【 六 】 岐阜
永禄十年(一五六七年八月一日)
「もはや斎藤龍興の命運は尽きた。一挙に稲葉山城を攻め取る」
織田軍は全総力を挙げ、小牧山城を進発した。
遂に美濃三人衆が内応の意志を鮮明にし、人質を差し向ける旨の連絡を受けた為である。
「小癪なうつけ殿が! 返り討ちにしてやれ!」
織田の進軍を察知した龍興は、対抗しようと各諸将へ出陣の命令を発する。
しかし、一向に味方は現れなかった。
龍興はこの期に及んでも、軍令に応じない諸将達の行動が理解出来ない。
「味方は何をしておる! 早く軍勢を整え織田勢を迎え打つのじゃ!」
信長は想定通りとばかりにゆっくりと進軍し、美濃国境の長良川を抵抗なく渡り、難なく稲葉山城前方の平野に陣取る。
龍興は味方の召集に手間取り焦っていたが、城内には直臣衆八,〇〇〇人程がおり、強気な姿勢は崩さなかった。
「敵は四,〇〇〇ばかりの小勢で正面の平原に陣取ってございます」
物見からの注進を受けると龍興は気負い立った。
「我らに幾度となく敗退したにも関わらず、性懲りもなく小勢で来たのか! よし、一挙に殲滅してくれよう!」
龍興は自ら陣頭に立ち出陣し、織田軍前方に対峙した。
折からの強風により、旗指物は大きな羽音を鳴らし、軍勢は顔をしかめ舞飛ぶ埃から目を守り、前方の敵軍を見据える。
稲葉山城を背に進軍した斎藤勢は、鶴翼の陣形を作り一気に包み込む姿勢を見せた。横方に広げる陣形は、小勢の敵を包み込むに適している。
物見は本陣の龍興に注進する。
「後方より、お味方の御到着の様です」
龍興の出陣に呼応するかのように、城の右手後方の山間部より斎藤家の旗指物を掲げた軍勢が現れた。龍興は要請しても中々姿を現さなかった味方の援軍に喜ぶ。
「もはや勝敗は決したようじゃ! よし、正面から突撃し包み込め!」
龍興の号令と共に、大、大、大とホラ貝の音が平野へこだまする。
同時にドン・ドンと陣太鼓が打ち鳴らされ、斎藤軍の先鋒衆は、槍の穂先を並べ整列しながら前進を開始した。
「まだ動くな。敵を引きつけよ」
織田軍は敵の前進を見ても静かに傍観している。
斎藤軍は、地面を揺らすように響く太鼓の音に合わせ、徐々に足取りを早めながら織田軍の数町先まで近づいた。
「よし! 一斉に放て!」
信長は合図を送ると、前面で構えていた鉄砲隊は、一斉に火花を散らす。けたたましい轟音が大地に鳴り響き、同時に斎藤隊の前方の兵士は弾ける様に血しぶき上げなぎ倒された。
一瞬の静寂が流れた様に思えたが、斎藤隊は鉄砲の一斉射撃を物ともせず、不気味に前進を続けている。
鉄砲からは、黒々とした煙が強風に煽られ織田軍の視界を遮る。
「間を空けるな! 弓を放て!」
息を付かせず、弓隊は上空目掛け無数の矢を放つ。ヒュン、ヒュン、ヒュンと、大量の弓矢が上空に舞い、矢は敵軍の頭上に降り注ぎ、具足や盾、人馬に当たり、バサバサバサと無機質な音を奏でた。
「やられてばかりでいるな! 弓隊応戦せよ!」
斎藤勢の弓隊も前進し、先鋒隊の後方から弓を放つ。
両軍から弓矢の応酬がはじまると、信長は叫んだ。
「準備は整った! わが軍も前進せよ!」
織田陣営からも、大、大、大と法螺貝の音が鳴り渡り、全軍で前進を開始した。
先鋒の槍隊は盾を並べ、弓矢をはじき返しながら進む。
織田軍全軍の進軍を見ると、龍興は腕を上げ指示を出した。
「小競り合いをしても仕様があるまい! 数は圧倒的有利! こちらも全軍で包み込め!」
龍興の号令により、後方に控えていた斎藤勢本陣も動き出した。
更に、本陣後方の山頂に現れた味方も山を駆け下り、呼応するように戦場へと前進する。
平原には、怒声に満ちた喚声が響き渡り、数千人の人馬が動き出す地響きが大地に轟く。
両軍は前面に展開した槍隊から正面衝突した。
「敵は小勢じゃ! もたもたせず信長の首を討ち取ってまいれ!」
龍興は気負い叫ぶ。
長槍隊は両者横並びに揃い、槍を持ち上げ敵の頭上へと叩きつける。中央で槍の小競り合いを続ける内に、数に勝る斎藤隊は鶴翼に広がった陣形を徐々に中心に集約させ、織田軍を包み込むように覆った。
「恐れるな! 想定通りじゃ! 暫し我慢して防戦せよ!」
信長は冷静に応戦する。
「いいぞ! 信長の首は貰ったも同然じゃ!」
馬上で指揮を執る龍興は簡単に包囲した敵に油断し喜ぶように叫ぶが、突如物見が傍に駆け付け叫んだ。
「殿! 直ぐに部隊を集め円陣をお組み下さい!」
龍興は驚く。
「何じゃ! 今良いところではないか!」
水を差され側近を睨むが、自身の直ぐ耳の横をヒュンと弓矢がかすめた。龍興は突然の事に肝を冷やし固まる。直後に後方から喚声が上がった。
驚き後ろを振り返ると、後方を守る部隊が血にまみれ、我先に逃げ惑っている。
「なぜじゃ! なぜ後ろから突如敵が参ったのか!」
使い武者は声を荒げて注進する。
「後方より参りし部隊はお味方ではございません! 斎藤の旗印を背負った織田軍です!」
「何だと!」
龍興は驚愕する。
「円陣を組め! 城へ退却せよ!」
挟み撃ちを受けた龍興は、瞬く間に戦意喪失し、即座に退却の命令を下す。
前方で善戦を続けていた斎藤隊先鋒は、本陣の急襲を知るとたちまち足並みを乱す。
「それ! 敵は動揺したぞ! 龍興を城まで帰すな!」
信長は笑みを浮かべ突撃命令を下した。
信長は夜間の内に木下藤吉郎の別動隊を城の左側遠方の山間部へ遠回りさせた上で配置し、残りの少数の兵で城下町手前まで前進し布陣していた。
即ち、龍興をおびき寄せるために自らが囮となったのである。
戦経験の乏しい龍興は、物見の注進をそのまま真に受け、勇んで出陣した。媚びる配下のみ手元に置き、老臣を蔑ろにし、歴戦の武将衆を自ら遠ざけた龍興には、戦況を読む能力ある配下は周囲にいなくなっていた。
前後から挟撃され、絶体絶命の危機であったが、龍興の側近衆は身代わりになり、織田軍の猛追を食い止める。
「早く逃げるのじゃ! もたもたするな! 織田は残虐無慈悲な殺戮集団じゃ!」
龍興は側近による決死の奮闘により、命からがら稲葉山城へと退却した。
先鋒衆を壊滅させた信長は、慌てふためき逃げ去った龍興を見ると呆れた顔で呟く。
「これほど簡単に計略に嵌るとはな……。もはや龍興に領土を守り戦う意識は残っておらぬようじゃ。町を焼き払え!」
稲葉山城の城下町を焼き討ちした織田勢は城の周りを鹿砦で囲み裸城同然にすると、弓鉄砲を昼夜問わず城内に打ち込み続け、城兵の士気を削りにかかった。
後は日数を掛け、敵が消耗するのを待つばかりである。
脆くも壊滅した斎藤方に戦う意思はもはや残っていなかった。
八月十四日
包囲から約二週間、城方からの抵抗は日増しに減り、落城も目前である。
「強行し兵を損じる必要もなかろう。あとは龍興がいつ音を上げるかだ」
陣中の床几に座り、余裕を見せる信長の元に、使い番が訪れ告げた。
「斎藤家が武将、稲葉殿、安藤殿、氏家殿がおみえでございます」
信長は意外な表情を見せる。
「通せ」
斎藤家の中核を担う三武将は信長に目通りを許されると、頭を下げ言った。
「我等三人は龍興にほとほと愛想を尽かし、信長様にお味方すべく参りました」
信長は、頭を下げる剛将達を前に笑いながら大声で言った。
「お主たちが早くも戦場にまで来るとはな! もはや龍興の命運は尽きた様じゃ!」
三人は大柄な体を縮ませ、恐縮する。
信長は笑いながらも、三人を見据える様に睨むと言った。
「お主らの離反は即ち斎藤家の滅亡を意味しよう。それを理解しておるな?」
安藤は背筋を冷やす。
(何と恐ろしき威圧感じゃ……。 龍興様では手に負えぬ訳じゃ……)
戦場往来を重ねた三将であったが、皆同様に頭を下げ恭順を示す。
信長は納得したような表情を見せて言った。
「事態は良く理解した。お主共を道案内に一挙に城を落とそうではないか」
三将はひたすらに首を垂れるしかなかった。
いつの間にか、辺りは闇夜に包まれていた。
しかし鹿砦に囲まれた城の周りは煌々と松明が灯され、時折鉄砲の轟音が鳴り響き、城の壁に当たり、乾いた音が周囲にこだましている。
織田軍は、この二週間あまり昼夜を問わず弓鉄砲を城内へ浴びせ恫喝し続けていた。
信長は頃合いを見て示威の砲撃を止めさせる。
延々と繰り返されていた砲撃が止むと、城兵達は何事が始まるのかと恐怖し、塀越しに集まり織田軍を見守った。
すると、一人の男が櫓の上に現れる。
松明に照らされた男は、声高に叫んだ。
「城兵どもよ! 聞くがよい! 俺は織田信長だ! お主らの頼みの綱、美濃三人衆は挙って俺に寝返りおったぞ!」
信長は諸将の静止を無視し、大胆にも自ら櫓の上に立ち、城内に呼びかけたのだった。
城内は信長の姿を見ると恐怖し、静まり返る。彼の恫喝に、兵士たちは明らかに動揺した。
「それは誠か……」
信長は続ける。
「もはや援軍も見込めず、抵抗しても無駄だと諦め、潔く死ぬがよい!」
そういうとゆっくりと姿を消した。
城内から信長を狙撃しようという者は一人もいなかった。
大将自ら矢玉の的になるような行動は普通ではない。彼一人の死で、この戦況はひっくり返るのである。
しかし信長の恐ろしいまでの存在感を見た兵士たちは、到底龍興では太刀打ち出来る相手では無いと思い知り、攻撃する事も諦め、絶望した。
「そんな戯言! 信じられるか!」
龍興は激昂し怒声を挙げ喚きたてるが、もはや空回りでしかなかった。
側近達も絶望し、諫める者もいない。
龍興は力なく座り込み、涙ぐんだ。
彼はようやく自身の置かれた状況を理解し、政務を怠ったツケを悟った。歯ぎしりして悔しがるが、もはや手遅れである。
その時、城外から喚声が上がり、鉄砲の轟音が鳴り響いた。
織田軍による強行が始まったのである。
しかし、城内から応戦する者はいなかった。
守兵たちはもはや抵抗しても無駄と思い、ほとんどの者が城外へと姿を眩ませてしまっていた。
信長は包囲軍にわざと逃げ道を残す様指示しており、城兵達は我先へと逃げ去っていったのである。
「おのれ、不忠義者共め……!」
龍興は力のない怒り声を上げるが、自ら応戦する気力もない。
「城内には多数の抜け道がございます。織田軍が侵入する前に逃げ出しましょう!」
側近は龍興に腹を切る気が無い事を悟ると、焦らせるように声を掛ける。
龍興はいよいよ観念し、闇夜に紛れて脱出し堺方面へと落ち延びていった。
決戦に至り、難なく稲葉山城を攻略した信長は呟いた。
「誠に情けなき男だ」
信長はこの天下の堅城を以てすれば、織田の兵力のみでは易々と落とせない事を知っている。だからこそ時間を掛け内部崩壊を誘い、根気強く工作を着手していったのである。
もし龍興が人並みの統率力を持つ人物であれば、信長はいたずらに月日を費やす事となり、政権が足元から崩れ落ち、窮地に陥る可能性も十分に持ち合わせていたのである。
信長は攻略着手から実に七年の年月を掛け、美濃国を手中に入れた。
周りの風聞など気にせず、実に手堅く着実に地盤を固め進めてきた結果である。
桶狭間の戦いの様な乾坤一擲に掛ける戦は、いわば苦肉の策であって本来頼るべき戦法でない。逆にどんな着実な手段を取っても必ずしも成功するものではないという事も、先の戦いでの大きな教訓となっていたのである。
「人の心というのは誠に危うきものじゃ。誠に信におけるものなど到底おるまい。常に仕事を与え籠絡し、手足のように操り続ける事で理性を保てる生き物なのかも知れぬ……」
吉乃の死後、心神耗弱状態である事は身近に侍する小姓衆はそれとなく感じ取っている。配下武将に対し、表面的には以前と変わらぬ態度であったが、その悲しみの機微は伝わる。
気丈で道理をわきまえた才気あふれるあの信長が、ぼんやりと夕日を眺め、目に涙を浮かべる姿を見る事があるとは夢にも思わなかった。
しかしその様な中でも政務には一切の妥協を許さず、見事に美濃を手中に入れた。
信長は美濃攻略の為に居城としていた小牧山城を、四年という短期間で早々に退去し、稲葉山城を「岐阜城」と改名し、配下共々異動させ居城とした。
そして直ぐに近江など近隣国への侵攻について模索を進めている。
信長は、ひと時でも泳ぎを止めればたちまち死んでしまう魚の如く、激務に身を置いていた。それはまるで吉乃の面影を打ち消そうとするかのようであった。
「吉乃……。次は近江じゃ。 京を制する事も夢ではなくなったぞ……」
信長は、晴天に恵まれた岐阜城の天守から遠く広がる山々を見渡し、思いに耽っていた。
ひと時の休息を得ていた信長の前に、予想外の珍客が訪れる。
それは越前国主・朝倉義景の家臣という男の訪問であった。
「将軍家の足利義昭公を奉じ、上洛するご意志を確かめに参りました」
男は明智光秀と名乗った。
-- 第四章 『岐阜』 終 --




