【 三 】 浅井長政
「これは長政殿! 久しく会わぬうちに貫録が付きしことよ!」
信長はにこやかな表情で、恐縮する青年の肩を抱き言った。
戦国武将らしい精悍な顔つきの中にも、未だ幼さも残るこの青年は、信長の妹婿である浅井家当主・浅井長政である。
長政は義昭上洛に協力し、同盟者である信長を領国・佐和山城に迎え入れた。
去る永禄八年(一五六五年)、美濃攻略に苦戦する信長は斎藤家牽制の為、美濃北西部に隣接する北近江の浅井家に接近し、自身の妹である「お市の方」と、当主長政を政略結婚させていた。
浅井家は北近江の守護京極氏から下克上を果たした戦国大名である。
三代目当主の長政は、武勇に優れる美丈夫であると評判であった。
長政の父、久政は保守的で武勇に優れず、祖父亮政の築いた北近江の支配圏も不安定で保てなかった。挙句には仇敵であった六角氏に従属するなど外交も終始弱腰であった為、長政は不満を抱える家臣団を抑える為に父を強制的に隠居させ家督を継いだのである。
そして六角氏からの独立合戦を起こし、寡勢ながら大軍を撃破すると、北近江の支配圏を確立するに至っていた。
信長は旧体制に拘る父を隠居させ、合戦では無類の才能を見せる長政の器量を見込み、絶世の美女と称され、寵愛する我が妹を送り出したのであった。
「この度は御足労頂き、誠にかたじけなく存じ申します」
長政は恐縮して頭を下げた。
長政は二三歳、三四歳の信長と相対するのはお市を妻に迎えた後二度目である。
信長は満面の笑みを浮かべながら応える。
「そう固くなるな! お主は義理の弟じゃ! お市とも上手くいっておるようで儂も嬉しいぞ!」
そういい、わははと大笑した。
「お市は身重故、屋敷にてお待ち申し上げております」
信長は目を細め「それはうれしい限りじゃ」と優しい笑みを浮かべた。
お市を迎え入れ一年、夫婦仲も睦まじく既に子を宿していた。
近江国は美濃から京へ上る道上にある。
上洛を急ぐ信長は、同盟者である浅井家に協力を仰ぎ、長政はそれに応じたのであった。
「浅井が味方すれば、六角、朝倉も牽制出来るであろう」
そう打算的な考えを持つ一方で彼は、戦で無類の強さを見せる長政に注目している。保守的な父を追放し、新政権を発足させた新進気鋭の若武者の将来に期待を寄せているのである。
しかし織田家との婚姻は、浅井家にとって手放しに喜べぬ複雑な事情があった。
浅井家は、織田家と因縁深い朝倉家とも同盟を結んでいる為である。
浅井家が北近江で独立出来たのは、祖父亮政が越前国の太守朝倉家の後ろ盾を得た事で、守護京極氏や六角氏からの干渉を排除出来た為である。その為、両家は数代に渡り親密な間柄であり、「永代に渡り助け合う」という誓紙を取り交わした仲でもある。
一方で朝倉家と織田家は戦国初期からの因縁があった。
元々は越前・尾張の守護であった斯波氏の被官であった両家だが、朝倉家は戦国の気勢に乗り下剋上を遂げて独立を果たし、信長の生まれた織田弾正忠家は、尾張守護代の大和織田家の奉行という身分から、斯波家を補佐し成り上がった被官のそのまた被官である。
この経緯から朝倉家は織田弾正忠家を「陪臣」と下げずみ、織田は朝倉を「逆心」と罵る微妙な間柄なのである。
織田家からの同盟打診の際、浅井家中は大いに動揺し、父久政をはじめ、大多数が反対した。しかし長政は、戦国の世を生き残る為、反対を押し切り受け入れたのであった。
「長政殿も家臣の突き上げに苦労しておるであろう」
信長は、浅井家の抱える不安を理解し、同盟に際し「浅井家に無断で朝倉を攻撃しない」という条件を自らに課した。更には、通例婿側が負担する婚姻の費用を肩代わりするなど、叩頭してまで彼との好意的な関係を望んだのである。
近江北半国二十万石を有する浅井家の動員兵力は一二〇〇〇程に対し、今や尾張美濃一〇〇万石を統治する織田軍の総兵力は五〇〇〇〇を超える。信長にとっては、すでに小敵である。
浅井家中では、それほどの力関係の差があるにも関わらず、すり寄ってくる信長に不気味な思いを抱きつつも、当初反対していた諸将達も多くは好意的に捉えた。
「信長とは傍若無人と評判であったが、意外に話の通じる人物やも知れぬな」
その様な経緯のある中、上洛の為岐阜を進発した信長は、突如思い立った様に軍勢を美濃国境に残し、僅か一〇〇名ばかりの共をつけて浅井の領国である佐和山城へと向かったのである。
家臣達は驚き、口々に諫める。
「同盟国と言え、あまりに無謀にございます! せめて馬廻り衆だけでも連れてお行き下さい!」
しかし信長は意に介せず言う。
「それでは儂が浅井を信用していると示せぬではないか! 上洛を成功させるにはあ奴等の協力が不可欠じゃ。儂を信用していない者も多いと聞くなれば、こちらから好意を示さねば信頼は得られまい! 間違っても付いて参るなよ!」
そういい、早々と去って行った。
「若き日の破天荒さは変わらぬか……。 何事も無ければ良いが……」
家臣達は信長の厳命には逆らえず、心配しながら主君を見送るしか無かった。
「信長様が突如少数の供回りと共に、領内においででございます!」
「なんと!」
長政は驚嘆する。
いくら同盟者といえ、大名自ら軍も率いず他家の領内にやって来る事は異常事態であった。
「一先ず佐和山城にて出迎えるとお伝えしろ!」
長政は慌てて側近の遠藤喜右衛門を呼び出すと、応接役に命じた。
「信長殿は我らを心から信頼しておるようじゃ。粗相の無きよう、丁重にもてなしてくれ」
接遇役を引き受けた喜右衛門は、鋭い眼差しで静かに応じた。
「……畏まってございます……」
佐和山城内の屋敷では、急遽訪れた信長へのもてなしの為、盛大な宴会が開催された。
信長は、喜右衛門の配慮の行き届いた応接に大層満足し、長政と今後の上洛について語り合う。
「実に心強い若殿を味方につけしものよ。六角家との戦では古今無双の働きを見せ配下武将を心酔させたそうではないか。上洛の上は既得権益にしがみ付く保守的な輩を一新させるため、お主のような若武者が必要になるのでな」
信長は大笑しながら機嫌よく酒を口に運ぶ。
「誠にありがたきお言葉、かたじけなく存じます」
長政は義兄への緊張を解かず、恐縮してみせた。
「そう肩に力をいれるな。お市もお主のような才気あふれる武将へ輿入りでき、さぞ喜んでいるだろう」
普段酒を飲まない信長であったが、この日ばかりは終始機嫌よく浅井家の接遇にすべて応え、配下武将共々酔いしれた。
猜疑心強く常に胸中を明かさない信長であったが、上洛にあたり重要な同盟者である長政に対し、あえて無防備な姿を晒す事で信頼を得ようと努めた訳である。
浅井家にとっても尾張美濃の太守信長に睨まれることの無い様、細心の注意を払って応じる。
長政は、獰猛な野獣の如き男と聞いていた信長の見せる、子供のような屈託のない笑みを見ると胸を撫でおろした。
(無下に約束を破るような御仁ではあるまい。父上の心配は不要であろう……)
信長といざ相対するまで胸につかえていたのは、父久政の存在である。保守的な久政は、旧恩ある朝倉家との同盟を重んじており、織田家を敵対視していた。
「万が一織田が朝倉と敵対したらどうずるつもりじゃ」
久政は、信長が同盟時に提示した『浅井に無断で朝倉を攻撃しない』という約束など到底信じていない。約束の反故など戦国の世の常と思っているのだ。
更に朝倉義景も、義昭の要請した上洛に協力せず過ごす内、織田家に鞍替えされた形となった為、内心ではおもしろくない。
この上洛戦においても、浅井の緩衝がなければ妨害してくる可能性も十分にあった。
信長は朝倉家対策の為にも浅井家の協力は必要であり、長政の微妙な立場も理解している。それ故、命の危険を顧みず、過剰と言えるほどの媚態を示すのであった。
数刻に及ぶ宴会は深夜に及び、浅井と織田の友好関係は強固に構築できたと参加した諸将は誰もが感じていた。
長政は長きに渡る会食が終わると、夜虫の鈴の音が静かに鳴り響く静寂の中、ゆっくりと佐和山城内の屋敷へと戻った。
長政は昼夜の接待に疲弊し、畳に座り込むと一人呟く。
「信長殿は冷徹非情な人物と聞いておったが、中々愛嬌ある御仁ではないか。当面は信長殿、そしてお市とも仲睦まじくやっていけそうじゃ」
織田家はもはや浅井家単独では対抗できない強大な勢力となっており、未だ若者の長政にとっては非常に気を労する相手である。
夜着に着替え緊張から解き放たれた長政は、倒れる様に横になった。
冷たい夜風が部屋に静かに吹き抜ける。
目を瞑り暫しの眠りにつこうと意識が遠のいた瞬間、闇夜から囁く様な声が聞こえて来た。
「殿、お話が」
長政は驚き、咄嗟に上体を起き上がらせると、身を構える。
暗闇から浮き上がって来た人影は、喜右衛門であった。
「一体何事じゃ……!」
長政は、ただ事ではない事態であると直ぐに察し、宿直の者も遠ざけ、彼を招き入れた。
灯に薄暗く照らされた室内で、喜右衛門は長政の近くにすり寄ると、低い声色でゆっくりと語り出す。
「殿の今後の運命を左右する、一大決断を促しに参りました」
長政は喜右衛門の真剣な表情に威圧され、冷や汗をかきながら無言でごくりと唾を飲み込んだ。
喜右衛門は静かに続ける。
「信長を討つのは今を置いて他にありませぬ」
突然の言葉に、長政は雷に打たれたかのような衝撃を受け、背を仰け反り狼狽えた。
「何を血迷ったことを申す! 信長殿は当家を信じ、懇親を深めに参られたのだぞ! 同盟国としてこれ以上ない信頼関係を結べる事が出来た時に、何と申す!」
喜右衛門は長政の一喝に、表情ひとつ崩さず冷淡に応えた。
「当家を心より信頼しているとの姿勢を見せる為、敢えて無防備な状態で参られたのでしょう。大胆な男です。軍勢も遥か美濃国に留まっております。となれば、安心し寝入っている今を置いて他に、討ち果たせる時がございましょうか」
長政は動揺を隠さず、早口で返す。
「それを乱心と申すのではないか! その信頼を打ち崩せと……」
喜右衛門は長政の言葉を遮り多少語気強く語った。
「今信長は利用価値のある当家を懐柔しようと腹を見せているのです。しかし価値が無くなりし時には即座に我らに牙をむく、表裏比興の者であることは間違いございませぬ」
喜右衛門は長政の目の奥を覗き込み告げる。
「今信長を討ち果たし、即座に美濃へ侵攻を開始すれば、織田の諸将は悉く我らに屈する事は間違いございません。そのまま尾張へ攻め込めば瞬く間にこれも制圧できるでしょう。さすれば長政様は尾張美濃近江の太守となり、義昭様を奉じ、天下の号令を下せる第一人者となれるのです」
「……そのように上手く行く訳が……」
「かの今川家は、義元公が信長に討たれた後、どうなりましたでしょうか。 頭を捥がれた蛇など恐れるに足らずと証明されておるのです」
信長に敗れた今川家は、主君義元を失い、衰退の一途を辿っている。支配下であった三河国は配下の松平元康(徳川家康)に独立されると次々に領土を削られ、同盟者であった甲斐武田家からも即座に手を切られ、侵攻を開始された。
将軍家の血を引く今川という名家であれ、そのような急速な崩壊を防ぎ切れないとなれば、昨今急激に増大した織田家の結束などたかが知れている。喜右衛門はそう言っているのである。
「今この時が、浅井家の将来を左右する重要な決断の時である事を肝に銘じ、ご判断下さい」
長政は言葉が出なかった。
戦国の世とはいえ、信頼し心を許している相手をだまし討ちにする事はやはり道理に反する暴挙である。
しかし、長政の不安を喜右衛門は見透かしている。
上機嫌に笑顔で親睦を深めてくる信長であるが、対峙すると、その瞳の奥には相手の心底を見透かす冷たさが漂ってくる。この世の者は誰一人として信用していないという猜疑心が身体全体を纏っている様な不気味な男なのである。
困惑する長政を尻目に喜右衛門は言う。
「美濃を攻めあぐね当家の顔色を覗いし時の織田家と今では状況は全く異なります。戦にも時機というものがございます。時機を逃せばたちまち武運は去ってゆきます。勝機を読み、ご決断を下すのは当家を率いる御大将である長政様です」
長政は額から汗を流しながら下向きに呟いた。
暫し無言が続くが、喜右衛門はそれ以上発しない。時間が刻々と過ぎる中、絞り出す様に長政から出た言葉は「父上に相談しよう……」であった。
遠藤は苦々しい表情を一瞬見せるが「畏まってございます」と言い、静かに立ち上がった。
―――
「このような時に危急の評定とは一体何事じゃ……」
急遽、少数の主たる宿老達が集められた。
突然の事に誰もが疑心暗鬼となっている。
長政は諸将の動揺を感じ取りながら、淡々と語った。
「今浅井家は大きな岐路に立たされている……。即ち、ここで信長を討つか、否かという事じゃ……」
円座する宿老達は凍り付いた。
明らかに動揺を隠せず、その後言葉を発する者は一人もいない。
「皆の動揺はもっともであろう……。しかし、浅井家の明暗を分ける一大事じゃ。皆の意見を聞きたい」
しかし、尚誰も口を開こうとしない。
どの武将も、万が一信長を討つのであれば、この時を以て他にないという事を理解しているが、万が一失敗すれば破滅するのは浅井家である。
仮に謀殺に成功しても美濃併呑まで簡単にいくとも安易には思えない。
喜右衛門の意見に内心同調していても、素直に賛成できない程綱渡りの決断である。
失敗を恐れ踏みとどまるか、乾坤一擲に掛けるのか、各武将達は主君長政の判断に任せる他なかった。
皆が主家の運命を左右する決断に躊躇し閉口する中、旧主久政が開口一番に発したのは、意外な言葉であった。
「信長は信用置けない人物であるが、当家を信頼し我が領内に丸腰で参った。その信頼を裏切る行為は浅井家の名を汚す卑怯な行為であろう」
諸将は久政の言葉に驚きの色を隠せない。誰よりも即座に賛成すると思っていたからである。
しかし、久政は謀略よりも武士の大義を主張した。
彼の意見は筋の通ったものではあるが、大局・戦機を読む力は備わっていない。
長政は喜右衛門に心低の不安を指摘され、迷い困惑していたが、父の言葉を得ると安堵した。
「やはり道義に反する訳には行きませぬか……」
戦場では果断な決断を下す長政であったが、父久政へは頭が上がらない部分があった。
久政への反発から長政を担ぎ隠居させた家臣団だったが、未だ久政を支持する者も多く、家内の発言力は大きい。長政も隠居させた後ろめたさ故か、久政の意見を強く突き返すことが出来ない。
長政は襟を正すと、周囲に目をやり意見を求める。
「儂も義兄である信長殿を、自らの欲望に任せ、討ち果たす事は心苦しい部分もある。しかし世は弱肉強食の時代じゃ。喜右衛門の言う通り、ここで果断な行動に出れば、当家の繁栄に繋がる可能性もある。皆の意見を聞きたい」
しかし尚誰からも声は上がらない。長政は再び周囲を見渡すと、多少口調を強め言った。
「さすれば、この度の奇襲は見送る事と致す。我らは織田との同盟を重視するといたそう」
密談は結局、久政の一声で決する形となった。
その場では意見しなかった喜右衛門であったが、帰途、無駄を承知で長政に再び訴えた。
「殿。ご決断を否定する事は出来ませぬが、当家と家臣の将来をよくよく考えご検討下され。 そして一世一代の好機は今を置いて無い事を今一度肝にお銘じ下され」
しかし、もはや長政は喜右衛門の意見を受け入れる気にはなれなかった。
「喜右衛門のいう事は一理あれど、やはり父の言うとおり後世に汚名を残す行為は避けるべきであろう」
喜右衛門は、こと政治に関しては優柔不断な長政に、大将としての心構えを伝えてきたが、染み着いた性格は簡単には変える事が出来なかった。
「畏まり申した」
喜右衛門は表情を崩さず小声でそう答えるしか出来なかった。




