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戦国立志伝・織田信長  作者: 意匠瑞
第六章 『信長包囲網』
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【 六 】 姉川の決戦

元亀元年(一五七〇年) 六月二八日早朝


闇を解き放つ様に東の彼方から薄らと陽が差し込み、朝を告げる鳥のさえずりが鳴り始めていた。視界を邪魔する微かな朝霧が織田軍を包み込み、戦闘中と思えぬ静寂が広がっている。


横山城を南方に望む竜ヶ鼻に陣取る信長は、緊張を解かず、戦場の絵図を見つめながら寝ずの夜を過ごしていた。


(憎たらしき奴め……)


義弟に裏切られた憤怒が込み上げては消えていく事を繰り返し、今後の方針について考えを巡らせる。近習達も、信長がいつ寝ているのかと思う程、彼は日頃から常に何事か思案し、行動していた。


信長はふと北方の姉川方向に目をやった。

霧の向こうに、何者かの気配を感じた為である。


(何事であろうか。尋常なモノではない……。物の怪の類か……)


じっと見つめていると、霧が次第に薄まり、黒い影が浮かび上がる。


信長はハッとし、目を大きく見開いた。

そして、静かに呟いた。



「まんまと謀られしよ……」



朝露に濡れた兜から雫が一滴零れ落ち、信長は不敵に笑った。



大依山から小谷へ退却したと見ていた浅井朝倉の兵一三,〇〇〇人が姉川を渡り、信長本陣のすぐ目の前まで迫って来ていたのである。隊伍を整え悠然と備える敵軍は、三〇町程手前で足を止め、不気味に静まり返っている。



「敵が迫って来ておるぞー!」



物見の一人が叫んだ。

織田軍は色めき立ち、使い番の武者が次々に馬を駆け巡らせ危急を告げる。

横山城を攻囲する形で南方向に陣取っていた織田軍は、突如後背から現れた敵に大きく動揺した。

信長は叫んだ。


「もたもたするな! 散った部隊を直ぐに呼び戻せ!」


織田の諸軍は騒然となりながら、慌てて北へ向けて方向転換を開始した。



冷静に事に臨んでいたかに見えた信長は、内心焦燥していた。


これ以上睨み合いが続けば、畿内の情勢にどのような影響が起きるか分からない。

三好衆がいつ京を襲ってくるかも知れない不穏な世情である。


「浅井が籠城を決め込むのであれば、早々に横山城を落し、急ぎ京の混乱を鎮めねば」


焦る彼は、浅井朝倉の消極的な姿勢にいつまでも付き合っておられぬと、横山攻撃へと急いだのである。


しかし事態は急変した。

織田軍は横山城包囲の為散開し、本陣は見事に敵軍に背を向ける形となっていた。

織田軍二〇,〇〇〇の内半数の美濃衆一〇,〇〇〇人あまりは攻囲の為山の裏手まで攻め入っている。


「背後を取られては無事では済まぬぞ! 急いで体勢を整えよ!」


騒がしく怒声が飛び交い、近くに陣取っていた坂井政尚隊二,〇〇〇・木下藤吉郎秀吉隊二,〇〇〇は、隊伍を崩しながら急いで信長の元に向かい集結し、本陣の前に割り込み盾を作る。

しかし、慌てて集う部隊は陣形を乱し、縦長に並ばざるを得ない。

「急ぎ隊列を整えよ!」


すると、織田軍の前方から俄かに大、大、大と法螺貝の音が響き渡った。

同時に、落雷の様な轟音と、大地を震わす振動が押し寄せる。


「来るぞ!」


浅井軍は一馬首を揃え、波を打つように一直線に前進を開始してきた。


「敵は弱卒ぞ! 怯まず迎えうて!」


織田軍からも応戦の法螺貝、陣太鼓の音が響き渡った。



決戦は瞬く間に始まった。



浅井軍は、磯野昌員・浅井政澄の精鋭部隊を先鋒に、鋒矢型の陣形で一直線に織田軍先鋒の坂井政尚隊に突入する。


敵の奇襲が始まると、織田軍から西方に陣取った徳川家康も、緊張を隠さず叱咤する。


「朝倉は我らに掛かって来るぞ! 各々準備を怠るな!」


同時に朝倉軍八,〇〇〇人も、徳川軍に向けて進軍を開始していた。



姉川を挟んだ河川敷は、血みどろの戦場へと一変する。

早朝の静寂は嘘の様に、鉄砲の轟音と人馬の嘶きと喚声に包まれる。


「敵は勢いに乗っておるぞ! 後れを取るな!」


織田家家老・坂井政尚は、息子尚恒と共に自ら槍をとり仲間を叱咤するが、敵将磯野昌員隊の勢いは凄まじく、前線の長槍隊は穂先を合わせる間も無く騎馬隊に蹴散らされる。

横列に伸びた坂井隊は、騎馬隊の突入により脆くも分断され取り囲むことも出来ない。後続からは敵足軽隊が次々に突入してくる。


「突破されるな! 包み込んで討ち取れ!」


政尚は怒声を上げ、敵足軽の胴めがけ槍を突き刺した。

しかし、敵勢は怯むことなく仲間を踏みつけ続々と隊列内に浸食し、孤立した侍から狙いを定め、蟻が群がる様に複数人で取り囲んでいく。


「こやつ等は槍を恐れぬか!」


坂井隊の侍衆は、軽装の敵足軽を大身の槍で払いのけるが、敵は何の躊躇も無く研ぎ澄まされた刃に飛び込んでくる。


「南無阿弥陀仏! 南無阿弥陀仏!」


浅井軍は浄土真宗の門徒を多く抱えており、彼等は「進むは極楽、退くは地獄」と信じ、命を顧みず襲い掛かってくるのである。

精強を誇る織田侍衆であるが、大勢の足軽たちに囲まれ苦戦していると、追い打ちをかける様に敵騎馬武者も襲い掛かかり、身動きを封じられた挙句、次々に槍玉に上げられる。

死を恐れず、念仏を唱えて襲い掛かってくる敵に恐れをなした織田の雑兵達は、主人を捨てて我先に逃げ出す。


「何をしておる! 逃げれば斬り捨てるぞ!」


物頭達は怒声を上げるが、混乱した部隊はみるみる内に左右に分断され、後退し始めた。


「腰抜け共め! 我らが踏みとどまれなくては本陣に危険が及ぼうぞ!」


政尚の息子尚恒は、若干一六歳ながら雄姿を見せ、少数の近習と共に、逃げる味方を掻き分け敵目掛け馬で突進する。

逆襲された浅井の足軽衆は槍を合わせ立ち向かうが、頑強な甲冑に身を包んだ尚恒に太刀打ちできず、槍に貫かれる。


「名も無き雑兵に後れをとるな! はじき返せ!」


若将の雄姿に一瞬怯んだ敵であったが、入れ代わり立ち代わり次々に新手が襲い掛かる。

尚恒は暫しの勇戦も空しく、みるみるうちに敵中孤立すると、四方八方からの槍に貫かれ首を取られた。


「尚恒! ……おのれ!」


息子を討たれた政尚は激昂し、単身敵中に突入しようと声を荒げるが、近習らに必死に抑え込まれ、止む無く後退する。

勇将を討ち取られた坂井隊は、浅井の猛攻に為す術も無く突き崩されると、四方へ散り散りに分散した。


「敵は脆いぞ! 一気に突き崩せ!」


息つく間もなく、勢いに乗った敵勢は、二番備えの木下秀吉隊へと突入する。


「来おったぞ! 散らず密集して迎えうて!」


秀吉は馬上で叱咤するが、浅井の猛攻は留まる事を知らない。闘牛の如き猛進は、勢いを増し、待ち構える木下勢に正面衝突する。


「何たる勢いじゃ! 矢玉を全く恐れぬぞ!」


浅井勢は、木下勢の反撃をものともせず、小船が水面を掻き分ける様に、ぐんぐんと信長本陣目掛け進んでいった。


暫しの時間も掛からず、木下隊も波に押し流される様に左右に後退を始める。



「これ以上敵を前進させるな!」


慌てて駆け付けた後詰めの柴田勝家隊・池田恒興隊らも本陣を守ろうと前線に合流するが、敵は勢いを増すばかりである。


「情けなし! 数では勝っておるぞ! 押し返さぬか!」


五,〇〇〇の浅井軍に対し、織田軍は一〇,〇〇〇程がばらばらと急場に集結してきているが、隊伍を乱し、どの隊も防戦一方である。


敵将浅井長政は自ら馬を操り、刀を掲げ部隊を鼓舞する。


「織田軍は数に頼った弱卒よ! 遠慮なく斬り捨てよ!」


長政はここにきて、眠れる獅子が目覚めたかのように勇敢に暴れ回った。その一糸乱れぬ采配は、軍神に憑りつかれた様である。

凄まじい長政の気迫に鼓舞された浅井軍は、倍する敵を圧倒し続けた。




いつの間にか陽が高く上がり、晴天が広がっている。


一刻(二時間)程の激戦で、織田軍の分隊は半数以上が蹴散らされ、浅井軍は信長本陣の目の前にまで迫っていた。

西方では徳川軍六,〇〇〇と朝倉軍八,〇〇〇も一進一退の白兵戦を繰り広げている。


「何をしておるのだ!」


痺れを切らせた信長は大声を上げ、自ら迎撃しようと馬に乗った。


「散開していたお味方も徐々に集まって来ております! 気を逸らせてはなりませぬ!」


近習が慌てて押しとどめる。


「愚か者共め! お主らに任せておけぬと言っておるのだ!」


信長は興奮しながら馬の手綱を掴む。

近習を斬り捨てんばかりの怒色を見せたが、ふと東後方を確認すると、気色ばんだ表情を緩め、ゆっくりと力を抜いた。

押しとどめていた近習は、慌てて馬の轡を握り締める。

信長は馬上のまま大声で叫んだ。


「前線に馬廻りを加勢させよ!」



先鋒・次鋒と次々に撃破した浅井軍は後援の池田隊もたちまち蹴散らすと、続く柴田勝家隊が寸前で必死に食い止めていた。柴田隊が崩壊すれば、残るは織田本陣のみである。

本陣の諸将は退却の二文字も頭をよぎっていたが、信長は手元の手勢を柴田隊に加勢に向かわせた。


「敵の勢いはとどまる事を知れませぬ! 危険かと……」


近習は信長近辺の守りが手薄になる事を懸念したが、信長は「時は熟した」と一言応えた。


馬廻り衆は、信長自らが選抜した武勇絶倫の猛者で構成された織田軍最精鋭部隊である。

数刻に渡る乱戦に、流石に疲労の色を隠せない浅井軍は、信長馬廻り衆が参戦すると、俄かに勢いが鈍った。

突進を続けていた敵騎馬隊も足を止め、防戦の色を見せる。



(もはやここまでか……)


浅井の諸将が思ったその時、浅井軍の先陣に、一際体躯の優れた青年武者が単騎、躍り出た。


「皆! ここが勝負どころよ! ここを打ち崩せば信長の首も取れたも同然じゃ!」


大将・浅井長政であった。


長政はここで勢いを削がれれば数で劣る自軍は一挙に崩壊し兼ねぬと、近習の静止も聞かず、馬を操り先陣に躍り出たのである。


「皆儂に付いて参れ!」


長政は危険を顧みず、自ら槍を振り回し、先陣をきる。近習達は主人を討たせてはならぬと、慌てて食らいつき、彼の周囲を取り囲むと、一団となって敵中へ突撃する。


「殿一人で行かすな!」


勇気付けられた浅井軍は、疲労も吹き飛んだかの様に、再び勢いを盛り返した。


「大将が自ら矢面に立つとは! 望み通り討ち取ってしまえ!」


信長馬廻り衆も気負いたち猛攻をしかける。


しかし、矢玉を恐れず捨て身の突撃を繰り返す浅井軍に圧倒され、押し返す事が出来ない。

長政は配下を手足の様に使い、先方と後方が入れ替わりながら攻撃する、繰り引きの戦法で、手を休めることなく猛追を仕掛け続けた。


遂に柴田も左右に後退を始めた。踏みとどまる馬廻りも徐々に後退している。

近習は信長に進言する。


「ここは一度後退すべきでは……!」


柴田隊を追いやった浅井軍は遂に信長本陣にたどり着き、槍を合わせた。



「今一度喚声を上げよ!」


長政は興奮しながら、突撃の合図を送ろうと刀を頭上に掲げた。

しかしその瞬間、凄まじい力でその腕を掴まれる。


「殿! 一度兵をまとめて下され!」


家老の遠藤喜右衛門であった。


「何じゃ喜右衛門! ここが好機ではないか!」


「後ろをご覧下され!」


喜衛門は凄まじい形相で後方へ指を指す。


「……おのれ!」


長政は、顔を怒らせ歯を食いしばった。

右方で徳川軍と乱戦を重ねていた朝倉軍が、俄かに後退し始めているのである。


(今一歩で打ち崩せると何故分からぬのじゃ……)


長政は憤り、このまま信長本陣へ突入しようと思ったが、喜右衛門は長政の目を見つめ、首を振った。


「前方もごらん下さい。横山城を攻撃していた敵軍も合流してきております。どのみち数では勝てません。徳川の横やりを受ける前に防戦体勢を作らねば、殿も首を取られましょう」


長政が考える間もなく、朝倉軍の退き貝の音が戦場に響き渡った。


「敵中孤立する前にお早く!」


喜右衛門は長政を促すと、一人敵中へと走り出した。


「喜右衛門どこへ行く!」


長政は驚き呼び止めるが、喜右衛門は「殿しんがりなくては退けませぬ! 儂にお任せ下さい!」走りながらそう叫び、去っていった。



戦況は一転した。



それまでひたすらに防御態勢であった織田の反撃が開始されたのである。


「多勢に無勢であったな! 形勢逆転となれば速やかに敵を追撃せよ!」


信長は大声を上げた。

退却寸前まで追い詰められていた信長本軍も俄かに前進を開始し、その左後方の山間から新手の美濃衆も雪崩を打つように丘陵を駆け下りてくる。

そして同時に、浅井軍の右方から徳川の分隊が突入を開始した。


猛攻を続けていた浅井軍は、突然の敵の反撃に大混乱する。


「一体何事が起きたのじゃ!」


それまで逃げる前方の敵しか目に入っていなかったが、突如として四方から大軍が押し寄せて来たのである。


「散るな! まんまるになり敵を食い止めよ!」


直ぐに頭を切り替えた長政は、大混乱に陥る味方を鼓舞し、冷静に敵の動きを見定めながら、円陣を組ませる。


「速やかに退き貝を鳴らせ!」


浅井軍は長政の号令の下、急速に転回し後退を始めた。


「逃がすな! 一人残らず討ち捨てよ!」


援軍を得た織田軍は、敵の混乱を見ると直ぐに攻勢に転じ、一斉に襲い掛かってくる。


攻守が変わると戦況は一変した。

浅井軍の雑兵は、それまでの猛攻が嘘の様に、我先に逃げ出し始めた。

長政も側近に守られながら必死に退却を開始する。

逃げる者の背中には次々に槍が投げつけられ、命乞いする足軽も容赦なく首を跳ねられる。

追撃の兵は長政の首を求め、それまでの劣勢の仕返しとばかりに、悪鬼の如く襲い掛かってくる。


「少しでも殿が逃げる時間を稼ぐのじゃ!」


遠藤喜右衛門は味方の武将・三田村左衛門、浅井政澄らの部隊と共に、戦場に踏みとどまって防戦するが、蟻のように押し寄せる敵軍に為す術も無く、周囲の味方は次々にやり玉に挙げられていく。



敵の退却を確認した信長は、陣中の床几に腰を下ろした。


「窮鼠とはよく言ったものだ……」


信長は義弟の長政の雄姿を見ると嘆息する。


(………愚か者め……)



陣所には物見の武者が入れ代わり立ち代わり訪れ、戦況を報告してくる。


「朝倉は徳川に打ち破られ、後詰の稲葉隊と共に追撃!」

「浅井の殿しんがり、浅井政澄、三田村左衛門らを早々と討ち取ってございます!」

「大将長政は近習に守られ姉川を渡り必死に退却しております」


信長は、続々と届く戦況報告に表情を変えず聞き入っている。

そこへ一人の武者が現れ言上した。


「三田村左衛門を討ったという足軽がお目通りを願っております」


信長は多少表情を緩め促す。


「誠か、通してよいぞ」


合戦で名のある侍首を取る事は大手柄である。

多くの近習に守られ、堅牢な甲冑に身を包んだ武者は、通常の者では討ち取れない。

具足も満足に揃えられない、名も無い足軽が武将首を取ったとなれば、その者の将来の栄転が約束されるのである。


信長は身分に関係なく勇者には相応の褒美を与える。



暫しの後現れたのは、乱髪を血に染めた中年の武者であった。顔は血泥に塗れ表情の判別も付かない。


「儂は三田村の首を討ち申しました! どうか直接ご確認を!」


目通りを許された足軽は、右手に三田村のモノと思われる首級を握りしめ、興奮収まらぬ様子で信長の前へ歩もうとした。


「無礼者め! 立場をわきまえぬか!」


屈強な近習が槍を掲げ制止したが、信長は片手を上げそれを制止すると、声高に言った。


「小身にも関わらず大儀である! 良いぞ、儂が直々に見てやろう!」

「ありがたき幸せにございまする!」


武者は喜び、軽快に歩みを進め、信長の前でかがむ様に俯いた。



「待たれよ!」



突如大身の槍が信長の前を横切り、ドスッという鈍い音が響いた。


「ぐっ……」


信長の目前まで歩み寄った足軽は、悶絶し膝を付く。

脇腹は鮮血に染まり、槍の穂が背中まで貫いていた。


「あと……、あと一歩であった……」


その者は、血に染まる腹を抑え、信長を睨みながら小さく呟き、倒れ込んだ。


その右手は、腰に挿した脇差の柄を掴んでいた。


「上様!」


陣所は騒然となり、すかさず側近達が信長の前に割り込む。

信長は、額に一筋の汗を流したが、表情は崩さず、倒れた足軽を見据えて一言呟いた。


「喜右衛門であったか……」


足軽は、敵将遠藤喜右衛門であった。

彼は敗戦濃厚と悟ると、自ら兜を脱ぎ捨て、指物を折り、討ち死にした味方の首を取り信長本陣に入り込んだのであった。

自らの命と引き換えに、刺し違える覚悟で信長の眼前にまで迫ったが、彼と旧知の仲であった馬廻りの竹中重矩に寸前のところで槍で刺されたのであった。


重矩は戦前から喜右衛門を討つのは自分だと豪語しており、急時に咄嗟の判断が出来たのであった。


信長は冷めた目で喜右衛門の亡骸を見下ろし、こう言った。


「喜右衛門は誠に剛の者であったが、仕える主人を間違えたようだな……」 


九死に一生を得た直後にも関わらず、薄らと笑みを浮かべながら、敵将に最大の賛辞を与えたのであった。



―――



「円陣は崩すな!」


織田軍は悪鬼の様に猛追を仕掛け、後方では逃げ遅れた足軽たちが次々に槍玉に掛かっていくが、長政は冷静に指示を送り、本軍へ付け入る隙を与えない。

援軍の朝倉軍は、遥か東の山間部へ向け、散り散りになりながら退却していくのが見えた。


(今一歩であったではないか……)


雲霞の敵に囲まれ決死の退却をしながら、口惜しく拳を握りしめた。


朝倉景健と共謀し、敵の兵が分散している隙に本陣に打撃を与える奇襲作戦であった。

朝倉があと僅かでも踏みとどまっていれば、信長本陣に突入でき、敵は大混乱を起こしていた筈である。混乱に乗じ、信長の首を討つ機会も十分にあったかもしれない。

しかし、今一歩のところで横山城の備えとして展開していた織田方の美濃衆が駆け付けると、それまで徳川軍と互角の攻防を繰り広げていた朝倉軍は、脆くも崩れ去った。


「退路を塞がれてはかなわぬ!」


元々士気の低かった景建は、数知れない敵の増援に恐れをなし、直ぐに逃げ腰となったのである。

朝倉を蹴散らした美濃衆・氏家隊は右方から浅井軍へ突撃を開始し、左方からも増援として駆け付けた稲葉隊が突撃する。

浅井の猛攻により散り散りになっていた信長本軍も息を吹き返し、形勢は一挙に逆転したのである。


長政は近習に守られながらようやく姉川を越え小谷へと向かう。

織田軍の反撃は苛烈を極めているが、喜右衛門、浅井政澄ら殿軍の犠牲により、窮地を脱する事ができたのであった。


「憎き長政め! まんまと逃げよったわ」


織田軍は小谷城下まで攻め寄せ、街は再び業火に襲われた。

信長は憤りを隠さないが、難攻不落の小谷城を直ぐに落とす事は困難であると悟っている。



すると諸国に放っていた間者の一人が現れ言上した。


「畿内の三好衆に不穏な動きが……」


信長は歯を食いしばり、更なる憤怒の表情を浮かべた。


「忌々しき奴らめが、次から次へと……」


小谷城へ長政を追い込んだ織田軍であったが、城の攻囲を早々に解くと、孤立した横山城攻撃へと移り、瞬く間にこれを落とした。


そして城代に木下秀吉を置いて守備を任せ、一先ず本国へと凱旋する。




土埃に塗れながら小谷城に帰還した長政は、横山城を見捨てる事しか出来ず、拳を震わせていた。

喜右衛門の諌止により、速やかに退却を開始した浅井軍は、喜右衛門・政澄らを討ち取られたものの、壊滅とまではいかなかった。


長政は、遠く姉川に続く平原に転がる戦死者たちを眺め、唇を噛みしめる。


(このままでは終わらぬぞ……!)


数刻に及ぶ激戦は、浅井朝倉両軍一,〇〇〇名以上の死者を出し、雌雄を決した。




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