【三】敦盛
同日、午前二時
信長は寝屋に籠ったまま瞑想を続けていた。
深夜になっても気温はそれほど下がらず、強い湿気は着物と肌に絡みつき不快感は一層増す。
評定に集まっていた武将達も不安なまま各自の屋敷に戻っている。
信長が軍議にまともに臨まなかったのは、多数の今川の間者(忍者)や内通者が城の内外に侵入しているからである。
今頃義元の元には「信長は万策尽き、清州で呆然と時間が過ぎるのを待つばかり」とでも報告しているであろう。
数刻先の生死すら知れない信長であったが、意外な程落ち着いていた。
(俺は生まれた時から家族や側近達から命を狙われてきた。今更何を恐れる事があろうか。すべきことは命の限り運命に抗う事だけだ!)
その時、丸根砦から危急を告げる急使が到着した。
汗と泥まみれの使者は肩で大きく息しながら告げる。
「今川の先方、松平勢と朝比奈勢が丸根・鷲津砦に迫ってございます!」
信長はカッと目を見開き、待ち構えていた様に立ち上がると、大声で小姓に命じた。
「法螺貝を吹け! 戦の支度をしろ!」
城内には大、大、大と出陣の合図がこだました。
にわかに周囲は色めき立ち、慌ただしく走りまわる士卒達の足音と怒声が響き渡る。
静寂に包まれていた城内は瞬く間に戦場の中にいる様に殺気立った。
騒がしい周囲をよそに、信長は瞳を瞑ると、ゆっくりとした動作で、幸若舞「敦盛」を舞い始める。
『人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を得て 滅せぬもののあるべきか……』
信長が日頃好んで舞うこの「敦盛」は、現世の無常と儚さを現す舞である。
周囲を敵で囲まれ、肉親や直臣の死を乗り越えてきた信長は、人の世の儚さを諦念し、この達観した冷めた死生観を育んできたのである。
「死は今も後もいつでも目の前に訪れる。ならば抗ってやろう!」
舞を終えた信長は小姓に命じ、立ったまま湯漬けをかき込み具足を付け叫んだ。
「今こそ出陣だ! 用意の遅き者どもは熱田に向かうが良い!」
そう叫ぶと、馬に乗り単騎で城を飛び出した。
信長の突然の出陣に慌てて付いて来られたのは、わずか五騎あまりの従者のみである。
城下で待機していた諸将達は、突然神速の勢いで飛び出していった主人を知り、驚愕する。
「何と! 突然の出陣とは! 信長様の破天荒ぶりには毎度肝をつぶされるわ!」
各将は驚きあわてながら、急ぎ信長の後を追った。