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戦国立志伝・織田信長  作者: 意匠瑞
第五章 『上洛』
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【 五 】 副将軍

永禄一一年(一五六八年)一〇月二十八日


新将軍・足利義昭は、仮御殿である本圀寺に信長を呼び出した。


「この度の武功は誠に大儀であった。幕僚との協議の結果、お主には『室町殿御父むろまちどのおんちち』の称号を与えようと思う」


上座で胡坐を組む義昭は、機嫌良く信長の戦功を称える。

信長は深々と頭を下げ恐縮した。


「それは誠にありがたき幸せにございます」


義昭は、頭を下げる信長を見ると満足そうな笑みを浮かべ、言葉を続ける。


「そう畏まるでない。儂はお主を父の様に慕っておる。そんな称号だけではないぞ。お主には副将軍か官僚の地位を与えようと考えておる」


義昭は信長が狂喜すると思い反応を伺うが、特に驚いた様子も見せず、頭を上げると淡々と告げた。


「それは恐れ多い事でござります。私には到底、荷が重すぎると存じます」


義昭は驚き、思わず身を乗り出した。


「何じゃと! この様な名誉を辞退すると申すのか! お主は相応の活躍を果たしたではないか! それとも副将軍などでは満足せぬと申すか!」


信長は恐縮しながら冷静に答えた。


「その様な事では……。しかし未だ天下の情勢は不安定なまま。京は元より周辺国も戦乱の日々が続いております。それらが収まりし時に改めて考えたく存じます」


義昭は大袈裟に驚愕してみせる。


「何と奥ゆかしいばかりじゃ! しかしお主の働きに対し何も与えぬとはいかぬぞ! 何か欲しい物はないのか?」


信長は下げていた頭を上げると、義昭の目を見つめ応えた。


「然らば一つだけ所望致したき事がございます」



義昭は信長と目が合うと瞬時に逸らした。



恐縮した素振りをみせているが、目の奥には野獣の様な殺気と威圧感を宿している。

しかし義昭は内心を悟られぬ様、気に留めない様に笑顔を崩さず続ける。


「そうであろう! 何なりと望むがよい」 


「では、尾張・美濃領有の公認と旧・三好領であった堺を含む和泉一国の支配を所望致したく存じます」


義昭は再び驚愕して見せた。


「何と無欲な御仁であろうか! 本当にそのような事でよいのか? 他にも何でもよいのだぞ、申してみよ!」



しかし信長は、義昭の提案をすべて辞退した。


その後暫く押し問答は続いたが、信長は最後まで折れる事は無く、和泉守護に命じられるにとどまり、面会は終了した。



義昭は機嫌よく信長を御殿の外まで見送り、信長もこれに笑顔で応じる。

両者は、傍から見れば親子の様な昵懇の仲であった。




門前から信長の背を見送った後、義昭は嘆息した。


(副将軍を蹴り、和泉を望むだけとは……。何を考えておるか分からぬ奴じゃ。いや、高貴な称号の尊さに気付けぬ、所詮は田舎侍という事か……)


彼は信長の真意が読めず困惑している。

それに加え、信長の眼底に浮かぶ猛々しい闘気と怒気が彼を射竦めている様で、何とも言えぬ腹立ちを感じるのである。


「光秀の言う通り、手枷を付けられる者ではなさそうじゃ……」


信長が副将軍になれば、義昭は将軍の名の元、彼を手足として使うことが出来る。しかし信長は無機質な返答を繰り返すばかりであり、義昭の思惑はすべて見透かされていた。

念願の将軍となり有頂天であった義昭は、信長の目底に宿る軽蔑の念を感じると、やるせない気分と同時に、憤怒の思いが込み上げてくる。


「われは室町幕府の将軍であるぞ……」


義昭は奥歯を噛みしめ、屋敷へと戻っていった。




---




「岐阜に帰るとするか……」


将軍上洛の大儀を果たした信長は、数日の後に一度岐阜本城へと帰る事と決めた。


自ら馬を操り帰路につく彼は、義昭の狡猾な笑みを思い出し、険しい表情を浮かべる。


(誠につまらぬ奴よ……)


肉親を殺し、実力で戦国の世をのし上ってきた信長は、今や官位や役職など名ばかりの虚栄である事を知っている。

広く人心に植え付けられた官職の権威は、利用するものであって頼るものではない。力ある者が持ってして初めて、その効力を生むのである。


「俺のおかげで将軍になったにも関わらず、座に着けばすぐさまその権威に溺れ、すべての者共を見下す様な態度に出おる。この俺までをも平伏し、手駒として扱おうとは愚かな奴よ……」


信長には、時勢に翻弄され苦労してきた義昭が、将軍という権威を手に入れると、直ぐにその利権を横行し、しがみ付こうとする公家特有の貪欲な性質が我慢ならなかった。


「まあ良い。和泉を所望した時の、あやつの顔は中々に楽しめた。貴族共にこの真意など分かるはずもない」



和泉国所望の理由は、堺の独占にある。

堺港は日本有数の貿易拠点であり、経済の中心地であった。経済感覚優れる信長は、権威の所望よりも経済圏の確保を重視した訳である。


「今しばらくは将軍様と呼んでおこう」


信長は手綱に力を入れると馬を走らせ、少し笑みを見せた。

将軍の補佐官として京を抑えた信長には、これから想像もできない程の栄華への未来が開けたのである。



(吉乃……。天から見ておれ。俺が日の本を変えてしまうところを……)




近習達は突如走り出した信長に遅れまいと、慌てて後を追った。




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