【 九 】 伊勢侵攻
堺衆への懐柔に成功した信長は、畿内の基盤を確保する一方、停滞していた伊勢(三重県)への侵攻を本格的に開始する。
彼は美濃攻略に苦心していた永禄十年(一五六七年)頃から、配下の滝川一益に命じ伊勢への侵攻を開始しており、北伊勢国人・神戸氏に三男の織田信孝を、同じく長野氏には弟の信包を養子として迎え入れさせる事で和睦・懐柔していた。
当時上洛を控えていた信長は、伊勢で徹底抗戦される事を憂い、我が親族を養子に入れさせるという半ば強制的な和睦と言う形で、北伊勢八郡の支配を固めるに至っていたのである。
そして永禄十二年、畿内の動乱も一先ず押さえた信長は、遂に南伊勢への侵攻にも本腰を入れる。
「後背の憂いは取り除かれた。伊勢は大国なれど、一国を牽引するほどの勢力も無く、未だ小豪族の割拠する閉鎖的な土地柄だ。小国で貧しい暮らしを続けるよりも大国の庇護下の方が庶民も平和な暮らしが出来るというもの」
伊勢国は五十六万石という尾張・美濃にならぶ肥沃な土地であったが、大勢力を張る大名は存在しなかった。信長はこの伊勢を支配下に置くことで、全国でも並びない大大名へと更なる邁進ができるのである。
南伊勢五郡は国司である北畠具房が勢力を誇っていたが、織田軍に対抗しうる勢力ではない。信長はこの期に一挙に殲滅するつもりである。
北畠家・前当主具教は、剣豪塚原卜伝から奥義「一の太刀」を伝授される程の豪傑であり、強力な君主として支配体系を築いていたが、永禄六年に息子の北畠具房に家督を譲り、隠居していた。
しかし、具房は父に似ず、肥満し愚鈍な人物であった。
「当主たるべき威厳を示すべし」
具教は、息子が当主の座に付けば、多少の気概も起こすと思っていたが、その期待に応える訳でもなく、常に自身に頼るばかりである息子を、今では疎ましくも思っている。
「こやつに任せていては北畠も終わりじゃ……」
優柔不断な息子に代わり、北畠家の実権は未だこの具教が握っていた。
五月、伊勢攻略を一任されている滝川一益は、北畠具教の弟である木造城の木造具政を調略により寝返らせる事に成功した。
「何と浅ましき弟じゃ! 決して許しては置けぬぞ!」
これに激昂した具教は8,000の総力を以て木造城を包囲・攻撃した。
一益は直ぐに木造城に援軍として馳せ、同時に信長に状況を報告する。
「具教自ら、遂に動き申しました」
一益の報告を聞いた信長は、不敵な笑みを見せ呟いた。
「遂に南伊勢へ侵攻する大儀を得た。六角に三好に堺衆と続き、儂に歯向かう者はどうなるか分からせてみせよう」
一五六九年(永禄十二年)八月
信長は五〇,〇〇〇人もの大部隊を編成し、滝川一益及び木造具政の守る木造城へと入城した。
一益は信長を迎え入れると告げる。
「具教は上様の御出陣を知り、逃げる様に本城の大河内城へと戻り申しました」
信長は報告を聞きながら、一益の横に控える男に声を掛けた。
「お主が具政か。具教も実の弟に裏切られさぞ怒り心頭であろう。しかし儂に歯向かうとは凡そ時勢を読めぬ愚か者のようだ」
具政は圧倒的な威圧感を放つ信長に突然声を掛けられ、驚き咄嗟に頭を下げる。
「お主は時代の流れを分かっておるな! この戦が済めば、お主には相応の恩賞を与えよう」
信長は笑いながら具政に語り掛けた。
具政は目を伏せ、大粒の汗を流しながら「ありがたき幸せにございます……」と小声で応じた。
具政を先陣に大河内城へと向かった織田軍は、支城を次々に落とし、瞬く間に大河内城を包囲した。城には北畠具教・具房親子八,〇〇〇人程の城兵が立て籠もっている。
「敵は小勢じゃ! 我攻めで落としてしまえ!」
織田軍は城を包囲すると、周囲に鹿垣を二重三重に張り巡らし、徹底的に封鎖する。そして逃げ場を塞ぐと同時に果敢に我攻めを仕掛けた。
しかし、気負い立つ織田軍であったが、予想外に城側の抵抗は激しかった。
大河内城は東に阪内川、北に矢津川、西側と南側には深い谷が入る自然の要害であった。大軍で取り囲んでいても攻め入る場所は限られており、密集して攻め上がる寄せ手は矢玉の格好の的となるのである。
苦しむ味方を踏みつけ、屍を乗り越えて進む兵士は、先頭に立つものから瞬く間に狙撃され、折り重なるように仲間の遺体の上に倒れこむ。数刻にも及ぶ我攻めにも味方は城門までもたどり着けない。
数日に及ぶ強攻も敢え無く失敗し、城攻めは膠着状態となる。
「なにをしておる! 口うるさき将軍が邪魔立てせぬ内に一挙に殲滅してしまえ!」
信長は芳しくない戦況報告に苛立ち、終始機嫌が悪く、険しい表情で各将を叱咤した。
信長は焦っていた。
城攻めが長く続けば、未だ不穏な状況が続く畿内の治安が乱れ、三好党など敵対勢力がまた攻め入ってくる可能性は十分にある。伊勢の土豪など難なく落とせると思い大軍で出陣したが、予想外の抵抗の強さに寄せ手は二の足を踏んでいる。
信長の苛立ちの理由は、進まない城攻めだけでは無かった。
伊勢侵攻に至り、将軍義昭は北畠家攻撃に反対していた。
彼の本望は幕府再興であるから、国司である北畠氏を殲滅する事は本意ではない。しかし信長は、武力制圧による天下統一を目指しており、将軍の申し入れを易々と聞き入れる訳にはいかなかった。
「将軍の名代である我らに盾突く事は叛逆罪である! 大儀は我らにある!」
信長は義昭の意見を無視して一挙に伊勢を手に入れるべく出陣したのであり、戦況が長引けば、強引に侵攻した事を察した義昭から煩わしい横やりを入れられる可能性が大きい。洛中では未だ将軍の御供衆程度としてしか認識されていない信長にとり、今は義昭との対立は避けたい。
信長は床几の上で思うようにいかない状況に歯ぎしりした。
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城攻め開始からひと月が経過した。
吹き抜ける風は冷たさを帯び、伊勢の山々は真紅に染まっている。
焦燥する信長は、苛立ちを隠せず、膝を上下に揺すりながら一向に進まない戦況報告を受けていた。
側近も声を掛けられない程苛立つ彼の元に、早馬の使者が息を切らせ陣中に駆け付ける。
使者は肩で息を切らせ、信長の前に跪き言上した。
「将軍様より書状を預かってございます」
信長の顔色は一層の険しく歪む。
書状にはこう記してあった。
‐ 北畠への攻撃を速やかに中止し、和睦せよ —
「やはりしゃしゃりでおったか!」
信長は立ち上がり怒りの叫びを上げた。
周囲の諸将は背筋を反らせ、緊張する。
(……しかし無視を決め込むにも限界があろう)
怒り心頭の信長であったが、そのまま大きく嘆息し、静かに座り込んだ。
彼は諸将を集め命じた。
「将軍様より調停が入った。これ以上長陣するのも難しかろう」
決断の早い信長は、和談の使者を城側へ送る事に決めた。
(だが、将軍の思い通りにはさせぬぞ……)
信長は和議にあたり、次男の茶筅丸を北畠具房の養嗣子とする事、城を茶筅丸に明け渡し、具房、具教は他の城へ退去することを条件として突き付ける事としたのである。
「かなり強引な和睦でございますが、相手側はいかがするでしょうか……」
信長の半ば強硬策に、諸将の不安は拭えなかった。
一方、城側の具教親子も追い詰められていた。
「兵糧・弾薬も僅かばかりじゃ……。これ以上の籠城は難しい……」
このまま包囲が続けば、援軍の期待が出来ない北畠軍に勝機は無く、結局は降伏せざるを得ない。日々評定を続け妥協点を探っていた中、将軍からの使者が現れ告げる。
‐織田家との抗戦を止め、和議を結ぶべし‐
具房は降伏も脳裏によぎっていた矢先に将軍からの勅命を受け、窮地を救われる思いとなった。
「これはありがたい! 織田が応じれば、すぐに和睦を進めようぞ!」
しかし、いざ和談が進むと織田家からは受け入れがたい条件が申し入れられる。
具教は憤慨した。
「信長の子を養子に入れろだと! 結局は当家が織田家に奪われるだけではないか!」
家老衆からも「到底受け入れられぬ!」と怒声が飛び交う。
しかし当主である具房は、憤る父に対し伏し目がちに呟いた。
「しかしこれ以上抵抗しても行く末は、我らは攻め滅ぼされてしまいます。当家に不利な和睦とはいえ、織田の子息を迎え入れられれば当家の存続は保証されましょう」
具教は目を怒らせ息子を睨みつける。具房はにらまれると咄嗟に目を伏せた。
それまで憤り激しく怒声を上げていた具教であったが、「ふぅー」と大きくため息をつくと、握りしめていた拳を下ろした。
具教も、これ以上抵抗しても結局は殲滅される事を悟っている。しかし、武士として、名門北畠家の元当主として、敵に膝をつく事は許容しがたい。
しかし終始弱腰で、抗戦の意気込みすら一度として語らぬ息子を目の当たりにすると、もはや命を賭して決戦を行う気持ちにはなれなかった。
「……致し方なし」
具教は歯を食いしばりながら、信長の要求を受け入れる事とした。
十月三日、北畠具教はついに大河内城を明け渡し、霧山城近くの三瀬館へと退去する事で戦は終焉したのである。
「何だと! 和談を結べと申したが、北畠を乗っ取れとは申しておらぬぞ!」
伊勢の戦果を聞いた義昭は、御殿で怒声を上げた。
義昭は歯ぎしりして憤る。
「おのれ、信長め! どうしてもこの将軍を蔑ろにしたいと申すのだな!」
言うと右手に持つ扇子を畳に投げつけた。
―――
去る永禄十二年(一五六九年)一月十四日
三好軍による本圀寺の急襲後、信長は義昭と対面した。
義昭は上機嫌で応対するが、信長は彼の目を見つめながら神妙に語りだした。
「将軍様には一つお願いしたき事案がございます」
義昭は信長の目を凝視できず逸らすが、声色は変えずに答える。
「何ぞ、頼み事か? 何なりと申すがよい」
「然らば。義昭様には室町幕府将軍として先例に習い、この通りの行動規範を遵守して頂きたく存じます」
信長は言いながら書状を差し出した。
義昭は怪訝そうにその書状を受け取り、読み取ると表情を歪め、あからさまに不機嫌な態度をとる。
「これは中々に厳しき内容じゃな。 将軍にこの様な制約をつける理由は何ぞ?」
信長は義昭の悪態に反応する事なく、淡々と語る。
「義昭様は現在室町幕府第一五代将軍でございます。将軍様は天下の武将達の規範でなくてはなりません。自らの私利私欲で行動する事は足利家の名誉を汚す事と存じます。なれば、将軍様を補佐する私めが、幕府の先例・規範に乗っ取りその行動規範を定めした次第にございます」
義昭は自らの行動に品位が欠けると言われ、目を怒らせ何か言おうとするが、信長を見ると野獣に睨まれた様な感覚に囚われ、黙殺せざるを得なくなる。
確かに内容は行動を規制されるものであるが、君主としてあるべき規範の範疇であり、強く否定する事も出来ない。義昭は幕府の規範を打ち出された上、信長の異様な威圧感に押され、不満ながらも承認した。
信長はにこりと笑顔を見せる。
「将軍様の権利を奪おうというものではありません。私は義昭様に将軍として威厳を持って頂きたいのです。後ほど追加の条項がございますなれば、行く行く書状でお伝え申しあげます」
そう言うと速やかに屋敷を後にした。
義昭の承認した『殿中御掟九か条』の内容は以下の通りである。
・御用係や警備係、雑用係などの同朋衆など下級の使用人は前例通りをよしとする。
・公家衆・御供衆・申次の者は、将軍の御用があれば直ちに伺候すること。
・惣番衆は、呼ばれなくとも出動しなければならない。
・幕臣の家来が御所に用向きがある際は、信長の許可を得ること。それ以外に御所に近づくことは禁止する。
・訴訟は奉行人(織田家の家臣)の手を経ずに幕府・朝廷に内々に挙げてはならない。
将軍への直訴を禁止する。
・訴訟規定は従来通りとする。
・当番衆は、申次を経ずに何かを将軍に伝えてはならない。
・門跡や僧侶、比叡山延暦寺の僧兵、医師、陰陽師をみだりに殿中に入れないこと。足軽と猿楽師は呼ばれれば入ってもよい。
更に、十六日には寺領横領の禁止や訴訟への介入、理不尽な裁量の禁止など、追加七か条の御掟を提出し、これを承認させた。
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掟書により行動を制約されていた義昭は、信長が自身に許可も得ず伊勢に侵攻し、和談を命じても実質北畠を乗っ取る形で矛を収めた事を聞き激昂した。
「あやつめ! 将軍は誰だと思っておるのだ!」
叫び、屋敷の畳を踏みつけ憤るが、信長の後ろ盾無く政権を維持できるものではない事は、彼自身が一番よくわかっていた。
「今に見ておれよ……」
義昭は、怒りに耽るように呟いた。
(傲慢な傀儡めが。 誰のおかげで将軍になれたと思っておるのだ……)
侍・農民問わず当時の人々であれば誰しもが憧れ、畏敬の念を示す将軍という存在についても信長は合理的に冷めた解釈をする。
将軍の名を利用し畿内に覇を唱えた信長と、その軍事力を背景に将軍職に就任した義昭との間に亀裂が入るのも、もはや時間の問題であった。
— 第5章 『上洛』 終 —