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戦国立志伝・織田信長  作者: 意匠瑞
第六章 『信長包囲網』
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【 三 】 圧迫

六月一九日

「過日の恨みを晴らすは今ぞ! 儂を裏切った事を後悔させてやるわ!」

無事美濃へと凱旋した信長は、休むことなく出陣の命を下した。



去る五月九日には京を出て岐阜に向かったが、それを察知した朝倉義景は、一族の朝倉景鏡を総大将とする大軍を近江に進発させた。

朝倉軍は浅井軍とともに南近江まで進出し、湖南で兵を挙げた六角義賢と連携し信長の挟撃を図ったが、信長は伊勢路へと通じる千草越えを決行し、五月二十一日に岐阜への帰国に成功したのである。


この千草越えで、信長は危うく命を落すところであった。


「峠越えは道狭く護衛も少なくならざるを得ませぬ。少々危険かと……」

諸将は美濃凱旋へと気を逸らす信長を諫めていたが、彼はこれを一蹴した。


「悠長な事を言っている場合ではないわ! ぐずぐずしておれば長政めに出し抜かれよう!」

敗戦後、怒り収まらぬ信長に、諫言出来る者はいなかった。


信長は六角軍が待ち構える街道を避ける為、少数の部下と共に伊勢方面に抜ける千草越えの敢行を決める。


細い山林の道を縦列に馬を走らせる信長一行は、突如山間に響き渡る「どーん」という轟音を聞き、馬を止めた。


「何事じゃ!」


木々に囲まれた小路では視界が狭く周囲を見渡せない。一瞬の轟音の後、林間は静寂に包まれている。

色めき立った馬廻り衆は慌てて辺りを警戒するが、その音源は分からない。


「……うぅ」


すると信長は馬上で頭を傾け、よろめいた。


「上様!」


諸将は騒然となり、信長に駆け寄る。周囲には焦げ臭いにおいが漂っていた。


「心配いらぬ……。 どうやら天は儂を生かすつもりの様じゃ」


信長の袖には焼け焦げた穴が開き、腕からは鮮血が見えたが、彼は顔を上げると冷静に言った。

至近距離から鉄砲の狙撃を受けた信長であったが、その弾は彼の腕をかすめただけで袂を通り抜け、奇跡的に軽傷で済んだのであった。


その様子を見たのか、前方の木陰から黒い影が凄まじい速さで走り去っていく。


「待たぬか!」


侍たちは馬を走らせその影を追ったが、木々に阻まれ取り逃してしまった。


「まぁ良い! 今は一刻も早く美濃へ帰らねばならぬ!」


一行は足場の悪い林道をひた走った。


信長を狙撃したのは杉谷善住坊といい、六角義賢から雇われた甲賀の土豪である。

彼は鉄砲の名手として知られていた。

善住坊は信長の退路を予測し、供回りが護衛し辛い小道を選び、準備周到に待ち構えていた。

そしていざ信長を確認すると、僅か十二,三間(約二十メートル)の距離で狙撃を敢行したのである。

火縄銃の弾は空気抵抗を受けやすく、現在の拳銃に比べ集弾率は非常に悪いが、五十メートル以内の距離であれば一般の足軽でも比較的高い狙撃率であったと考えられている。

善住坊は鉄砲の名手として知られており、凡そ百メートルの距離からでも的に当てられる腕前であった。

いくら馬で駆け抜ける相手であっても、十二、三間程度の距離で外す訳が無い。

しかし、どういう訳か頭を狙った弾道は大きくそれ、信長の腕をかすめるに至ったのである。


「天のいたずらと申すのか……!」


彼は狙撃の瞬間に強い風が横から吹き抜け、手元が狂ったことに驚愕した。

そして信長の神がかり的な強運に恐怖し、林間へと消えていったのである。


九死に一生を得た信長は、そのまま千草越えを敢行し、美濃へと凱旋した。


暗殺に失敗した六角義賢は六月四日、湖南を防衛する佐久間信盛、柴田勝家らと落窪(現・滋賀県野洲市乙窪)で衝突するが、即席の一揆勢では精強な織田軍に太刀打ち出来ず惨敗する。

この為、浅井長政は坂田郡を領する有力国人である堀秀村を長比・苅安尾両城に入れ織田軍に対する迎撃態勢を築いた。

近江戦線は膠着状態となり、長期戦の様相を見せた為、六月十五日に朝倉軍は越前へ帰陣したのであった。


「もたもたしておれぬわ!」


長政への憤怒が抑えられぬ信長は、一刻も早く一戦に臨み浅井家を壊滅させたい。

しかし、各所で一揆が隆起する不穏な状況下では、無暗に仕掛けられず苛立つばかりである。


そんな折、木下秀吉が言上した。


「長比城の堀秀村は十五歳という若年の為、家老の樋口直房があれこれ指図し家内を統治しているとの事。我が陣営の竹中重治は樋口と旧知の知り合いとなれば、調略いたして参りましょう」


「左様か。事が上手く運べば戦況は大きく変わろう」


信長は秀吉の策を採用した。

竹中重治は信長が美濃を攻めあぐねていた永禄七年(一五六四年)まで斎藤家に仕えていたが、突如謀反を起こし僅か十名ばかりで城を乗っ取った鬼才である。

その後どういう訳か城を主君の斎藤龍興に返還し、近江国の樋口直房の下へ蟄居し世話になったという過去があった。

堀家は湖東の近江国坂田郡を支配する有力国人である。小谷城の南部に位置し、美濃・南近江と浅井家本家を結ぶ要所を抑えている。

重治はさっそく直房の元を訪れると、神妙に語った。


「浅井は朝倉の後ろ盾無く我らに挑む事は出来ませぬ。しかしながら頼みの朝倉義景は将器に値せぬ臆病者です。矢面に立つ堀家は捨て駒になる事は明らかでしょう」


樋口直房は堀家に代々仕える家老であり、若年の秀村を補佐し家中を盛り立てて来た。兵法・軍略に通じ、優れた民政家でもあったため、人望も厚く近江一の智謀の将と謳われた人物である。

故に世の時勢には一際敏感であった。


「竹中殿の言われる事はもっともであります……」


直房は浅井長政が命運投げ打って堀家を助けるとは思っていない。更に凡庸な朝倉義景になど何の期待も出来ないと踏んでいた。

しかし、苛烈と評判な信長に投降する事で、どの様な扱いを受けるかという不安も拭えず決心がつかなかった。

重治は直房の不安を読み取り、決断を促す。


「お主の不安も最もでありましょう。しかしながら、今は一刻も早く長政めを討ち取らんと焦燥しておられる状況なれば、今お味方すれば信長公は存外にお喜びになるかと」


重治は冷静に直房の目を覗き込む。


「追従するならば今を置いて無いでしょう。時機を逃せば災いを呼び込むやも知れませぬぞ……」


直房は額に汗を浮かべ、小さく頷いた。

重治はすかさず唱える。


「ご心配は無用。儂が上役の木下秀吉が信長公との間を取り持ちましょう。秀吉殿は信ずるに値する御方ですぞ」


「……当家の命運はその秀吉殿に委ねよう」


重治の意図を読んだ直房は、ここで浅井家に忠誠を尽くし討滅されるよりも、織田家に投降する事が得策であると判断した。

卑賤上がりの木下の名は近国に聞こえている。

信長の覚え高く、好人物と評判の彼が間に入るのならば、無下にはされないと思い、秀村を説得し、織田家の傘下に入る事を決したのである。



「猿よ、よくやった! これで弊害なく長政めの首を落せよう!」

いち早い湖南の奪還を望んでいた信長は息巻いた。

帰城したばかりの信長であったが、六月十九日、早くも岐阜を出立し、その日のうちに長比城に入ったのであった。


そして二十一日、長比城を出た信長は小谷城から数里南方の御虎山に布陣すると、森可成、坂井政尚、柴田勝家、佐久間信盛、蜂屋頼隆、木下秀吉、丹羽長秀らに命じて、小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き払わせる。



「見ておれ長政。儂に盾突くとどうなるか、目にもの見せてやろう……」



信長は燃え盛る眼下の町並みを睨みつつ、ギリリと歯を食いしばった。




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