【 二 】 朽木越え
「浅井は小谷から琵琶湖東を北上しており、直接美濃へ向かう事は出来ませぬ。丹後道から国吉城を経て、九里半、そして朽木を越え京へと参りましょう」
信長と共に馬を走らせる森可成は、並走しながら言上した。
「よかろう! 退路で味方する者はいるか」
「湖西は朽木家の領地にございますが、浅井とは不仲となれば、我らに合力するかと」
可成が言うと、追走する松永久秀も割り込み告げる。
「朽木は確かに浅井と決別しておりますが、当主元網は未だ若年。あれこれ迷っているでしょう。 儂が先に行き、説得いたして参りましょう」
そう言うと、馬を加速させ先に走り去った。
信長一行は浅井朝倉の追撃を振り切る為、少数の供回りと共に、全速力で馬を走らせている。
金ヶ崎で敵を食い止める木下軍の前には、既に雲霞の大軍が押し寄せていた。
「無駄死にするな! 上様が無事若狭を抜ければ我らも急いで帰るぞ!」
秀吉は共に戦う諸将を励ますが、自らの死をも覚悟していた。
一方、織田軍の退路にあたる湖西の領主朽木元綱も、危急の報告を聞き、浮足立ち、家老を集め軍議を開いていた。
「浅井の離反で織田は退路を塞がれ、我らの領地を通過する見込みが高いとの事……」
二十一歳の若将は、眉間に皺を寄せ苦悩していた。
「ここは出方を間違えれば当家の将来にも関わろう。いかがいたすか……」
朽木家は琵琶湖北西部高島郡を支配する国人大名である。元々足利幕府の奉公衆でもあり、将軍家との繋がりも強い。しかし戦国の動乱により勢力は衰え、六角家や浅井家に服属する事で家名を保ってきた。
昨年までは浅井家の支配下に組み込まれていたが、義昭が将軍になるとその権威を背景に浅井家と交わした起請文を破棄し、独立していた。
(ここで信長の退路を塞げば将軍に歯向かうことになる……。しかしこの太守を討てば京へ攻め入り望外な利益を得られるやも知れぬ……)
美濃への退路を浅井軍に塞がれた信長は、湖西の朽木峠を越えて退却する他手が無い。
ここで朽木家が足止めすれば、信長の首は落ちたも同然であった。
元網は額に汗を滲ませ、拳を握る。
血の気盛んな若将は、北近江の一郡を支配する程度の小領主から大躍進できる機会かも知れぬと、野心が芽生え始めていた。
考え込む元網に対し、家老の一人が口を開いた。
「信長を匿う事も一考と存じますが、尾張、美濃、近江の大大名を討ち取るという当家にとってまたとない好機でございます。そうなれば浅井朝倉の後ろ盾を得、京を制圧する事も夢ではございませぬ」
伏し目で考え込んでいた元網は、顔を上げた。
家老は続ける。
「ここは我らが小国の領主に与えられた一世一代の好機と捉えられぬでしょうか……」
元網は不安な面持ちのまま周囲を見渡すと、語り出した。
「中々に難しき決断だが、このような機会はこの後起こり得まい……」
思案し、ぼそぼそと語る元網であったが、徐々にその声も大きくなる。
「ここは一世一代の好機と捉えようではないか。 信長を迎え入れ、安心させたところを討ち果たし、朝倉への手土産と致せば、思いもよらぬ繁栄の端緒となろう。 皆、儂に付いてきてくれるか!」
当主の言葉に促され、一座の諸将は静かに頷き合った。
「織田家の使者が参ってございます!」
軍議の最中、徐に小姓が入り告げた。
元網はじめ、家老衆は皆一斉に緊張の面持ちを見せる。
元網は予想よりも早い織田家の使者到着に動揺しつつも、面会を許可した。
「……分かった。通せ……」
暫しすると、白髪交じりの初老の将が姿を現した。
その男は、年老いも見せず悠然と広間に現れると、居並ぶ朽木家の諸将を恫喝する様に睨みまわし、元網の前に座りこみ、徐に語り出す。
「久しく会わぬうちにご立派になられましたな……」
織田の使者として現れたのは松永久秀であった。
周囲の諸将は、戦場往来を重ねた久秀の迫力に圧倒され押し黙り、対面する元網もごくりと唾を飲み込んだ。
「……これは久秀殿でありましたか。 この度は如何なされましたか」
朽木家は旧来より政争に敗れた将軍を領地に匿ってきた。
三好長慶との畿内の覇権争いに敗れた前将軍義輝も、一時ここに身を隠した事がある。
その際、将軍と三好家との取次ぎ役であった久秀とは、面識があった。
当時幼少であった彼は、獰猛な野獣の如き殺気を放つ久秀と会うと恐怖した。
(三好を裏で操る魔物との噂、真実の様じゃ……)
元網は、過去に恐怖した男が眼前に現れると、泰然自若と出来ず、目を左右に泳がせ、自然に額から汗が浮かび上がる。
「なにを惚けた事を。 儂の主君が絶体絶命の危機である事は御存じでしょう」
久秀は穏やかな口調ながら、元網を睨みつけた。
元網は多少早口になって返答する。
「それは虚報と思いしが、誠でありましたか!」
大袈裟に驚いて見せた。
久秀は鋭い表情を崩さず、淡々と告げる。
「然らば、信長様を無事京へ送り届ける為、合力を願おう」
元網は絶句した。
(何故このように高圧的に話すのじゃ……。 われらの合力無くして生きて帰れぬのではないのか……)
元網は圧倒的有利な立場である筈の自分が、久秀に威圧されている事に戸惑う。
(……まさか先ほどの話を聞かれていたのか。 いや、そんな筈はない。 当家を甘く見ておるのだ……!)
そう心で唱え、多少不満げに久秀の目を見返す。
しかし久秀はその様子を察し、強い口調で言う。
「何を黙っておるのです! ここで信長様を助ければ、小身ではとても手に入らぬ膨大な恩賞が得られるのですぞ!」
久秀のドスの利いた声に、元網は首を竦めた。
暫しの沈黙の跡、小声で応える。
「……分かっております! 幕僚である我らが、将軍の同胞を邪魔立てする訳がございません! 直ぐに我が城へ迎え入れましょう」
その言葉を聞いた久秀は途端に笑顔になった。
「それは誠ありがたい事じゃ。信長様はもう近くまで来ておる。直ぐに呼び寄せよう」
そう言うと速やかに広間を後にした。
残された元網、そして家老衆は一同にため息をついた。
(何たる威圧感……)
元網は、背中が汗でびっしょりと濡れているのを感じていた。
元網は急いで信長を迎え入れる準備を始め、門前で迎える。
近場で朽木家の動向を伺っていた信長は、久秀に促され、直ぐに姿を現した。
「これは信長様。大変に危うき状況と聞き申しました。我らが合力いたしますなれば、峠を越える道案内を致しましょう」
森可成ら二十人程の側近と共に、門前に到着した信長は、埃にまみれた顔を拭い応じる。
「これはありがたい。無事帰還後は思うままの褒美を与えよう……」
礼を言うが、緊張を解く様子はなかった。
元網は信長の鋭い眼差しから目を逸らし、再び冷や汗を浮かべるが、悟られぬ様必死に平然を装い、信長一行を城内に迎え入れた。
「今宵はお疲れでしょう。闇夜に峠を越える事は出来ませぬ。まずは城内でお休みになられ、明朝急ぎ参りましょう」
「……あい分かった」
信長は周囲に注意しながら城内へと入り、用意された屋敷へと入ると、それまで溜め込んでいた疲労が吹き出したかの様に、どすんと座り込んだ。
朽木家の家臣団は茶菓子などで信長一行をもてなす。
元網は不気味な威圧感を放つ信長に、臆しながら恐々と語り掛ける。
「これは大変な事態でございましたな。敵もここまでは容易く来れぬでしょう。暫しゆっくりとお休みください」
信長は表情を崩さず元網を睨みつける様に言う。
「浅井がよもや裏切るとはな。お主の合力感謝いたそう」
元網は慌てて頭を下げる。
「め、滅相もございませぬ! 我らは幕府の奉公。義昭公の名の下、信長様をお助けするのは当然の事」
「……左様か」
信長は多少疲れた様子で茶を口に含んだ。
すると横に控える松永久秀は静かに信長に語り掛ける。
「浅井如きが上様に盾突こうとは、なんと愚かな事でしょう。帰国後は直ぐに征伐軍を組み叩き潰しましょうぞ」
信長は久秀の言葉を聞くと顔を赤らめて大喝した。
「何を当たり前の事を! お主に言われなくとも必ず後悔させてやるつもりだわ!」
「……ひぇっ!」
正面の元網は驚き仰け反った。
信長の気合に圧倒され、顔じゅうから汗が吹き出し、足の震えを必死に抑えた。
(なんと恐ろしき御方なのだ……)
一喝された筈の久秀は表情を変えることなく、元網の様子を静かに見つめていた。
「……今宵は休ませてもらおう。明日は日が昇り次第直ぐに出立致す」
信長が告げると、元網は畳に頭を叩きつける様に叩頭する。
「畏まりました! 配下衆にその様に厳命しておきまする!」
そう言い、信長に用意した屋敷を後にした。
消沈し城へ戻る元網の耳元で家老が囁いた。
「殿、いかがいたしますか。実行するなら寝静まった時に……」
「黙らぬか!」
元網は家老を一喝した。
そして周囲をきょろきょろと見渡す。
「大層な事を申すな……! あの様な魔物を殺せる訳が無かろう……!」
そう言うと、肩を落として城内へと消えていった。
元網は、天下を切盛りする男の存在感に圧倒された。
(浅はかな謀殺の計画など最初から見透かされていたのではないか……、それでも堂々と入城するという事は何か策略を用意しているからなのか……。いや、儂の計略など端から意に介す必要も無いという事なのか……)
独り言を呟きながら拳を握りしめた。
「儂は、信長様はおろか、陪臣の松永にすら到底及ばぬではないか……」
天に選ばれし者の器量をまざまざと見せつけられた彼は、自らの妄想を恥じ、信長を無事京へと送り届けることを決心したのであった。
明朝直ぐに出立した信長は、元網の案内の下難所の朽木峠を越え、琵琶湖西部を南下すると、四月三十日には京へと帰還する事ができた。
僅か十名程の供回りで入洛する程、命からがらの逃避行であった。
「よくぞ無事で帰った!」
将軍足利義昭は焦燥しながら屋敷の門前まで信長を迎える。
内心の不満は感じながらも、信長が今いなくなれば、自分一人では到底天下の治世を維持出来ない事は理解している。
(信長は浅井朝倉に挟み撃ちに遭い、討ち死したようじゃ……)
洛中ではそのような噂があっという間に広がっており、早くも強盗野盗が出没するなど治安が乱れているのである。
信長は鋭い眼差しで義昭に訴えかける。
「将軍の命に背いた者は只では済ませませぬ……!」
義昭は目を逸らし「当然じゃ……」と呟いた。
信長は即座に美濃へと凱旋し、全兵力を挙げて浅井家を叩き潰したいが、上洛戦に敗北し甲賀へと逃亡していた六角親子が決起し、美濃へと続く街道を閉鎖しているとの情報を得ている。
「焦りは禁物じゃ。まずは洛中の混乱を鎮めるべきか……」
信長は京に暫し滞在する事とし、改修中の御所を視察するなど窮地を脱してきた素振りも見せず、平然と振舞って見せる事で自身の健在を示し、洛中の治安維持に努めた。
翌日、織田軍本隊を率いた池田勝正、明智光秀が帰陣し、続いて最後まで殿を務めた木下秀吉も遅れて到着する。
「猿よ! よくぞ無事で帰った!」
御前に現れた秀吉に向かい、信長は声高に言った。秀吉は素早い動作で頭を下げる。
「猿めは、まんまと生き延びて参りました」
泥に顔を汚した秀吉は軽快に返答するが、さすがに疲労の色は隠せない。
「ご苦労であった。暫しはゆっくりと休むがよい」
信長は厳しい表情を浮かべながら、その労をねぎらい、論功賞として黄金を与え退出させた。
「……命からがら、ようやく生きて帰ったのに冷たい限りじゃ……」
蜂須賀小六は多少不満を口にするが、秀吉は被りを振った。
「何を言う。殿は殊の外喜んでおられたぞ」
秀吉は、信長の顔に出さない喜びと自身への慈しみを感じ取り、満足していた。
木下軍は敵の激しい追撃により、多くの死傷者を出しながらも、何とかその猛追を振り切った。しかし、追い打ちを掛ける様に、その退路を三,〇〇〇もの盗賊に塞がれ、危うく命を落すところだった。
しかし、秀吉の采配の下団結した木下軍は、大きな被害を出しながらも、何とか盗賊を蹴散らし、見事帰還を果たしたのであった。
本軍を回収した信長は、美濃への凱旋の時期を計りながら、宇佐山城に森可成、永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土城に中川重政らを配置し、体制の立て直しを図った。
(浅井が朝倉と組んだところで、この後の世はどうなる。 腑抜けの義景如きが、天下に覇を唱える気概があろうか……)
抑えきれぬ憤怒に燃える信長には、小姓達も近寄れなかった。




