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戦国立志伝・織田信長  作者: 意匠瑞
第六章 『信長包囲網』
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【 十一 】 苦肉


「このままでは天下の情勢も不穏極まりない。ここは義昭公に和議の斡旋をお願い致したく在じます」


足利義昭の元へ参じた信長は、長引く包囲戦をなんとか終結させようと、将軍の権威を利用しようと考えた。

義昭は信長の放つ殺気に怯えながらも、威勢は保とうと平静を装い、彼を見下す様に顔を上げ、姿勢を改めた。



戦況は変わらず、信長の窮地は続いている。

尾張では、信長の弟である小木江の城主・織田信興が自害したとの報が届いていた。

長島で蜂起した一向一揆勢は、信長が志賀で手詰まりとなっている様子を知ると、大軍で小木江に押し寄せた。

信興は、これを迎え打ち獅子奮迅の働きを示し、実に六日間も持ちこたえた。しかし、ついには城内に乱入されると、「一揆如きに討たれては家名に汚点を残そう」と言い、天守櫓へのぼって腹を掻き斬った。

信治に続き、またしても肉親を討たれた信長の憎悪は殊の外激しく、誰も近寄る事も出来なかった。

そんな憤怒を横目に、敵の勢いは増していく。

南近江で決起した六角義賢は、一揆勢を率いて甲賀口の三雲氏居城菩提寺城まで攻め寄り、江州の本願寺門徒も蜂起し、濃尾方面への通路を閉鎖した。

北は浅井朝倉、南は六角、東は一揆勢と囲まれ、近江の支配圏は一挙に閉塞してしまう。


「近江の混乱を野放しにしておれば、織田軍全体が崩壊し兼ねぬ!」


信長は憂慮するが、比叡山に立て籠もる三〇.〇〇〇もの大軍を放っておく事は出来ない。

京に釘付けとなっている状況下では、この窮地を脱する事も出来ず、憤怒を堪えるばかりである。


「何とかこの戦線を脱し、上様と合流せねばなるまい……」


浅井家の抑えとして湖南に展開していた木下藤吉郎秀吉と丹羽長秀は、協力してこれらを各個撃破し、信長と合流する事を決心する。

二人は、小谷城への抑えとして横山城・佐和山城の付け城などへ数千の守兵を残し、自らは二,〇〇〇程の軍勢を率い、上洛を開始した。


「飛んで火にる夏の虫よ! 包み込んで討ち取れ!」


これを察知した六角及び本願寺一揆勢は、道上の建部を封鎖し、箕作山・観音山と連携してこれを妨害した。


「敵は所詮、付け焼刃の烏合の衆! 我らが恐れる敵ではないわ!」


長秀・秀吉は隊を三つに分け、寄せ手が入れ変わる繰引きの戦法を用いて雲霞の大軍に突入した。

農民で構成された一揆勢が、訓練された織田軍に敵うはずもなく、敵を瞬く間に蹴散らすと、両軍は敵の防衛線を突破したのである。


「吾郎左(長秀)! 猿(秀吉)! よくぞ参った!」


信長は良い兆しの見えない戦況に訪れた久しぶりの吉報に喜び、在陣の諸将の士気も大いに上がった。


しかし依然と苦境は変わらない信長は、これを機に和談の方針を加速させる。

六角義賢は、木下・丹羽軍に蹴散らされると、元々の兵力も少なかった事から、抵抗する余力も失っていた。


「このまま抵抗を続けても栓無き事か……」


信長から和睦の使者が参ると、義賢は肩を落とし、項垂れこれを了承した。

更に、松永久秀の仲介により、摂津の三好軍とも和談が成立し、両者は兵を退く。


そして、湖西の堅田(滋賀県大津市)では、猪飼野甚介・馬場孫次郎・居初又次郎の三名が織田方へ内通を申し合わせ、織田家武将の坂井政尚へその旨を打診してきた。坂井らは猪飼野らから人質を受取り、夜のうちに兵一,〇〇〇ばかりを率いて堅田へ入った。


秀吉、長秀の決死の合流により、難化していた戦況がやや動き始めていた。


「堅田を奪われては難しかろう! 奪い返せ!」


徐々に織田側に有利な情勢が見え始めると、朝倉側も攻勢に出る。

比叡山を挟み、京から北東部に位置する堅田を奪われれば、江北への退路に支障が出る。堅田は琵琶湖を往来する、物流の要でもあった。

義景は危機感を募らせ、親族衆筆頭の景健へ堅田への攻撃を命じた。


総勢一〇,〇〇〇の朝倉及び一揆軍は、僅か一,〇〇〇あまりの坂井軍を瞬く間に包み込む。


「おのれ! 早くも敵に気付かれしか! 最早ここを死に場所と致そう!」


猛将政尚は、雲霞のごとき大軍に囲まれても怯むことなく応戦し、自ら槍を持って雑兵達を薙ぎ払う。


(ここで名誉の死を賜れば、面目を保てよう!)


政尚は先般の姉川の戦いで先鋒を受け持ったが、浅井勢の怒涛の攻撃により脆くも突破され、息子尚恒を討たれる不覚を取っていた。


この度の猪飼野甚介らの内通に際し、政尚は汚名を返上しようと、信長に直訴する。


「堅田の守備は何卒私めにお命じ下さい!」


政尚の覚悟を悟った信長は、危険な役割を彼に任せたのであった。


案の定、直ぐに反応した朝倉軍は、織田軍の防衛線が機能する前に直ぐに出撃してきた。

政尚は、正に一騎当千の働きを見せ、敵将・前波景当を討ち取るなどの活躍を見せたが、多勢には及ばず、遂には討ち死にしたのであった。


信長は手痛い敗北を喫するも、三好・六角という強敵が手を退いた今、和睦を進める好機と捉えた。両軍の睨み合いは二カ月に及んでおり、これ以上時間をかけて居られぬ状況である。この打開策として、将軍足利義昭を動かす事に決したのであった。


「悪徒共を野放しにするは、誠口惜しき事ですが、ここは何としても戦況を好転させねばなりませぬ」


信長は義昭に直訴した。

一見、将軍への敬意を示し、礼儀作法に習い、へりくだっての直談判であった。

義昭は引き攣った顔で、信長に何と返答しようか思案している様子である。

両者の間には、これまでの様な親密な雰囲気ではなく、微妙な緊張感が漂っていた。


信長は、義昭の目を真っすぐに見つめ、その返答を待ち、近習は固唾を飲んでその様子を伺っていた。


先般、信長による義昭への意見書である『殿中御掟』の提示以来、二人の関係には微妙な亀裂が入っている。

信長は、将軍の権威を笠に着た義昭による専横の振る舞いと、傲慢な性質に懸念を示し、将軍としての規範書を作成した。

内容は室町幕府の先例や規範に準拠した意見書であり、将軍という要職相応の立ち振る舞いを求めたものである。


将軍職についた義昭は、将軍として個人的な御内書を全国の諸大名やその臣下にまで乱発し、社会的な混乱が生じている。また宮中への勤めも怠り、自分の都合の良い人間で囲う様な人事を行う。更には各方面への御内書で金品を要求し、寺領の横領までも行っている。あまりの思慮の無さに辟易した信長は、ついにこの掟書を示したのであって、彼からすれば、決して横暴な処置と言えるものではない。

信長は内心では思慮浅く傲慢な義昭を見下しているものの、昨今の政情不安の最中、表面的な衝突を望んではいないのである。


しかし義昭の捉え方は違った。

すべての武士の頭領という自尊心ばかりが育った彼には、この戒めはすべて屈辱に映ったのである。

掟書を読んだ義昭は激昂する。


(何と傲慢な田舎侍じゃ……!)


自らを傀儡扱いされたと感じた義昭は、大きな不満を抱えており、内心では苦戦する信長を嘲笑っていた。

信長が手詰まりとなって自身を頼ってきた事で、立場の逆転を計ろうと息巻いたが、いざ御前で信長を見ると、このまま謀殺されるのではないかという恐怖を感じられずにはいられない。

何か皮肉でも言ってやろうかと思うが、彼の威圧感の前では口籠んでしまう。


「将軍様、いかがでございましょう」


信長が顔を見上げ、睨みつける様にいった。


「ま、誠もっともじゃ。交渉には旧知の晴良(二条晴良)を遣わそう」


結局義昭は額に汗を浮かばせながら信長の依頼に応じたのであった。


義昭にとっても京を狙う反乱軍を野放しに出来ない。仇敵三好軍が再びいつ都へ乱入するとも知れぬ状況なのである。

義昭は、ひとつくらいは信長に鼻を明かしたい気持ちがあったが、もしも激昂されれば、その場で斬り捨てられかねない不気味な殺気を常に放つ信長に恐怖した。


(儂は将軍であるぞ……)


そんな義昭を尻目に、信長は朝廷へも同時に働きかけ、勅命を得る事に成功する。

天皇及び、将軍の軍事力は無きに等しく、この交渉は彼らの権威を利用するという苦肉の策であった。相手次第では一蹴される可能性は十分にある。


しかし、信長は間者の情報により、義景が長陣に疲弊し、自国へ戻りたいと吐露している内情を掴んでいた。


「小心の義景めは必ず動くであろう……」


信長の腹の内では和議を望んではいない。しかし比叡山に籠られていれば手も足も出ないこの状況下において、ここで意地を張っては、自らの破滅を招くという事は冷静に判断していた。



「今に見ておれよ。長政め……」



多くの家臣や兄弟を殺された信長の憎悪は、一層強まっていくばかりであった。



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