軍の先鋒として織田軍に大打撃を与えた猛将・磯野員昌が織田軍に投降した。近江坂田郡(彦根市)の要所、佐和山城主である員昌は、姉川の合戦以降、織田軍に横山城を奪われると、小谷との連絡路を遮断され孤立していた。それでも孤軍奮闘し抵抗を続けていた彼であったが、朝倉軍に誘導される様に比叡山籠城を放棄した主君に落胆していたのである。
「あのまま抵抗を続けていれば、織田の崩壊は目前であったでないか! ……世の潮流は信長のモノなのか……」
員昌の不満を察知した木下秀吉は、巧妙に付け入り投降を促す。
「お主の才能を織田は欲しておる。今下れば、上様はさぞお喜びになるであろう」
追い詰められていた員昌は、抵抗しても援軍は見込めないと思い、遂に織田家の傘下に入った。
「あれほどの武辺者を殺すには惜しいであろう」
信長は員昌の投降を喜び、近江高島郡を与え、佐久間・柴田・木下・丹羽らの宿老衆に並ぶ破格の待遇で迎えた。敵ながら、姉川での武勇を評価しての事であった。
織田軍は、目の上の瘤であった佐和山を手に入れる事で、近江南部の支配圏を確立する事に成功したのである。
五月六日
磯野投降による浅井側の衝撃は大きく、長政は一向一揆勢と呼応し、凡そ五,〇〇〇の兵力を以て動いた。
「もはや一刻の猶予も無い! 先手を打たねば破滅を待つのみじゃ!」
長政は、起死回生に転じた信長に靡き、味方から裏切り者が続出する事を恐れていた。小谷は難攻不落の名城であるが、ここに籠り続けていても、そのうち孤立していく事は明白である。
浅井軍は、横山城を守る木下軍が小勢である事を察知し、小谷城から姉川まで一挙に南下した。
先手に足軽大将の浅井七郎を立てると、先般織田側へと裏切った堀秀村の守る、蒲葉城(滋賀県米原市)の近くまで押し寄せ、城下に放火する。
「まずいぞ! 堀を見捨てては、周辺の国人衆達にも示しがつかぬ!」
浅井の抑えとして配置されている秀吉は、堀秀村救援を即座に決める。
ここで堀を救援しなければ、昨今織田に靡いた他の国人衆も再び浅井に付きかねない。
しかし、各地に戦線を展開している信長は、秀吉に対し最小限の兵力しか割く事が出来ていなかった。秀吉はわずかな守兵で浅井に対抗せねばならず、横山城守備に主力部隊の二,〇〇〇程を弟秀長に託し、自らは精鋭部隊一〇〇騎余りを選出し、密かに城を出た。
秀吉は、敵方に見つからぬよう山裏を密行して箕浦へ入り、堀秀村・樋口直房と合流する。
「これは秀吉殿。心細き時に何とも頼もしい」
十四歳の秀村は、秀吉が加勢に来たことを喜びつつも、僅かの兵数をみて内心落胆した。
(わずかこればかりの兵力で太刀打ちできるのか……)
秀吉はその内心を見透かしながら、静かに語る。
「ここは守るに難しき城でござる。覚悟を決め一戦及んでこそ、死地に活路を見出せるというもの。共に参りましょう」
小柄な秀吉であるが、その眼光は鋭く、秀村は息を飲んだ。
家老の樋口直房は、その言葉に呼応する。
「敵は所詮一揆勢の寄せ集め。我らが一団となって攻め入れば、忽ち崩壊するでしょう」
秀村は幾つもの死線を潜り抜けて来た二人の武者に同調し、顔を見合わせ頷き合った。
しかし、堀勢に加え秀吉の兵を合わせても僅かに五〇〇程の人数である。
通常であれば援軍を待って然るべきであるが、秀吉は決戦を望んだ。
(ここで逃げれば上様に会わす顔が無いわい……!)
堀家は元々浅井属国の領主である。織田有利と見込んで転身したが、情勢不利と見なせばいつ手の平を返すか分からない。
彼等が裏切れば、秀吉は即座に横山城へ攻め入られ、破滅するであろう。万が一生き延びても、浅井家に対する要所を任された以上、その失策を許す程信長は甘くはない。
家柄等の後ろ盾無く、身一つで成り上がった秀吉は、一つの失敗も許されないのである。
しかし、決死の堀・木下隊であるが、勝算はあった。
浅井軍は数を頼り、堀勢はわずか数百の兵であると、気が緩んでいる。また、姉川の決戦で精兵を数多討たれており、敵の部隊に加わるのは、一揆勢など訓練の行き届いていない雑兵の集まりである。
秀吉は数で劣る分、局地戦を仕掛け、一気に戦局を奪おうと、寡兵の足軽をもって敵勢に立ち向かう事を決意する。そして敵が下長沢(米原市)にまで南下してくると、奇襲戦を行う事とした。
「戦は数ではない! 死を恐れぬ勇者にこそ、天は味方しよう!」
秀吉は刀を振り上げ、凄まじい雄たけびを挙げると、兵達は呼応するように喚声を上げる。丘の上から敵勢の通過を待ち構えていた木下勢は、中央突破を得意とする鉾矢型の陣形を組むと、秀吉自ら先頭を駆け抜け一気に坂を下り、突撃を開始した。
「なんだと! この兵力差で突撃してきおった!」
行軍中であった浅井勢は、まさかの捨て身の奇襲に狼狽する。
一〇倍の敵に正面衝突した木下軍は、敵の先鋒を勢いよく突き崩し、水面を掻き分け進む船の様に敵中を突進する。
「慌てるな! 敵は小勢! 包み込んで一人ずつ討ち取れ!」
長政は兵を叱咤するが、味方の多くは一揆勢であり、不意な敵襲に狼狽するばかりで連携がとれない。組織的抵抗のできない浅井勢は、訓練された精強な織田軍の攻撃を受けると、脆くも槍を捨て逃げ出す。
「何をしておる! 一人で敵わぬなら複数で絡めとれ!」
しかし、長政は必死に兵をまとめ態勢を立て直すと、反撃に転じる。そして両軍入り乱れての混戦となると、数の少ない織田勢は忽ち劣勢となった。
「足を止めるな! 止まれば忽ち首を取られようぞ!」
秀吉の叱咤が飛ぶ中、樋口直房配下の侍・多羅尾相模守が討死し、そのことを知った多羅尾家来の土川平左衛門という者も、主人の後を追い敵中に突入し、討死を遂げるなど苦戦を強いられる。
しかし、「負ければ破滅」という背水の陣で臨んだ織田・堀軍は粘り強かった。
「家臣にばかり頼っておられぬぞ!」
若将・堀秀村は、自ら槍を取り暴れまわると、主君に励まされた堀家の諸将は大いに奮い立ち、遂には敵将数十人を討ち取る奮戦を見せ、敵を退けたのである。
「ここで終わらせるな! 我らの勢威を敵に見せつけてやれ!」
勝機を得た秀吉は、ここで敵に更なる痛打を浴びせ、再挙の気勢を挫く事を決意する。
「敵は臆病者の集まりじゃ! 一気に畳み込め!」
勢いに乗った木下勢は、下坂のさいかち浜(長浜市)まで敵を追い北上する。
「これ以上敵を侵入させるな!食い止めよ!」
これに憂慮した浅井長政は、ここで反撃に転じ、今一度一戦に及ぶが、士気を失って散開した兵力では応戦できず、ここでも大敗すると、八幡下坂(近江八幡市)まで追い崩されたのであった。
「敵は士気旺盛で手が付けられぬか……」
浅井長政は、歯ぎしりをして小谷へと軍勢を返した。
比叡山から退去した事で主導権を失った浅井軍は、過日の勢いを完全に失ってしまっていたのである。
「猿! いつもながら見事な働きよ!」
秀吉の活躍もあり、岐阜城から湖岸平野への通路を確保する事に成功した信長は、大いに喜んだ。
「これで形成は逆転した! 儂に歯向かった者共がその先どうなるか、見せつけてやろうぞ!」
信長は遂に、反勢力の粛清を決めるのであった。
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『勇将の誤算:~浅井長政~』
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