【 三 】 蜂須賀衆
藤吉郎は颯爽と馬を走らせ、尾張国海東郡を支配する豪族、蜂須賀小六の元へ向かっていた。
藤吉郎は信長の真意を見抜いている。
自身では制御出来ない海東郡の国衆を、どうにか動かすという役割を請け負わせてくれたのである。
「小六も引くに引けぬのであろう。両者の仲たがいを仲介できるのは儂ぐらいじゃ!」
藤吉郎は大役を任された興奮が冷めやらぬといった様子で手綱を強く握りしめ馬を走らせた。
蜂須賀家は尾張と美濃国境近く、木曽川辺流を本拠としている。尾張国境の地侍の中でも最も勢威を張り、稲田家・青山家などの周辺の国衆をまとめ上げる実力者である。
土豪とはいえ、富裕な財力を保持し、広大な敷地には数々の屋敷が立ち並ぶ。辺鄙な集落とはかけ離れ、多くの人々が賑わう集落を形成していた。彼らはこの戦国期においても斎藤家や織田家などの大名からの侵攻を許さない独立勢力である。
現場に到着した藤吉郎は、高い塀で囲われた村内でも一際大きな屋敷の前を訪れた。彼が門を叩こうとすると、突然後ろから大きな声を掛けられる。
「これは藤吉郎! 久しぶりではないか! お主の活躍は聞いておるぞ!」
近づく声の主はいかにも戦国の武士らしく、浅黒く日焼けのした屈強な体つきの男である。
「これは将右衛門殿! お主もお元気そうで!」
男は小六と同じく尾張国境の国衆である、前野将右衛門長康であった。
将右衛門は、尾張国葉栗郡を収める豪族で、蜂須賀家とも懇意な間柄である。
将右衛門は、少年の様な屈託のない笑顔で話す。
「お主は只の小者で終わるような奴ではないと思っておったが、侍にまで上り詰めるとはな! 皆お主の出世を喜んでおる」
藤吉郎は恐縮した素振りで手を左右に振りながら応えた。
「いやいや、侍と言ってもまだまだ足軽頭になった程度じゃ。儂はこれからも高みを目指しますぞ!」
将右衛門は下品に大笑いした。
「わはは! これは失礼した! お主は将来大名になるのだったな!」
藤吉郎はひょうきんな身振りを咥えながら将右衛門の言葉に受け応えする。
秀吉は生駒家に出仕する間、蜂須賀小六や前野将右衛門とも親交を交わしていた。
所作に気の利く藤吉郎は、誰からも好かれる人物である。
談笑を続ける両者であったが、藤吉郎は頃合いを見計らい、語り掛ける。
「実は上様の命により、小六に頼みごとがあって参った次第じゃ……」
真剣な顔つきで来訪の理由を語る秀吉に、長康も察した様子で言う。
「到着早々、門前で悪かったな。信長様の事か……。中々難しいと思うが……」と言い、屋敷内に促した。
広間に通された藤吉郎の元へ、直ぐに小六が現れた。長い髭を蓄え、野獣の様な鋭い眼光を宿す大男は、その面構えとは裏腹な笑顔で彼を迎え入れた。
「これは藤吉! 元気そうだな! 足軽大将にまで上り詰めたらしいではないか!」
小六は広間内に響き渡る大声で笑いながら語り掛けた。
奔放な国衆をまとめ上げる小六は、普通の者では目を合わせて話すこともはばかれる程の威圧感を備えた剛将である。
生駒屋敷で初めて出会った二人だが、小六の様な荒くれ武者相手にも藤吉郎は動じず、得意の人たらし振りを発揮した。彼は直ぐに気に入られ、一時は小六の下で仕事をした事もある。両者は深い信頼で繋がれていた。
藤吉郎は包み隠さず小六に言う。
「この度、信長様より墨俣攻略の大役を任された。儂一人ではどうにも出来ぬ。どうかお主たちの力を貸してくれまいか」
小六のにこやかであった表情は、一気に真剣な面持ちに変わった。彼は鋭い眼差しで藤吉郎を睨みながら語りだす。
「信長様との関係はお主も知っておろう。儂はあの方と今後付き合っていく気は無いわい!」
藤吉郎は怯まず食って掛かった。
「お主らしくも無い言い草ではないか。過去の事をいつまでも引きずっては武士も廃ろうぞ!」
小六は露骨に機嫌を崩した表情を見せ、藤吉郎を恫喝するように迫る。
「なにを申すか! お主も桶狭間での我らの働きは知っておろう! 信長様が今の地位に付けたのも我らあっての事では無いのか!」
野獣の様な殺気を放つ小六に凄まれ、怯まない者はいない。
しかし藤吉郎は、恐れる素振りも見せず冷静そのものである。小六に凄まれても負けずと言い返した。
「それがお主らしくないと言っておるのだ。 過去はどうあれ信長様は時を待たずして美濃を制するであろう。その時までお主がその様な態度を取っておれば、只では済まされない事は十分に分っておるはずじゃ!」
小六は額に青筋を立てながらも「ぐっ」と口を紡いだ。
「お主は賢きお人じゃ。意地で破滅を望むほど阿呆ではあるまい。お主に付き添う配下の者共はどうするつもりなのじゃ」
小六は、真っすぐと自分を見つめる藤吉郎から目を逸らし、不満げな表情で応える。
「信長様は美濃を攻めあぐんでおるではないか。あの戦からもう六年も経っておる。国内外からもこのままでは危ういとの評判も聞こえて来ておるぞ……」
藤吉郎は待っていたとばかりに膝を叩いて応えた。
「そうじゃ! 今殿は墨俣を攻めあぐね困っておるのじゃ。だからこそお主が活躍を見せ、やはり蜂須賀衆は必要な存在じゃと、売込みが出来るではないか!」
小六は眉を下げ苦々しい表情で応える。
「しかし、我らの力なくして美濃を落とせないという状況であれば、手を貸す義理も無い事じゃ……」
藤吉郎は笑みを含んだ様な顔つきで、小六の顔を覗き込むように言った。
「斎藤龍興の評判については儂よりも詳しい筈じゃぞ。お主が手を貸さなくとも日を待たずして衰退する事は、火を見るよりも明らかじゃろう」
座敷は暫しの沈黙に包まれた。
小六は多数の素破(忍者)を抱え、各国の大名からも仕事を任される諜報機関としての機能ももっている。隣国にある斎藤家の内情は誰よりも詳しかった。
「……相変わらず口の達者な奴じゃ」
「では力を貸してくれるのだな!」
「いや、儂にも意地がある。そう簡単に返答は出来ぬわ。将右衛門はじめ、国衆の当主達とも相談する必要もあるのでのう……」
「そうか。ではお主の決心が付くまで儂はしばらくこの辺りでのんびりさせて貰うぞ」
「……」
藤吉郎は話が終わると、飄々とした態度で小六と別れた。
(小六は聡い者じゃ。必ず分かってくれるであろう)
彼は自信に満ちた表情で一人呟き、屋敷を後にした。
数日の内には返答がくるであろうと思い、そのまま集落に滞在する。蜂須賀家の者は皆、藤吉郎に好意を持っており、滞在中は多くの者が訪問してきた。
ある者は言う。
「頭領も頑固者でのう。このまま織田と疎遠になれば、困るのは自分達だと分かっておるのじゃ。しかし武士の面目が邪魔をして中々踏み切れんのであろうよ」
小六は、言葉では信長に対し恨み節であるが、所詮は一土豪に過ぎず信長が本気になればたちまち殲滅できる事は分かっている。蜂須賀家存続のためにも織田家との友好関係は必須であった。元々は部下であり、現在では織田家に仕える藤吉郎は、自分達国衆にとって利用価値のある重要な人物なのである。
無論、小六はその様な背景とは関係なく藤吉郎を好いている。彼の快活で底抜けに明るい性格は、周囲の者を引き寄せる魅力を持っていた。
「焦る事はない。頭領はこの機を逃すような愚か者ではない。だから我らも命を預けておるのじゃ」
幾日後、小六からの使者が来た。
「待っておりましたぞ!」
藤吉郎は軽い足取りで屋敷に向かった。
促された大広間に揚々として現れた彼であったが、俄かに緊張した。
広間には蜂須賀家に追従する、尾張国境付近の国衆の当主ら、二十人程が一堂に居並び、彼を迎えたのである。
荒武者衆をまとめあげる彼らの威圧感は並々ならぬものがあり、座敷は殺気に満ち溢れている様であった。
上座で胡坐を組む小六は、藤吉郎が恐る恐る対座するのを見ると、声高に話し出した。
「待たせてすまなかったな。ようやく結論が出た故、よく聞くがよい」
右手には前野将右衛門もおり、硬い表情で彼を見据えている。
小六はひとつ小さな咳払いをすると言った。
「藤吉郎、やはり我らは信長様の下で働く事は到底出来ぬわい」
藤吉郎は意外な返答に虚を突かれ、思わず立ち上がった。
「なんと! お主たちは信長様相手に玉砕するつもりか!」
室内は俄かにどよめき、小六は藤吉郎を制した。しかし、表情はどことなく笑みを含んでいる。
「まあ、そう慌てるでない。儂らは“信長様には”と申したのじゃ」
立ち上がり拳を握りしめる藤吉郎であったが、意外な返答を聞き、目を丸め、きょとんとした表情で応えた。
「どういう意味じゃ」
「儂らは、やはり信長様には到底ついていけぬというのが総意じゃ。……しかし、お主であったら我等も喜んで手を貸そうという事じゃ」
状況が把握できない藤吉郎は、ぽかんと口を開けたままである。座列の面々を見渡すと、皆崩れた表情で彼を見つめている。
小六はガハハと、笑いながら言った。
「いつも察しの良いお主らしくないな! 我らはお主の配下になろうと言っておるのだ!」
藤吉郎は突然の申し出に驚き、腰から砕ける様に後ずさりしながら言った。
「何と申したのだ! 儂はお主たちのお蔭で卑賤の身から信長様に取り立てられた様なものじゃぞ! そのような恩人を配下になど到底出来る訳がなかろう!」
それまで笑みを浮かべていた小六は真剣な表情になり、強い口調で言った。
「儂らはこの数日間本気になって議論したのじゃ! この申し出を信長様に納得させられなければ、お主ともこれまでという事じゃ!」
藤吉郎は力が抜け、座り込み、そして大きく嘆息した。
(一体何を考えておるのか……。しかし小六がこう言った以上、もはや何を言っても無駄であろう……)
藤吉郎はこれ以上の押し問答は不要と察し、目柱に溜まった涙を袖で拭いながら応えた。
「何と儂は幸せ者なのじゃ。お主たちの心意気、しかと受け止めよう……」
藤吉郎はそういうとまた袖で目を抑え俯く。
小六も涙を浮かべながら彼に近寄り、そっと手を取ると、両者は無言で抱き合った。