【 二 】 天下布武
「将軍を擁立し、天下の政を行う事を内外に示さねばならぬな」
義昭から上洛要請を受けた信長は、いよいよ志を天下統一に定め、書状には「天下布武」の朱印を使用し始めた。
この印判の「天下」とは天下の政権、即ち将軍家の権力支配を意味する。
これから次期将軍を奉じ、京に上洛を進める訳であるが、当然義昭の擁立を良しとしない三好三人衆とその同盟国はこれを阻止にかかるであろう。
更に敵は三好だけではない。
一大名が天下政権に関与する事を快く思わない各国の大名・寺社勢力・公家貴族衆・商人衆などその敵は未知数である。
それらの敵に対し、将軍を補佐する信長が、中枢(京を中心とした五畿内)を統治するという事への、正当性を示すものである。
当然、その大儀を打ち出すだけでは敵を抑える事は出来ない。
予想も出来ない未知の敵に対し、相応の軍事力・経済力も必要となるのである。
一〇〇万石の太守となった信長の軍事力は、六〇,〇〇〇万人を超える程までに拡大していた。無論、大兵団編成し運用する為には莫大な戦費が必要であり、小国を運営する時には必要の無かった大胆な経済政策が必要である。
信長は祖父信定から受け継いだ明敏な経済感覚を備えていた。
戦争に勝つためには敵よりも多くの兵力が必要であり、その為にはより多くの経済力を持つことが不可欠である。
戦国時代は、軍隊の衝突という戦争だけでなく、資金の集まる港町や漁港・金山銀山・寺社宗教勢力・商人衆などを支配圏に取り込むという、云わば経済戦争の側面も持ち合わせている。
信長の祖父信定は、領国近くの河港である津島の経済力に注目し、娘を津島の国人大橋重長へ輿入りさせる事で、その支配圏を得ていた。
これは当時の慣習からは考えられない大胆な政策である。
婚姻を決めた信定に対し、家老衆は猛反対した。
「武人が商人と血縁を結ぶ事など以ての外! どうかお考え直し下さい!」
斯波家の被官であり武家である織田家が国人商人と婚姻を結ぶ事は常識では考えられない。しかし信定は津島の経済的重要性を冷静に判断し、諸将の反対を押し切り断行したのであった。
「戦に負ければ即座に命を取られるのじゃ。体裁など何の意味があろう」
慣習を重んずる当時の精神と対極なこの合理的思考は、織田家の真髄であった。
以降、津島商人衆との結びつきの強い織田弾正忠家は、通常の武家とは違った流通経済の重要性を理解している。
信長の父信秀が、戦国武将として守護代を凌ぐ勢力を持ち台頭できた背景には、津島の富裕な経済力があったのである。
信長は膨れ上がった戦費を拠出する政策の一つとして、関所撤廃策を実行した。
関所の役割は他国者、いわゆる間者の侵入を阻止する為の検問所という役割と、徴税という自国への資金調達の目的もあった。国人衆など地場組織において、後者の権益は非常に重要な収入源である。
当然ながら関所が無くなれば物流経済は促進するが、税収は減少し、自国の情報の流出と間者侵入のリスクは増していく事となる。
しかし信長は、リスクよりも流通経済の重要性を説く。
「都市発展の妨げとなっているのは関所の他にならない。商人の重荷を軽減すれば自ずと城下に人が集まろう」
さらに道路・水路の整備を進め物流の効率化を図る。
小領主が割拠する戦国時代では道路整備はすなわち敵勢力侵攻を速やかにする側面も持つため、大道路整備という概念自体定石でなかった。
諸刃の剣といえる政策であるが、結果的に織田領国への商人・物資・交易が促進される事となり、更には数万人という大兵団の移動も容易になった。
また南近江の六角氏の政策に類似した楽市楽座という政策を取り入れ、座の独占を一部撤廃する。
当時の商業支配は「座」という商工協会の様なものが販売権・非課税権・不入権などを有し独占していたが、これを一部解体させ新興商工業者を育成しようと図ったのである。
更に、全国でばらばらであった「枡」の規格を京枡に統一し、年貢・物流の管理を正確にし、当時質のばらばらであった貨幣を良質の貨幣と悪質の貨幣との価値比率を定めた撰銭例を発行する等、各種政策の実行に着手する。
周囲の諸将は信長の軍略のみならず優れた経済感覚と柔軟性に驚きつつも、旧支配体制、いわゆる既得権益者の権利侵害に、不安を感じるものも多い。
しかし彼は、配下武将への専制君主ぶりとは変わり、領民への配慮は驚くほど慎重であった。
関所は大名のみならず寺社・荘園・土豪など途方もない数が無秩序に設置され、それぞれが貴重な収入源として管理していた。信長はそれらの支配者の反発を念頭に入れ、全面撤廃ではなく柔軟に取捨選択して妥協点を探りながら取り進める。
座の解体も当然すべての商人の特権を奪うのではなく、これも反発を考慮し一部の座の保護や御用商人化など柔軟な対応を心掛けた。
信長は流通経済の重要性と同時に、領民の支持を得る事が政権運営にとって欠かせない事であると分っている。良政を敷き景気が良くなれば当然他国からの移住者も増え、人口が増えれば更に経済は発展する。
「うつけ」と呼ばれた幼年期、領民と親しく接した信長は、他の富裕な大名家で英才教育を受けた武将達とは、一線を画した自国経営の感覚が養っている。木下藤吉郎の様な大胆な人材抜擢にもそれが現れているのである。
信長は、上洛という一大事業の準備を進めると同時に大規模な経済政策を進め、天下布武への基盤を築いていく。
戦乱で荒廃した町々は次第に活気が溢れ、人々の生活も徐々に豊かになり始めると、民衆からの支持は日増しに高まっていった。
「信長様は誠、すばらしき領主様じゃ」
しかし、民衆への配慮は細心である一方で、政策や軍事方針についてはいつからか配下武将の助言に聞く耳を持つことも無くなり、半独裁的となっていっていた。
吉乃を失った後、どこか心の余裕を失ったかのような信長は、御前に現れた武将達を威圧し、手足の様に動かす。
諸将たちは信長を恐れると同時に、手堅い領国経営と武略に加え、身分問わず手柄に応じて天井知らずに恩賞を与える主人に対し、絶対的な信頼を持ち、正に手駒としてがむしゃらに働くのであった。




