【 五 】 膠着
六月二十四日
「越前より朝倉の軍勢およそ八,〇〇〇人が浅井の後詰に参ったようです」
横山城攻撃の為、姉川の南・竜ヶ鼻へ本陣を置いた信長の元に、物見の武者が駆け付け注進する。
「大将は義景であろうか」
「いえ、朝倉義景は一乗谷に在城しており、大将は親族の景健かと」
「やはりな。臆病者の義景は戦が嫌いな様じゃ」
信長は鼻で笑った。
朝倉家内では、金ヶ崎城の景恒が失脚すると、景健・景鏡といった親族衆がそれぞれの利権を振るおうと反目しあっている。
主君義景は遊行に耽り、自ら戦に臨みもしない事から、彼らの不満は蓄積しているであろう。
「士気の上がらぬ朝倉と小勢の浅井など一気に切崩してくれるわ」
信長は険しい表情で吐き捨てる様に言った。
「敵陣に動きが!」
物見の武者がおもむろに叫んだ。
小谷城に引き籠っていた浅井軍は、朝倉の援軍に呼応するように俄かに動き出した。
「こちらに向かってくるか!」
織田軍の緊張は一挙高まる。
浅井朝倉連合軍は合流すると、小谷城東方の大依山へと移動し、そのまま布陣した。
浅井軍五,〇〇〇、朝倉軍八,〇〇〇の総勢一三,〇〇〇の軍勢である。
「皆隊列を組み、戦闘準備を怠るな!」
織田軍の物頭達の叱咤が飛び、湖東の平原は鳥の囀る平穏な情景から一変し、張り詰めた空気に包まれた。
本陣で余裕を見せる信長は平然と言う。
「臆する事は無い。我らは敵に倍する数じゃ。正面衝突すれば負ける事はあり得まい。のう、家康殿」
軍議に参加していた家康は、信長に遠慮しながら静かに頷いた。
「ごもっともでございます。我らがここに陣取っておれば敵は正面より攻めざるを得ません故……」
織田軍二〇,〇〇〇人には徳川軍六,〇〇〇が加わっており、俄然有利なのは織田側であった。
(朝倉の援軍に勇んだか。 来るなら来てみよ長政。一ひねりにしてくれるわ……)
信長は遠く先の浅井の旗印を睨みつけ、敵の襲来を待った。
―――
六月二十七日
盛夏の睨み合いは数日に及んだ。
晴天続きの戦場は強い熱気に包まれ、視界の先は靄がかっている。
騒がしく蝉が嘶く前方の小山に陣取る浅井朝倉連合軍は、整然と構え、未だに動く気配を見せない。
「何じゃ、やる気はないのか。数で圧倒する我らに臆したか!」
臨戦態勢に入った織田軍は、戦況が進まない事に苛立つ。
織田家の筆頭家老・佐久間信盛は息巻いて進言した。
「いつまでも弱敵に関わっては天下の情勢も不穏でしょう。ここは川岸まで前進し、浅井に決戦を促しませぬか」
しかし、信長は被りを振り、淡々と語った。
「数で劣る奴らが、正面から向かってくる事はなかろう。我らがしびれを切らせ、川を渡るのを待ち構えているのであろうよ……」
炎昼の陣は兵士たちの苛立ちと疲労を蓄積させる。
膠着が続けば自ずと士気は下がってくるが、信長は自ら動こうとはしなかった。
信長は敵の旗印を見ながら考えに耽る。
(浅井が臆病風に吹かれて仕掛けて来ないのであれば、小谷の首元である横山城を攻め落とせば良い。横山城が手に入れば、分断された京都、美濃間の補給路が確保でき、危急の事態はひとまず回避できる。その後は、浅井側についている国人衆に対し調略を進め、手足を徐々に捥いで行けば良いのだ)
長期戦によって相手の消耗を待つ作戦は、信長の常套手段である。
ここで無理に戦を仕掛け、思わぬ損害を受ければ、畿内各国に及ぶその影響は計り知れない。横山城を落せば、織田軍の面目は取り敢えず保たれる。
(横山を捨てる程度の愚将であれば、それで良い。挑んでくるのであれば打ち崩すまでよ……)
憎悪に燃える内心とは反し、彼は一際冷静であった。
織田の諸将がこのまま膠着状態が続くのかと半ば諦めかけていると、前方の敵軍が俄かに動き始めた。
「敵本陣が騒がしいぞ! いよいよか!」
物見が叫び、瞬時に陣営に緊張が走った。
「皆いつでも動ける様抜かるな!」
物頭達の叱咤が飛び、兵士たちは鼓動を高め、武者震いを抑える。
(浅井の弱卒などひと揉みに蹴散らしてやる……)
興奮を抑え、敵が眼前に迫るのを、今か今かと待ち侘びる諸将は再び拍子抜けた。
「あれを見よ! 小谷へと逃げていくではないか!」
織田軍が注視する中、山頂の浅井朝倉軍は速やかに陣を払い、小谷城の方角へと退却を開始したのである。
「なんじゃ! 腑抜け共め!」
織田軍の諸将は嘲笑う。
そして織田軍が見守る中、浅井連合軍はみるみるうちに大依山から姿を消していった。
「追撃いたしますか」
側近の諸将は口々に言うが、信長は応じない。
「いや、小谷までは目と鼻の先。追いつけなかろう」
そう吐き捨てる様に言った。
(勇将と思っておったが、所詮は小倅か……)
彼は表情を崩さず立ち上がると、大声で叫ぶ。
「よかろう! 臆病者の要望通り、横山城を落してしまえ!」
信長は決戦を諦め、全軍に横山城を攻める様指示を行った。




