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戦国立志伝・織田信長  作者: 意匠瑞
第六章 『信長包囲網』
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【 九 】 撤退

九月二十二日


「おのれ、おのれ! あの青二才めが!」


信長は顔を紅潮させ、目の前の床几を蹴り上げた。

周囲に控える小姓達は、緊張に顔を強張らせ、不動でその様子を見守る。

横にいた足利義昭は、怯えた表情を見せ、後ずさりした。


野田福島の戦線にいる信長の元へ、森可成討ち死にの報が届いていた。

濁流に阻まれた野田・福島城を遠方に眺めたまま、依然として戦況は膠着が続いている。

本願寺が敵対した事で、ここを退けば摂津の支配圏は大きく失墜しかねない。


信長は窮地に陥っていた。


打開策が見出せぬまま日を過ごすうちに、素早く呼応した浅井朝倉は早々に織田側の防衛線を破り、都に迫っている。

更には、比叡山という一大宗派までもが敵対したというのである。

京の町を北東から見下ろすこの霊山は、本願寺と同様、武家勢力の介入を許さない、強力な独立勢力であった。


「可成に加え、信治までも! 到底許しては置けぬぞ……!」


信長は倒れ歪んだ床几を再び蹴り上げた。

森可成は信長が若年の時から傍に寄り添った重臣である。弟信勝と敵対した家督相続時にも、変節する事なく一貫して信長に追従してきた。

普段は寡黙だが、戦場で槍を取れば無類の強さを見せ、「攻めの三左」と言われた可成の武勇を、信長は愛していた。

そして一〇歳程も離れた、弟信治も目をかけて来た一族である。

苦楽を共にしてきた老臣と一族の死に、信長は一際深い悲しみを覚えていた。


義昭は京不在のまま敵が迫っている事を危惧し、いち早い撤退を望んでいるが、激昂している信長に、言葉など掛ける勇気は無かった。


周囲の誰もが押し黙り、不穏な空気に包まれる中、柴田勝家が本陣を訪れた。


「上様、浅井朝倉は今にも京都へ乱入する気配にございます……。京に攻め込まれてはどの様な混乱が起きるかも知れぬ、由々しき事態でございましょう……」


「その様な事は分かっておるわ!」


信長は当然分かり切った事を言われ、火に油を注がれた様に激昂する。

周囲には、更なる緊張が走った。

しかし勝家は神妙に続ける。


「ご無礼をお許しください。 然らば、私めが殿を務めます故、上様はお急ぎ京へとお戻ります様御頼み申し上げます」


「何を生意気な……!」


横にいる義昭は、その様子を驚きと恐怖の表情で見つめている。


(わざわざ要らぬ助言など……)


勝家は額に一筋の汗を流しながら、信長の怒りが冷めるのを待った。


「どうか、御決断をお願い申し上げます……」


暫くすると、信長は拳を握りしめ、苛立ちながらも言い放った。


「分かっておる! ここで指を咥えて見ていても仕方あるまい! 勝家の言う通り、ここは速やかに撤退いたすが得策であろう! お主の心意気通り、殿しんがりを任せる故、無事務めを果たすべし!」


「ありがたき幸せにございます!」


勝家は大きく頭を下げた。



信長にとって、かつてない危機的状況である。

摂津のこの戦線を放棄する事は大きな痛手であるが、京に敵が侵攻すれば、信長、そして義昭の積み上げて来た、畿内の権威は失墜する。この後も政権を存続させるには、京を抑える事が最も重要な事は、古今を通じて変わらぬ事実であった。


当然敵もそれは分かっている。

撤退を開始すれば、敵は容赦なく襲い掛かって来るであろう。加え、反織田勢力に加わった一向衆達も各地で邪魔をするに違いない。

勝家は重臣筆頭として、信長の危機に際し、命を捧げる覚悟を示したのであった。


「ここは体裁に囚われても仕方あるまい! 一刻も早く京へ上り、憎き浅井朝倉を再び蹴散らすまでよ!」


信長は意を決すると、得意の電光石火の進軍を開始したのであった。



柴田勝家隊、そして遊軍の和田惟政隊が殿となり、織田軍は速やかな撤退を開始する。

信長は義昭と共に、少数の武者達と先んじて馬を走らせた。


「退路はどういたす!」


馬を走らせながら信長が問うと、案内役は咄嗟に応える。


「敵の追撃を振り切るには江口より速やかに河を渡る事でしょう。渡舟が用意されております故、急ぎ参りましょう!」


「あい分かった」


淀川の下流に位置する江口を渡れば、都へは一日と掛からない。

敵の追撃も、いくつもの支流に阻まれ、速度は極めて遅い。撤退はそれほど困難ではなかった。

しかし、数刻後に河口へ到達した一行は言葉を失う。


「……船がありませぬ……」


茫然と川辺りを眺める織田軍に対し、対岸から大勢の嘲笑の声が響いてきた。


「仏敵信長はここが潮時じゃ! 急流に阻まれ死ぬがいい!」


本願寺に呼応して隆起した一揆勢は、織田軍撤退の報をいち早く察すると、信長の退路を塞ぐべく、舟を隠してしまったのである。

彼等は竹槍を片手に叫びあげる。


「どうした! 川を渡らねば三好軍が迫って参るぞ!」


江口川は宇治川・淀川の支流で、水量は多く、水勢もすさまじい有様で、昔から舟で渡るのが普通であった。徒歩では到底渡れない。


しかし信長は、そんな罵声は意に介さず、自らフゥと大きく息をつ吐いた。

そして川辺りを馬で乗り回すと、徐に水中へさぶりと馬を打ち入れたのである。


「上様!」


近習達は憂慮の声を上げるが、信長は声を張り上げると言った。


「皆の者! 臆する事は無い! 天はこの信長に味方だ! 付いて参れ!」


そう言うと自ら颯爽と川を渡り始めたのである。

命令一下、織田勢は不安な面持ちのまま、一斉に川へ入った。


「なんじゃ! 全然浅いではないか!」


水深は思いのほか浅く、雑兵たちも徒歩でらくらくと渡河することができたのである。


対岸で罵声を上げていた一揆勢は、続々と川を渡ってくる織田軍を見ると、いつの間にか雲散していた。




「上様は正に軍神に守られし御方じゃ」


兵士たちは信長の奇跡的な強運を目の当たりにし、心酔の度を深めたのであった。


奇妙な事に、織田軍が渡河したこの翌日から、

江口の渡しは急に水深が増し、徒歩での渡河は困難になってしまったという。



ともあれ、信長は同日のうちに義昭と供奉し帰洛を果たし、柴田勝家ら後続の軍勢も無事に撤退に成功したのであった。




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